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哲学の世界から見たデザインとは。論拠Argumentの真髄|古賀 徹さん

6月22日、武蔵野美術大学 大学院造形構想研究科 クリエイティブリーダシップコース クリエイティブリーダシップ特論Ⅱ 第6回の授業内にて、九州大学芸術工学研究院の古賀徹先生のお話を聴講しました。

「ポストインダストリアル時代のデザインとリーダーシップ」というお題で、ポストを語るためにインダストリアル前の時代まで遡って現象を捉え直し、この先どうなるのかということを投げかけてくださいました。

古賀先生は、哲学が専門で「デザインに哲学は必要か」という本を出版されています。ムサビに通い始めて1年、あらゆる授業や研究で触れるデザインやアートの本髄はどこにあるのか、それは哲学であるように感じています。知見を深めれば深めるほど、哲学とデザインやアートがどのほど密接なのかを思い知ります。哲学とは「これまでの常識に対し、疑問を呈すること」、その態度(Attitude)はやはりデザイン・アートに取組む人間の出発点として必要であり、デザインに哲学は必要なんでしょう、というのが私の結論です。

インダストリアル時代(工業化時代)にて失われてしまったものは何か?それはデザインにおける有機性。有機的とは、内部にあるものが外部へと湧き出すものであり、それが工業化以前の時代にはあったという。

工業化以前の時代、ルネサンス時代に遠近法という概念があった。しかしながら、ヴァザーリは遠くにある聖母を小さく造るのではなく大きく造った。(以下、ミケランジェロ)下から見上げた人間の眼にどう映るかを構想し、見る人にとってそれがあたかもそこにあるかのように釘付けになるようなリアリティを醸し出しているとのこと。つまり、人は物を見る時に眼を使ってデザインしているということです。


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人が物を見るということは機械性の流れの一環であり、外的なものに触れて内面に取り込んでいく。一方で、概念を形にしていく構想Inventionについて、ジョルジョ・ヴァザーリはこう語っている。「ディゼーニョを訓練してきたこの手は芸術の完全さと卓越性、および創作者の知の双方をもとのしらしめるのだからである」これは創造する手は手段ではなくて、訓練されている手がむしろ形にしているということ。

内なる魂・気持ちを訓練された手で構想して創造していくこと、まさに有機論の流れとなる。有機論の流れがなくなり、真逆の機械性という外部からの影響による運動が優勢になり、それが意識させられることによってインダストリアル社会においてデザインが客観的で無機質なものに偏重したのだと考えられる。

また、別の側面からの話として、ジャンバッティスタ・ヴィーコは「自分の足元にあるものを飛び越えて、遠く隔たった場所から自分の扱っていることがらに適した論拠を探し出してくる人々のことである」。ヴィーコは、それまでのデカルトの機械論に対して問いを投げかけた重要な人物で、有機論の重要性を語ると共に、自分が思ってもみなかったものが導かれること、それは扱っている事柄に適した論拠を探し出してくる人々のことが重要だと言っている。

2つのバラバラだったものから何かをつなげて答えを導く様をアリストテレスのArgumentで表されるが、それは人間の内面から生まれるということが主メッセージだということ。そのように自分の内面から物事を生んでいくさまそういった、指導者・リーダーが増えていかなければならないと提言している。それがTopica=助力型、身体性優位型で、工業化時代のCriticaという指導者と反対を意味している。これからのポストインダストリアル社会において、Topicaという姿勢をもつことが重要であると語られた。

社会がより有機性が重視される世界がくるなか、自身は内発的なことから物事を提言できるような人物でありたいと思う。内発的なものから生まれた発見により伝えることが真のArgumentであり、それを続けられる人材でいたいと思う。


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