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人生が背中を押している

母親の価値観の範囲内で、理想的な大人になろうとあがき、「正解」だとされる人生というレールの上を歩いていた僕。そのレールの先は、定年まで仕事を務めあげたその先に、悠々自適な老後が待っている、という将来設計になっていた。

ところが、僕がサラリーマンをしていた時に、一緒に仕事をしていた人が突然交通事故で逝ってしまった。
さらに、同じ年に、知り合いの大学生だった娘さんが、やはり交通事故で突然に亡くなった。僕は、彼女が高校生だったときに、一緒に遊んだことがあった。その出来事も、強烈な印象とともに、僕に襲い掛かってきた。

同じ年に、僕の知っている人が二人も交通事故で亡くなる。こんなことは、54年間生きてきて、あの年以外には記憶にない。

人生は突然終わることがある。
老後までレールが続いているという保証はない。
だとしたら、我慢なんてしている場合ではない。

やがて来る老後のために、今を我慢する。
そういう人は多いと思うけれど、もし、その途中で人生が終わってしまったら、我慢だけの人生になってしまう。そんな人生は嫌だ。たった一度だけの人生なんだから、楽しい人生を送りたい。

僕は、この時に初めて、「後悔」という言葉の意味を知ったような気がする。

失敗しない人生から後悔しない人生へ

僕の母親は、「心配だ」が口癖だった。
何が心配なのかと言えば、「失敗」することが心配だったのだ。

僕の親せきの中にも、起業する人が何人かいた。
母は、そういう人たちのことを批判していた。
親に心配をかけている。もっと、安定した堅実な仕事をするべきだと。

つまり、「失敗」のリスクがあるような生き方は、周りに心配をかけるからよろしくない。というメッセージを僕に送り続けたのだ。意図的にやっていたかどうかはわからないけれど。

おそらく、そういう親は多いのではないだろうか。親としては安心したいのだ。子どもが安定してくれれば、子育てを終わることができる。あるいは、それが子育てのゴールだと思っているのではないか。

だから、僕は「失敗」することは良くないことであると考えるようになった。そして、失敗しない選択をするようになったんだ。

でも、「人生がいつ終わるかわからない」という前提に立った時に、果たしてこの人生で後悔しないのか?ということが気になるようになった。
このまま、自分がやりたいと思っていることをやらないままに終わってもいいのか。それで、精いっぱい生きたと言えるのか?

死ぬ間際になって、あれもやっておけばよかった、これもやりたかった、と心残りになるのは嫌だ。そういう思いが湧いてくるようになった。

いつ終わっても後悔しない生き方がしたい

老後を見据えた人生から、いつ終わってもいい人生へ、人生観が変化したことが僕のうつ病の原因である。

人生観ががらりと180度変化したせいで、現実の生活のストレスがとても強くなったのだ。

そのうえ、タイミング悪く、仕事が立て込んでいてたくさんの案件を同時にかかえている状態だった。好きな運動をやる時間もない、休日もない。ただでさえストレスが蓄積しているところに、この人生観の大転換が起きてしまったものだから、僕のメンタルは崩壊してしまったのだ。

僕は、僕の人生がいつ終わったとしても、後悔しない生き方がしたいと思った。そのためには「今」が輝いている必要がある。だから、生き方を変えようと思った。一度、人生をリセットして、充実した「今」を積み上げていくような生き方をしたい。そう考えるようになった。

人生が背中を押している

福岡営業所勤務から東京本社に復帰するころから、いろいろなことが立て続けに起こった。同級生からの単純で本質的な質問から始まって、会社のマネジメントの失敗のつけを負わされる形でいわくつきの案件を引き受けてしまい、休日もなく仕事をするようになり、その仕事を任せていた人が交通事故で亡くなり、さらには、知り合いの娘さんまで事故で亡くなった。

まるで、神様が、「お前の生き方は間違っている。早く気づけ。これでも気づかないのか?」語りかけているのかと思った。これだけ立て続けに、生き方を問うような出来事が起こると、これはもう、人生が僕の背中を押しているんだとしか思えなかった。

生き方を変えろ。
いいのかそのままで?

そう問われているような気がした。

(つづく)





自分がうつ状態に陥って、そこから這い上がってくる過程で考えたことなどを書いています。自分の思考を記録しておくことと、同じような苦しみを抱えている人の参考になればうれしいです。フォローとスキと、できればサポートをよろしくお願いします!