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いい人生は「充実した今」を積み上げることで作られる

一緒に働いていた人が、ある日突然、交通事故で亡くなってしまった。しかも、彼がとても大切にしていた奥さんと2歳の娘さんも一緒に。おそらく、彼自身が、自分の人生が突然に幕を閉じるなんてことは、事故の直前まで想像だにしなかったであろう。人生なんていつ幕を閉じてしまうかわからない。交通事故や災害、事件などに巻き込まれて人が亡くなったというニュースはたくさん目にするけれど、実際に自分の身近にいた人がそういう亡くなり方をするまでは、それがどういうことなのかということをリアリティをもって想像することは難しい。僕だって、それまでもそういうニュースには沢山触れてきたけれども、この時ほどのリアリティを感じたことはなかった。

リアリティがないので、何となく自分は老後を迎えるであろうと勝手に思っている。その時のために、やりたいことも我慢して、嫌な仕事でも我慢して、安定と安心を得ようとする。安定した収入を得て、引退するまで勤め上げ、あとは年金暮らしで悠々自適の生活を送る。それが理想的な人生で、そのためには失敗するかもしれないような冒険はしない。そんな人生観を持っている人が多いと思う。

実際に僕がそうだったし、この時に交通事故で亡くなった人もそうだった。それが当たり前で、それがこの国の常識だからだ。

笑って死ねる人生がいい人生だと思っていた

僕が中学生のころ、「野生の証明」という映画が話題となった。僕は、映画は観ていないのだけれど、その主題歌である「戦士の休息」の歌詞の一節が耳に残った。

男は誰もみな
無口な兵士
笑って死ねる人生
それさえあればいい

映画も見ていないし、まだ中学生だった僕には、その歌詞の本当の意味なんて解らなかったけれど、「笑って死ねる人生」って究極の人生だと思った。

だから、死ぬ時になって「ああ、自分の人生はまんざらじゃなかった。いい人生だった。」そう思えるような生き方がしたいと思っていた。ところが、そのイメージの中では、その時僕はもう老人になっていて、病気か老衰で死にそうになっていて、だんだん弱っていって、家族に看取られて死んでいくのである。まさかまだまだ若いうちに、突然車にはねられるとか、災害に巻き込まれるとか、不治の病に侵されるとか、そういうことは全く想定していなかったのだ。

ところが、自分の人生が突然終わってしまう可能性があるということが、リアリティをもって感じられるようになった結果、「もし、今、自分の人生が終わるようなことになったら、果たして自分は笑って死ねるのだろうか。自分の人生は、充実した人生だった。俺は精一杯生きた。と言えるのだろうか。」と自問自答してみた。

その答えが出るまでに、時間はかからなかった。
「とてもじゃないが、今の自分では笑って死ぬことはできない。俺は人生の嘘をついている。自分をごまかして生きている。老後のために安定した収入を得るためだと自分に言い聞かせて、嫌いな仕事を我慢してやっている。今の状態では笑って死ぬことができない。」
それが、僕の答えだった。

いい人生とは「充実した今」を積み重ねること

子どものころから、将来のためになるからと、嫌いな勉強を無理やりやってきた。勉強というものは、「嫌だけれどもやらなければいけないもの」だと思っていた。そんな調子で大学院まで出てしまった。

仕事もその延長上にあって、「仕事とは嫌だけれどもやらなければいけないもの」というイメージを持っていた。

本当はやりたいことがあったはずなのに、それをやっていると勉強ができなくなったり、安定した職につけなくなったりするので、それはできないものだとやる前からあきらめていた。

勉強の邪魔をしない範囲で、仕事の邪魔をしない範囲でできることだけをやって、それ以上のことは諦める。そういう生き方、そういう判断が出来るようになるということが、大人になるということだと思っていた。

でも、そんな生き方では「今」を大切にできていない。将来のためにと、今やりたいことを我慢していると、もし、突然に人生が幕を閉じてしまったら後悔だけが残るのではないだろうか。いつ人生の幕が閉じようとも、「俺の人生はいい人生だった」と思えるような生き方をするには、「充実した今」を積み重ねていくしかない。どこで切っても金太郎あめのように、笑顔で死ねるような生き方をしなければいけない考えるようになった。

考えてみれば、「充実した今」を死ぬまで積み上げていけば、それほど最高な生き方はない。どこで切っても、いい生き方をしていると思える人生ほど、最高なものはない。どうしてその最高を目指さないのか。「今」を充実させることが、いい人生を作り上げるのだ。一番大切にしなければいけないのは、いつ来るかわからない人生の終わりの時ではなく、まさに「今」なのだ。

刹那的な生き方とは違う

「今を大切に生きる」というと、「今さえよければいい」というような刹那的な生き方を想像する人もいるかもしれないが、刹那的な生き方というのと、「大切にする」というのは似て非なるものだと思う。刹那的、享楽的な態度というのは決して自分を大切にしているとは言えない。

自分を大切にして、今を大切にするということは、自分にとって幸せな人生とはどういうものなのかを明らかにして、そこにむかって充実した時間を過ごすことだと思う。

つまり、夢や目標をもってそこに向かっていくということも、今を大切に生きることになると思うのだ。好きなことや理想とする人生を追い求めて、毎日がワクワクと充実していたら、たとえその道半ばで人生が終わったとしても、素晴らしい生き方をしたと満足できるのではないか。

むしろ、刹那的な生き方の方が後悔するだろう。その日その日が楽しければそれでいい。将来のことなんてわからないのだから、今が楽しければいいんだ。そういう生き方では、きっと後悔するだろうと思う。

毎日がキラキラと輝いている生き方をしたい

それまでの人生は、我慢と妥協の人生だったと思う。将来の安定のために、自分がやりたいと思ったことを我慢してきた。だから僕は、あの渋谷での彼女のシンプルな質問に対する自分の返答に満足できなかったのだ。

少なくとも、僕の人生はこの時、キラキラと輝いてはいなかった。自分に嘘をつき、妥協して生きてきた。自分の命なのに、自分の人生なのに、自分で思い通りに生きていなかったのだ。

目の前にいた人が、ある日突然、逝ってしまことによって、自分の人生観が根底から揺さぶられた。人生の前提が180度変わってしまったのだ。

(つづく)


自分がうつ状態に陥って、そこから這い上がってくる過程で考えたことなどを書いています。自分の思考を記録しておくことと、同じような苦しみを抱えている人の参考になればうれしいです。フォローとスキと、できればサポートをよろしくお願いします!