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かっこいいことは なんて

「かっこいいことは なんて
かっこ悪いんだろう」

これは、早川義夫ソロアルバムのタイトルだ。このアルバムリリースの後、早川は本屋の主人となり、20年近く表舞台から姿を消すことになる。

学生の頃おれは、ずいぶんと前にリリースされたこのアルバムのタイトルがいたく気に入り、よく聴いていたのだ。
早川の真意がどこにあったのかは解らないが、自分もまた「カッコいい」ことへの漠然とした不安というか、気恥ずかしさや脆さを感じていて、なんだか共感するところがあったのだと思う。

まあ、たいがいの「かっこいいこと」は、本人が気が付いていようがいまいが、滑稽で「かっこ悪い」ことと背中合わせなものだ。

おれ自身の経験でいえば、高校生の時、生まれ育った田舎の町をサングラスを掛けて闊歩していた。
アメリカの西海岸のように日差しが眩しいはずもない。北の町は、なんなら日差しそのものが弱々しいくらいなものだ。そんな中、背伸びをして気負った高校生が、最高にかっこいいと思いこみ歩く姿は、さぞ「かっこ悪かった」ことだろう。

道具にしても所作にしても、それらが生また必然性や背景があるものだ。そして、かっこよく在るためには、その知識や経験が必要になる。
それらが無ければ、やはりどこか滑稽で薄っぺらになってしまうものだ。そう考えると、その裏付けがないものは、ダサさの危うさからは逃れられないものなのだろう。

早川義夫の話に戻る。彼自身、あんなにもオリジナリティー溢れる音楽を創り出しながら、日本人であるが故に、その音楽が海外に由来するものである限り、どうしてもそこに「かっこ悪い」部分を見ずにはいられなっかのではないだろうか。
前出の「かっこいいことはなんてかっこ悪いのだろう」に収められた楽曲は、日本的な情緒に溢れた素晴しいものになっている。
それでも、その「かっこいい」「すばらしい」と感じているもが、本来的に本物には成りきれないという思い、イコール「かっこ悪い」と思う気持ちの葛藤が、そのアルバムの根底に流れている気がする。
さらに言うなら、まがい物ではない本物が「かっこよさ」であるならば、それを自身に当てはめると、自分の「かっこ悪い」姿を含め全てをさらけ出すことに他ならない。
本物の「かっこいい」ことを突き詰めたその先に帰結するのは、「かっこ悪い」己の姿ということになる。
結果的に、このアルバムに収められた曲全てが、どこか「かっこ悪い」ものとしての恥じらいを内包しているのうに感じられるのだ。
おれ自身は、そこに引かれていたのだと思う。

「かっこいいことは なんてかっこ悪いんだろう」

どんなにがんばっても「かっこ悪い」から逃れられないのであれば、『かっこいいことは捨てよ町へでよう』だ。
かっこよく在る必要なんてないのだ。
かっこいい、かっこ悪いではなく、「好き」だったり「気持ちいい」だったり、時に「やさしい」だったり。
そんなことを基準に行動できたら「かっこ悪い」ことにはならないよな気がする。

「あぁ~、かっこよく在りたいと思う自分におさらばしたい…」
長々と書いたけれど、なんのことはない、最近性懲りもなくやらかしてしまったことを悔いているだけなのだ。

#エッセイ #早川義男 #音楽 #かっこいい #かっこ悪い #恥ずかしい #後悔


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