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本を読むこと。 ~ 不死身の特攻兵を読んで命の尊さとマネジメントの責任を考える ~

「特攻」それは言わずとも知れた、太平洋戦争末期に日本軍が戦局を打開するために、飛行機に爆弾を積み込み戦艦に体当たりをするという作戦です。

私はこの無謀な作戦の是非について論じるだけの知識を持ち合わせていませんし、それを論じられるのは戦争当時「特攻」に関わった人間のみであると思います。

ただこの作戦において9回出撃し、9回帰ってきた男がいるということを鴻上 尚史著「不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか」のレビューを読んで知ることになります。

あの時代、規律がすべての軍の命令に背いて、生還した男の心情や背景にとても興味がわき、本書を手にしました。

「特攻」という作戦に関わった人間の心情を様々な文献から読み解き、当時の様子をリアルに書き上げた本書は戦争の悲惨さもさることながら「失敗の本質」についても多く学ぶことができると思います。

そして、本書が書き上げられるきっかけとなった9回の特攻作戦に9回生還した奇跡の軍神はつい最近まで北海道、札幌市の病院で生きていました。(2016年2月9日死去)

本書には亡くなる数ヶ月前にインタビューした内容も含まれています。
戦時中、2回もお葬式を上げることになり、その後92歳まで生きることになった軍神、佐々木 友次さんの生き方や言葉に命の尊さを想います。

特攻とプライドの問題

佐々木の所属していた陸軍特攻隊「万朶隊」の隊長は操縦と爆撃の名手と言われた岩本益臣大尉でありました。

岩本隊長は跳飛爆撃といって一度爆弾を海に弾ませて(石を横投げで水面に跳ねさせると同様の原理)船体の横に命中させる名手であり研究と演習を重ねていました。

「特攻」の推進派は戦況が悪化し、未熟なパイロットが増えて急降下爆撃が難しくなっているとの理由で作戦の合理性を説きましたが、最前線で飛行機に乗っている岩本らは理論的に「特攻」では戦艦を沈ませることは難しく、ただ命と飛行機を無駄にするだけだと陸軍の航空本部と爆弾製造を担う航空技術研究所に公文書を提出しています。

上層部は理論的に都合が悪くなると、「崇高な精神力は、科学を超越して奇跡をあらわす」と技術研究所であるのにも関わらず精神論で体当たりを主張しました。

そうして岩本大尉は跳飛爆撃の訓練を続けながら、アメリカ機並の飛行機の製造を待ちますが、岩本の元に届いたのは飛行機の先端に三本の爆弾の起爆スイッチのついた九九双軽だったのです。

そして、飛行機が届いた翌日に岩本大尉、佐々木らはこの飛行機に乗って南方へ行くことを命令されます。

つまり、陸軍最初の特攻隊として任命されたのでした。
これは上層部の政治的意図があったと言わざる得ないと本書では書いています。

跳飛爆撃の名手で操縦技術も高い岩本大尉が陸軍の最初の特攻隊となれば「もはや特攻しかないという」というキャンペーンになり、特攻を否定した岩本大尉が一番に特攻をしたのだから今後は誰も逆らえなくなるのでないか。

こうして陸軍最初の特攻隊である「万朶隊」は岩本大尉はじめ、陸軍士官学校出身のエリートである将校操縦者4名、佐々木ら下士官操縦者8名、通信係4名、機体整備士11名という編成されました。

いずれも航空技術の高いパイロットが集められたのは、陸軍参謀本部はなんとして一回目の体当たり攻撃を成功させなければならなかったからだといいます。

しかしながら「特攻」という作戦は操縦者の技術と努力の否定でした。

有能はパイロット達は優秀だからこそパイロットとしてのプライドがあります。

アメリカ艦船を沈める目的のため訓練中に多くの殉職者を出す厳しい訓練に耐えて、血の滲むような努力を重ねてきた最後が成功する確率の低い、ただの体当たりなのですがら、その心中は無念極まりないことは想像に難くありません。

特攻の先陣を切ったのは海軍の敷島隊でした。
敷島隊の隊長である関大尉は「特攻」に行く前に新聞記者のインタビューにこう答えています。

「報道班員、日本もお終いだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当りせずとも敵母艦の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある」

このように「特攻」作戦の先陣を切るために選ばれた優秀な者たちは、明らかに「命令」されて集められ、そしてこれまでの努力を否定され、プライドを傷つけれられながらも「お国のため」と残された家族や友人のために葛藤や苦悩を抱えて飛んでいたのです。

このような優秀な人材、素質を殺すのはやはり想像力の足りない無能な人間なのだと改めて感じました。

「特攻」と作戦と比較して現在のビジネスやマネジメントを語ることは不謹慎なのかもしれませんが、いつの時代もこのようなことは横行しており、歴史から学ぶことの大切さを教えてくれます。

人間は容易なことで死ぬもんじゃないぞ

岩本大尉を隊長とした「万朶隊」に佐々木は所属することになります。

佐々木はこの隊では最年少でしたが、とにかく飛行機が好きで何時間でも乗っていられる、好きだからこそ手足を動かすように飛行機を操ることができるようになり、優秀パイロットとして育っていきます。

「特攻」と作戦を命じられたときも、他のメンバーに比べ佐々木はどこかドライで、淡々と飛行機の整備をしていたと描写もあります。それは「俺は死ぬはずがない」との想いがあったからでした。

佐々木の父は日露戦争で旅順の203高知を攻撃する決死隊の白襷隊の一員でした。

夜間に白襷を肩からかけて、高地の斜面を登り、敵陣地を急襲しようという部隊でしたが、夜の闇の中で白襷は帰って目標になり、ロシア軍の機関銃は白い襷を目標に銃弾を浴びせます。

決死隊である白襷隊は全滅に近い悲劇にあいますが、佐々木の父はこの激戦の中で生き残ることになり故郷へ帰還します。

「人間は容易に死ぬものではない」

この父の生への自信と揺るぎない信念は子供達に繰り返し教え込まれ、人生の希望となります。

当初の特攻機には爆弾を落とす装置はついていませんでしたが、岩本隊長が飛行機の整備士に手動での爆弾の落とし方を教えてもらいます。

そこで岩本隊長は隊のメンバーにこう告げます。

「爆弾を命中させることが目的で体当たりで死ぬことが目的ではない、自分の生命と技術を、最も有意義に使い生かし、できるだけ多くの敵艦を沈めたい」

「これぞという目標を捉えるまでは、何度でもやり直しをしていい。それまでは命を大切に使うことだ。決して無駄な死に方をしては行けないぞ」

この言葉を聞いて佐々木の心の中につかえていたものが一気にとれることになります。

「俺は死なない」

佐々木は1回目の出撃で敵の揚陸船に爆弾を落とし、そのまま海へ激突スレスレで急上昇、もともとの避難場所予定だったミンダナオ島へ着陸し生還しました。

この戦果は戦艦を沈めたとして水増しされ発表され、さらに佐々木は戦死扱いとなり大本営発表されます。

このときに佐々木の実家では1回目の葬式が催されました。

大本営発表は天皇直々の発表であり嘘があってはなりません。
そのため生還した佐々木は消された存在となり、その後の作戦では必ず「死んでくるように」と言い渡されるようになります。

佐々木はその後合計9回の出撃命令が出されますが、すべて生還しており、そのほとんどは作戦の決行以前のトラブルやアメリカ軍の攻撃による作戦中止、佐々木は死なせないと仲間による配慮によるものでした。

4回目の出撃命令時、参謀長に「立派に体当たりするように」と言われたとき、佐々木はこう答えます。

「私は必中攻撃でも死ななくてもいいと思います。その代わり、死ぬまで何度でも行って爆弾を命中させます」

佐々木の反論は軍隊では異例のことでありしたが、覚悟を決めた強さがそこにはありました。

6回目の出撃では1回目同様、大型戦艦を大破させる戦果を挙げて帰ってきます。

この時、佐々木は大本営発表により2回目の戦死が報告され、佐々木の実家当別では2度目のお葬式が催されることになります。

そして合計9回の出撃命令とマラリアやフィリピンの山中で飢餓と戦いながら、終戦を迎え、佐々木は生き延びて故郷、北海道当別村へ帰ることが叶いました。

まさに、生きる執念が呼び起こした奇跡でした。
このことを佐々木はインタビューでこう答えます。

「やっぱり寿命ですよ、寿命に結びつけるほかないの、逃げるわけにはいかない、気力は失わなかった、先祖の霊に支えられているっていう一言です」

無能なリーダー

さて、この万朶隊きっての有能な隊長であった佐々木大尉ですが、参謀司令長官「冨永恭次」司令官に飛行場から90キロ離れたマニラに来るように呼び出しを受けます。

その目的は陸軍最初の特攻隊員との宴会であり、佐々木含めた4名の将校が呼び出されました。

アメリカ軍機が飛び交う中、機銃の装備がない九九双軽で護衛の飛行機がつかないまま4名を乗せた飛行機はマニラに向けて飛び立ちました。

その途中でアメリカ機に見つかり撃ち落とされてしまいます。

佐々木隊長含めた4名の将校は即死状態で発見されます。
司令官の無謀で理不尽な呼び出しにより優秀なパイロット達が作戦の前に亡くなってしまったのです。

この冨永司令官はこの後、残った隊員に「諸子らだけを体当たりで死なせるのではない、第四航空軍の飛行機全部続く、そして最後の一機にはこの冨永が乗って体当たりする決心である」と激を飛ばしましたが、終戦間際、日本の敗色が濃くなると真っ先にフィリピンから台湾へ逃げ出しました。

また、この冨永参謀司令官は陸戦の経験さえもほとんどなく、航空戦に関してはまったくの無知で経験がありませんでした。

そんな人物が激戦のフィリピンで航空軍の指揮をとる総司令官だったのです。

奇襲として最初こそ大きな戦果を挙げた「特攻」ですが(戦果の水増しが後に判明、発行部数を煽るために報道も戦果を誇張して表現していた)アメリカ軍は「特攻」対策に空母に乗せる急降下型爆撃機の数を半減させ、艦上戦闘機の数を2倍にしました。

また特攻機の目標である空母の前方60カイリ(110キロ)レーダー警戒駆逐艦を配備します。これによって近づく特攻隊をいち早くレーダーで発見し、何百機という艦上戦闘機で迎え撃つ体制が整いました。

特攻機はその攻撃を、重い爆弾を抱え、迎え撃つ銃器もないまま、かいぐぐらなければもはやアメリカ艦船に近づくことができませんでした。

それでも「特攻」は大きな戦果を上げることがないまま最後まで続けられたのです。

最後には200km程度しかスピードのでない練習機まで特攻機として駆り出される始末です。

「特攻」が続けられた理由として、硬直した軍部の指導体制や過剰な精神主義、無責任な軍部・政治家達の存在がありますが、主要な理由のひとつは「戦争継続のために有効だった」と筆者はいいます。

戦術としてはアメリカに対して有効ではなくなったけど日本国民と日本軍人には有効だったから続けられたということです。

目の前のリアリズムを無視して精神でレーダーを突破せよという中身のない作戦を講じるリーダーや参謀が実に多かったことか、そしてその精神性の核となったのが「勝つと思った方が勝つんだ」と発言した東条英機総理大臣というのだから、このような中身のないリーダーが育つのも無理はないのかもしれません。

歴史は生き残ったものが書き換える

「特攻」の歴史の殆どは「命令」した側によって書かれてきました。
「命令」した側は命令した合理的な理由に責任をなすりつけます。
そして「特攻」が美化されてきました。

戦争を知らない私たちはその美化された情報のみ断片的に記憶に残ります。

『特攻は「志願」であった。多くの特攻兵が祖国のため「笑顔」で飛び立っていった』

しかしながらその背景を丁寧に紐解いていけば決して「志願」ではなかったこと、その「笑顔」の奥に隠された苦悩と生への執着を読み取ることができます。

本書は戦争と特攻という作戦についてリアリズムに基づいた客観性と「命令された」側の視点に基づいて構成されています。

歴史を学ぶ上で、対立する双方の視点から読むことが大切なのだと改めて感じました。

墓標

最後に北海道当別にある佐々木友次さんの墓標を記します。

哀調の切々たる望郷の念と
片道切符を携え散っていった
特攻と云う名の戦友たち
帰還兵である私は今日まで
命の尊さを噛みしめ
亡き精霊と共に悲惨なまでの
戦争を語り継ぐ
平和よ永遠なれ

佐々木友次

最後までお読みいただきありがとうございました。

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