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鳥よ、おまえはどこで生きるのだ

「ここには何もない」

そのことを分かってから、もう随分と経つ。

この暗い洞窟に落とされて、長い月日が過ぎたのだ。
なぜ落とされたのかもよく覚えてはいない。落とされたのではなく、落ちたのだったか。それとも自ら入ったのか。
今ではそんな事も、どおでもよくなってしまった。

最初のうち、何もないこの洞窟でさえ、ちょっとした冒険に思えたりした。
おまけに、不思議と安らぎを感じる時さえあった。
しかし、さすがに何もない事が分かってからは、ここから出ることを真剣に考えなければと思うようになった。
それでも、何をどおすれば良いか考えあぐねているうちに陽は沈み、遠くぽっかりと空いた天井には、何もかもを許してくれるかのように、星たちがキラキラと輝くのだった。
その時ばかりは「ここに居て良かった」と心から思えるから不思議だ。
明日になればまた、この何もない洞窟が不安の住処になるのだと分かっていても。
そんな悶々とした日々が長く長く続いた。

それでも少しばかり行動に移せるようにはなって行った。
まずは、空からの明かりが届く範囲を探索することにしてみたのだ。
数日は、そんな事でさえ「何かをやった感」を充分に感じることができた。
しかし、手の届く範囲で見つかるものは当たり前に何も無かった。
そんな日を続けていると、範囲を広げたところで何も無いように思えてくるものだ。
ここに無いものは、その先を探しても同じく何も無い。今こうして動いていることも無駄なのではないか、と。
そうして、その先の光とどかぬ暗闇へ踏み出すことを、慎重に避ける日が続いた。

そんなある日、小さな鳥がこの洞窟に迷い込んで来たのだ。

長い月日の中で、遠く見上げた空を、気持ち良さそうに飛び交う鳥の影を何度かは見かけたことはあった。それが今は、そっと手を伸ばせば触れられるくらいの距離に、可愛らしいく地面を啄ばんでいる。
遠くから差し込む日の光の下でさえ、覚めるような青色の鳥だった。

さぞ輝く太陽の下では美しいことだろう。
「そうだ。この洞窟の外には、ここから見上げる星以外にも、たくさんの美しいものに溢れていたんだ」
それを思い出し、無性に外への焦がれる思いが溢れてきた。

次の日から、ジリジリとした範囲ではあるものの、光の届かぬ暗闇への探索を始めた。
それは、思っていた以上に心と身体を疲弊させた。
くじけることも正直ままあった。
それでも、一度思い出してしまった美しいものへの焦がれる思いが、心を奮い立たせるのだ。
あれからどれくらいの時が過ぎたのだろう。
ひょっとすると、このまま外へは出れないのではないか… そんな思いに押しつぶされそうになった時、わずかに光の漏れる場所を探し当てたのだ。
それは、瓦礫がうず高く積まれたその先に、まるで都会の夜空に浮かぶ名も知れぬか弱い星の様におぼろげな光だった。
縋るように、祈るように、夢中で瓦礫を登り、無我夢中で岩を取り除いて行く。
どのくらいそうしていたのかも分からなくなった時、突然大きな音とともに目の前に青空が広がった。
「ああ…」あまりにも眩しいその光と、むせるような現実の匂いに、言葉も出ぬままその場に倒れこんだ。

どのくらいそうしていたのだろう。
気がつくと、あの照りつける太陽は音もなく傾き、足早に地平線に飲み込まれて行くところだ。まるで燃え尽きるように空を染めながら。

「なんて美しいんだろう」

この美しさはなんなんだ。そうだ。この世はこんなにも美しいことに溢れていたのだ。
振り返った空には、闇を手招きするように月が輝きはじめていた。
あの洞窟からは決して見ることの出来ない光景が、そこには広がっているのだった。
自然と涙が溢れだす。
ただただ泣き続けた。

その時、ふと眼下に目を向けると、あの日あの時と変わらぬ日常が、別世界の様に広がっていた。

こんなにも美しい空の下で、あらゆる欲望が渦巻く世界が怪しく輝き横たわっている。まるでこの世の美しさを、覆ってしまうかのような輝きをたたえて。

「嗚呼、思い出した。この醜いものから脱がれるように、この欲望の世界から逃れるために、自分からあの洞窟に身を投げ出したのだ」

洞窟の外の世界は、美しくかけがえのないものと同じ数だけ、醜く辛いものにも溢れる世界でもあったのだ。

振り返ると、そこには今這い出てきだばかりの洞窟の口が静かな暗闇をたたえている。

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