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「べき」から離れてみよう

もうずいぶん前から思っているのに、なかなかできないことがある。ついやってしまう。
それは「べき」思考。
「こうあるべき」「こうすべき」という思考。

正解が欲しいのかもしれない

多分、正解が欲しいんじゃないかな。
必ずうまくいく方法が知りたいんじゃないかとも思う。
無意識のうちにね。

以前は、教育のせいだと思っていた。
人々が「べき」に縛られてしまうのは。
なぜなら、僕の母親が「べき」という言葉が大好きな人間だったからだ。

それに、学校でも「こうあるべき」を教え込まれるよね。
人としてのあるべき姿を。
そのあるべき姿に近づくことが大人になることである、と教え込まれる。

でも、自分の弱さや将来の不安が原因で「べき」を求めているような気がするんだ。
誰かが正解らしきことを言う。
それにすがりたいという気持ち。

「いい学校に行けば、将来安泰である。幸せになれる。
だから勉強していい学校に行くべきだ。」
そんなことを言われると、それにすがりたくなる。

でも、冷静になって世の中を見てみればわかる。
いい学校に行っても幸せになっていない人はごまんといるし、いい学校に行けなくても幸せになっている人だってごまんといる。

「べき」は自由を奪う

「べき」というのは、ある種の囲い、枠のようなもの。
一見、その枠の中にいれば安泰のように思えるかもしれないけれど、その保証はどこにもないうえに、自分を縛るものになってしまう。
自由を奪う。

それだけじゃない、現実を見る目が曇る。
柔軟な発想を阻害する。

現代社会は、変化の激しい社会だ。
将来どうなるか、予想するのが難しい。
新しい発想が次から次へとうまれてくる。

こんな時代において、柔軟な発想を阻害することが果たして良いことなのだろうか?
そんな風に考えてしまう。

以前は、自分の心を守るために「べき」から離れるべきだと思っていたが、今は、柔軟な発想をするために、「べき」から離れるべきだと思う(笑)

「べき」は過去のもの

「こうあるべき」などという発想は、過去のものなのかもしれない。

もちろん、何事にも通底している原則というものはあるような気がするが、それすら鵜呑みにすることなく疑ってかかることによって、はじめて見いだせるのではないかと思う。

「べき」から離れようと思う。
身に沁みついた思考なので、難しいとは思うが。
離れるように意識していたい。

noteはいいね。
noteに書くことによって、べきから離れられ様な気がしてきた。
しばらくはつらつらと、思ったことを書き散らかしていきたい。

自分がうつ状態に陥って、そこから這い上がってくる過程で考えたことなどを書いています。自分の思考を記録しておくことと、同じような苦しみを抱えている人の参考になればうれしいです。フォローとスキと、できればサポートをよろしくお願いします!