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2023年度特別展「創設者 世耕弘一 ドイツ留学100周年」展示目録

不倒館2023年度特別展「創設者 世耕弘一 ドイツ留学100周年」展示品を紹介いたします。
解説は、本展の監修を務めた、当室特別研究員で日独交渉史の研究家でもある荒木康彦名誉教授によるものです。

第1会場 テーマ:ベルリンに至る旅路

 世耕弘⼀が⽇本を出発してからベルリンに到着するまでに関連する史資料を展示

1.世耕弘一「ドイツ留学の憶い出」
 (近畿大学所蔵の桜門文化人クラブ編『日本大学七十年の人と歴史』
  第2巻〔洋洋社 1961年〕収録)

  日本大学によりドイツ留学生に選抜された経緯、ドイツ留学中の研究や
 生活、帰国の際のエピソードなどが語られており、30数年前のことが回想
 されて述べられたものであるが、非常に正確な内容であり、それだけにド
 イツ留学中の知見が世耕弘一自身にとって大きな意義があることが自覚さ
 れていた証左であろう。世耕弘一のドイツ留学に関する根本史料であるこ
 とは言うまでもないのである。

2.日本大学「大學設立裁可申請」添付参考文書
 (国立公文書館所蔵の『公文類聚 第四百四十一編 大正九年 第二十四
  巻 學制』収録の複製)
  
「大學令」(1918年12月6日公布・1919年4月1日施行)に基づいて申請
 した慶應義塾大学・早稲田大学・中央大学・日本大学・法政大学・明治大
 学・國學院大学・同志社大学の8私立大学が1920(大正9)年に認可され
 た。
  大学設立裁可申請に添付された参考文書によれば、慶応義塾大学の学部
 専任教員は61人・学部学生は2850人、早稲田大学の学部専任教員は69人・
 学部学生は2300人であるのに対して、日本大学は学部専任教員12人・学部
 学生は650人で、規模が小さく、専任教員の絶対数が少ないだけではなく
 て、学生数に比しても専任教員数が少なかったことがよく分かる。
  「大學令」第17条には「公立及私立ノ大學ニハ相当員數ノ専任教員ヲ置
 クヘシ」とあり、これにより特に日本大学の場合には専任教員数の確保が
 必要になったと考えられる。

3.山岡萬之助が語る経営戦略
 (近畿大学所蔵の細島喜美著『人間山岡萬之助傳―わが道をゆく―』
  〔講談社 1964年〕収録)

  細島喜美のこの著書の「経理の妙」と題する節では、山岡萬之助
 (1876-1968)が小規模だった日本大学の「経営の衝に当たって最初に考
 えねばならないことは、債務の償還ということだった」が、山岡が「後年
 ある席で語った速記録が次のように伝えている」とされ、その経営戦略が
 記されている。

 私は刑事政策学の研究から、統計というものが大切なことを知っているので、学校経営も統計的に研究して、それを参考に将来に対する計画をたてたわけです。
 学校の経営は、何といっても学生の数をふやすことが先決で、学生がふえれば収入も当然多くなる。講座に払う支出は学生がふえたからといって変りがない。だから学生が多ければ多いほど経営は楽になる。これがコツというものでしょう。(中略)
 私はこうしたことを基本にして計画的に考えると、では、学生を多くするにはどうしたらよいか?それにはまず良い先生を迎える。先生を良くして教育内容を立派にすることが大切です。(後略)

  この考えに従って、優秀な卒業生が海外留学に派遣され、帰国後は教員
 として採用され、日本大学の規模が拡大された。その様な流れの中で、優
 秀な卒業生の一人の世耕弘一がドイツ留学に派遣されたと言えよう。

4.日本大学作成「大正十五年一月十九日」付「世耕弘一」
 (学習院大学法経図書センター所蔵の「山岡萬之助関係文書」F-IV-16の
  複製)
  
この史料は「山岡萬之助関係文書目録」ではF-IV-16の整理番号と「履歴
 書 世耕弘一」の表題を付されているが、この表題はその内容から明らか
 に正確ではなく、「留学調」とも言うべきものであろう。
  原史料には「日本大學用箋」が用いられ、「日本大學之印」が押されて
 おり、作成日は「大正十五年一月十九日」である。
  史学理論からすれば、世耕弘一が留学の為に出国した1923(大正12)年
 当時の文書ではなく、関東大震災で全焼した日本大学が、その3年後の
 1926(大正15)年に作成した文書である事からも慎重に利用しなければな
 らない。
  例えば、この文書では「帰國旅費給與ノ見込」とされているが、世耕弘
 一の「ドイツ留学の憶い出」では下宿先のヴィルデ家の「奥さん」が「帰
 国旅費を貸してくれた」ので、帰国後に「そのお金を倍にして送金して返
 済したが、その温情は今もなお忘れない。」とされている。

5.朝日新聞本社「自大正十一年至大正十五年 社員異動簿(大阪 東京)」収録「世耕弘一」欄
 (朝日新聞大阪本社所蔵の複製)
  
当該期間の朝日新聞社の人事異動に関する記録であり、1923(大正12)
 年の部分に世耕弘一に関する史料が収録されており、2013(平成25)年10
 月に荒木康彦近畿大学名誉教授によって発見された。
  「発令月日」の欄には「大阪朝日新聞社総務局文書課 12.7.11」のスタ
 ンプがあり、「給与」は「報酬無シ」、「氏名」は「世耕弘一」、「辞
 令」は「在欧中通信ヲ嘱託ス」、「所属」は「私立日本大学独乙留学
 生」、「職名」は空白、「備考」は二人の署名があり、「通知」は「/」
 となっている。
  従って、日本大学のドイツ留学生としての世耕弘一が、1923(大正12)
 年7月11日に朝日新聞社から報酬無しで在欧中に通信を嘱託されたことを
 示す、決定的な史料である。

6.『海外旅券下付表 二一八巻』の「東京府」の19丁裏所収の「世耕弘
  一」欄
 (外務省外交史料館所蔵の複製)
 
1900(明治33)年6月7日制定の「外国旅券規則」によれば、申請の際には外国旅券下付願と戸籍抄本を道府県に提出しなければならなかった。さらに、1917(大正6)年の旅券規則改正によって、申請の際には、本人の上半身の写真2葉を添えることが義務化され、その1枚が旅券に貼付された。1921(大正10)年4月には「旅券手数料」が、移民の場合は5円、移民でない場合は10円とされている。
 従って、世耕弘一は、外国旅券下付願・戸籍抄本・上半身の写真2葉・「旅券手数料」10円を東京府に提出したことになり、外務省は旅券を交付した結果を「海外旅券下付表」として一覧表を作成した。
 その『海外旅券下付表 二一八巻 大正自十二七月至九月』の「東京府」の19丁裏に「世耕弘一」の項目が掲載されている。
 「旅券番號」は「五四九八三一」、「氏名」は「世耕弘一」、「身分」は「戸主梅吉弟」、「本籍地」は「和歌山縣東牟婁郡敷屋村西敷屋二一七」、「年齢」は「卅年六月」、「保証人」はこの時代は不要で空欄、「旅行地名」は「香港、新嘉坡、馬按加、彼南、古倫母、蘇土、坡西土、佛、瑞、獨」(ホンコン、シンガポール、マラッカ、プナン、コロンボ、スエズ、ポートサイド、フランス、スイス、ドイツ)、「旅行目的」は「〃」つまり右に同じで「学術研究」、「下付月日」は「〃」つまり右に同じで「八月三日」となっている。

7.1925(大正14)年8月23日に交付された「日本帝国海外旅券」
 (近畿大学所蔵)

 衆議院事務官が公用でイギリス領ボルネオ、オランダ領東インド、海峡植民地、香港、フィリピン諸島に赴くのに対して1925(大正14)年8月23日に交付された、いわゆる「賞状型」の旅券である。
 表の右側の「日本帝国海外旅券」の日本語表記の部分には「公用」の楕円形の朱印が、左側の外国語表記の部分には「official」の楕円形の朱印が押されている。
 裏の右側には本人の顔写真が貼付されており、左側には東京のイギリス大使館・オランダ大使館の考査印、その下には訪問地を出国した時の印が押されている。
 因みに、1926(昭和元)年には旅券は、この「賞状型」から現在の「手帳型」のものに変更されている。
 世耕弘一に対して1923(大正12)年8月3日に交付された「日本帝国海外旅券」もこのような「賞状型」のもので、無論「公用」の楕円形の朱印・「official」の楕円形の朱印が押されていないものであったはずである。しかも、表の右側の「日本帝国海外旅券」の日本語表記の部分の右肩には「五四九八三一號」と印刷され、文言の1行目の「右ハ」以下には、学術研究の為に香港、新嘉坡、馬按加、彼南、古倫母、蘇土、坡西土、佛、瑞、獨(ホンコン、シンガポール、マラッカ、プナン、コロンボ、スエズ、ポートサイド、フランス、スイス、ドイツ)へ、といったような文言が墨書されていたと思われる。
 この「賞状型」の旅券は、ここに同時に展示している専用の封筒に、折りたたんで挿入して携帯されたが、持ち運びに不便で評判が悪かったといわれている。

8.1923(大正12)年8月13日付『日大新聞 第三十三號』掲載「ベルリン
  の秋風に赤毛布を翻すべく留學生數名袂を揃へてドイツへ 盛んなる有
  志の送別宴」
 (日本大学所蔵の複製)
 
1923(大正12)年8月8日に当時の東京市麹町区の「富士見軒」という洋食料理店で催された「送別宴」における世耕弘一の言動が詳しく報じられている。
 この記事には「留學生諸君送別のつどひ」と題する集合写真も併せて掲載されており、前列向かって右から3人目のモーニング姿と判断される人士が、世耕弘一であろうと思われる。世耕弘一は巧みにユーモアを交えて留学に向けての抱負等を語っているので、その要点を纏めると以下の通りである。
 
  (1)「ピアノとダンスとそれから語学を大にやるつもり」で「経済学
     はそのつけたりにやる」こと。
  (2)「学生時代から三人前の仕事をやる主義であった」こと。
  (3)「大学の留学生と、朝日新聞及び文部省の両方に関係しているの
     でやはり三人前をやってのける」こと。
  (4)「通信」を朝日新聞に寄稿するつもりであること。

9.東海道本線の東京・大阪間の時刻表
 (近畿大学所蔵の復刻版『公認 汽車汽船 旅行案内 大正十二年七月
  第三四六號』〔庚申新志社・博文館三社合1923年7月1日刊行〕収録)

 1923(大正12)年当時の時刻表の東京・大阪間の部分に、18時から22時までの間に東京を発って関西方面に向かう夜行の急行列車は6本あることを見出すことが出来る(いずれも、12時間前後で、翌日午前中に大阪着)。
 その発着時刻等を整理して示すと、次の通りである。

急行列車 神戸行 列車番号 9    東京発:18時00分  大阪着:6時32分
急行列車 神戸行 列車番号 11  東京発:19時30分  大阪着:8時02分
急行列車 神戸行 列車番号 13  東京発:19時45分  大阪着:8時27分
急行列車 下関行 列車番号 5    東京発:20時25分  大阪着:8時54分
急行列車 下関行 列車番号 7    東京発:20時40分  大阪着:9時19分
急行列車 神戸行 列車番号 15  東京発:22時00分  大阪着:11時08分

 それ故に、この6本の急行列車のいずれかを利用して、世耕弘一は同年8月31日の夜に東京を発って、9月1日の午前中に大阪に到着したということになろう。

10.大阪で1923(大正12)年9月1日撮影の実兄世耕良一との写真
 (近畿大学所蔵の大下宇陀児『土性骨風雲録 教育と政治の天下人 世耕
  弘一伝』〔鏡浦書房 1967年〕の複製)

 この写真は大下宇陀児著書の『土性骨風雲録 教育と政治の天下人 世耕弘一伝』244頁に掲載された写真の複製であり、同頁の写真キャプションでは大正12年9月1日、ドイツへ出発の前日、兄良一と大阪にて記念撮影」となっている。
 1923(大正12)年8月13日付『日大新聞 第三十三號』掲載「ベルリンの秋風に赤毛布を翻すべく留學生數名袂を揃へてドイツへ 盛んなる有志の送別宴」に附属する「留學生諸君送別のつどひ」と題する集合写真で認められる世耕弘一と同じのモーニングをこの写真でも着用している。なお、この写真のオリジナルについては所在が分かっていない。

11.THE JAPAN CHRONICLE,WEEKLY COMMERCIAL SUPPLEMENT, KOBE
  THURSDAY SEPTEMBER 13TH 1923掲載のSHIPPING-LIST

 (大阪府立中央図書館所蔵の複製)
 
諸外国の港湾都市で刊行される英字新聞には船舶情報が掲載されるのが一般的であり、わが国でも外国人居留地がある、もしくは、外国人居留地があった港湾都市でも刊行された英字新聞には船舶情報が掲載され、船の出入港情報・乗客名簿(但し、一等船室の乗客のみ)が報じられており、非常に重要な史料となっている。
 この当時、神戸で刊行されていたこの英字週刊新聞の「船舶情報」欄の「出航」(DEPATUTURES) 部分においては、9月2日に「伏見丸、1093、ロンドン向け-日本郵船株式会社」(Fushimi-maru,1093,for London-N.Y.K.)と報じられているが、伏見丸は総トン数が10930トンであったので1093は誤りである。
 伏見丸は、マルセイユを経由してロンドンに向かうことになっている。9月1日出航の艘数は2で、同月2日のそれは15に達しているところに、関東大震災の間接的影響が出ているのであろう。

12.「神戸市地圖 付西灘村」(著作印刷兼発行者:向永寅吉 1923年4月
   5日発行)

 (近畿大学所蔵)

 この地図が発行されたのは1923(大正12)年4月5日であることから、まさに世耕弘一が神戸を出発した時期の神戸の市街地や港湾の様子がよく分かる。
 この地図の横軸「ニ」と「ホ」と間、縦軸「五」と「六」の間の部分に第1突堤・第2突堤・第3突堤・第4突堤があり、いずれにも鉄道の引き込み線が敷設されている。
 第2突堤・第3突堤・第4突堤には貨物を収納する上屋が多数あるが、日本郵船の船舶が接岸する第1突堤の東側の岸壁付近には建物はないので、この岸壁に接岸した伏見丸に世耕弘一は搭乗して欧州に向かったことになる。
なお、点線で囲まれた白色の部分は「第二期筑港突堤」で、建設予定のところであり、この時点では実際に存在していない。

13.1923(大正12)年当時の神戸港の写真3葉
 (近畿大学所蔵の神戸市土木部港湾課編『神戸港大観』〔1923年11月1日
  刊行〕収録)

 『神戸港大観』は、1923(大正12)年以来、神戸市土木部港湾課(後には、神戸市みなと総局みなと振興部振興課情報統計課)から出されている年次報告書で、ここに展示したのは非常に貴重な最初のものである。
 本書の巻頭に収録された3葉の写真のうち、「諏訪山より神戸港を望む」と題する上段のものの中央部の左に細い黒煙を上げているのが第4突堤で、そこから第3突堤、第2突堤、第1突堤となり、日本郵船の船舶が接岸したのは第1突堤とされている。
 「沖合船上より築港を望む」と題する中段のもので右端に霞んで写っているのが1番突堤であり、第4突堤の沖合を、黒煙を吐きながら日本郵船の船(煙突に描かれているフラネル・マークから分り、船体のフォルムや船腹に書かれた文字から「はこざき丸」即ち「箱崎丸」と考えられる)が入港し、第1突堤に向かおうとしている。
 「築港港内より突堤及沖合を望む」と題する下段のものでは第3突堤が中央部にその左に第2突堤が、さらにその左に第1突堤が写っている。

14.世耕弘一「小林先生との深い因縁」
 (近畿大学所蔵の高山福良・原嶋亮二編『小林錡先生』〔小林錡先生顕彰
  会発行 1963年〕収録)

 世耕弘一による小林かなえ(1888-1960)に対する追悼文である。
 従来、この史料の存在は知られておらず、2012(平成24)年に荒木康彦近畿大学名誉教授によって発見された。
 小林は日本大学での世耕弘一の先輩で、ドイツ留学の出国・入国の際にも行動を共にした関係である。
 ドイツ留学のために乗船した日本郵船の伏見丸での船旅の様子が、「コロンボで、暑さにあたり熱病にかかったのも二人いっしょで、三十八度前後の体温。そして、地中海に入ると同時にケロリと平熱となって、元気で終着港マルセイユについたのであった。」と活写されており、非常に興味深い史料である。
 その後、世耕弘一、小林両名は衆議院議員として活動し、この追悼文にあるように「政治的の交際は深い交わりと言うほどではないが」、「しかし、心からの友情を、会えばかたむけていた」という関係であった。
 「ドイツ留学の憶い出」には触れられていないことがこの史料では陳述されており、そういう意味でこの史料は非常に貴重である。すなわち、「独逸に留学の時は同時に神戸で乗船、船室も二等で同室」だったこと、「日本をはなれてベルリンに着くまで四十五日間」だったことであり、特に後者の点は重要である。

15.「日本郵船株式會社一萬頓型汽船縦断面図」(複写)
 (近畿大学所蔵の『日本郵船株式會社創立三十年記念帳』〔1915年刊行〕
  収録)

 1885(明治18)年に日本郵船株式会社は郵船汽船三菱会社と共同運輸会社が合併して成立したもので、1915(大正4)年に同社の創設30年を記念し、刊行された豪華な『記念帳』は同社の盛況ぶりを示すものとなっており、第一次世界大戦によって日本の海運業界が活況を呈したことがよく分かる。
 ここで注目すべきは、同社が欧州航路に6隻の「一萬頓型汽船」を運行していた点であり、その中の代表的な1隻である伏見丸(この『記念帳』では「総噸数一万九百四十噸」と記されている)に世耕弘一が搭乗したことである。
 この史料の末尾に収録されている「日本郵船株式會社一萬頓型汽船縦断面図」では、「一萬頓型汽船」の船内設備が精密に描かれており、船尾部分には世耕弘一が利用した二等船室(高山福良・原嶋亮二編『小林錡先生』収録「小林先生との深い因縁」で触れられている)の詳細も描かれている。

16.写真版「伏見丸絵葉書」
 (荒木康彦近畿大学名誉教授所蔵)
 
この絵葉書の発行年は分からないが、煙突にまだ日本郵船株式会社のファーネル・マークがまだ描かれていないことから、長崎の三菱造船所で竣工して日本郵船に引き渡される前の写真とも考えられる。トン数は「10,936頓」と正確に記されている。
 高山福良・原嶋亮二編『小林錡先生』収録「小林先生との深い因縁」で、「独逸に留学の時は同時に神戸で乗船、船室も二等で同室。」とされている二等客室は船尾部分にあった。
 THE JAPAN CHRONICLE,WEEKLY COMMERCIAL SUPPLEMENT, KOBE THURSDAY SEPTEMBER 13TH 1923掲載のSHIPPING-LISTの該当部分を併せて参照されたい。

17.絵画版「伏見丸絵葉書」
 (荒木康彦近畿大学名誉教授所蔵)
 
この絵葉書の刊行年は分からないが、煙突にまだ日本郵船株式会社のファーネル・マークが描かれており船首部分に伏見丸と船名が書かれていることから、同社所属の貨客船として1914(大正3)年に就役した後に描かれたものであろう。トン数は「11,000頓」と概数が記されている。
 船尾付近にジャンク船が描かれ、東アジア近海を航行中の想定となっている。

18.伏見丸船上の集合写真の複製
 (近畿大学所蔵)

 2列目向かって左から2人目が世耕弘一であり、その右横の眼鏡を掛けた人物が小林かなえと判断される。
救命ブイに《FUSIMIMARU TOKIO》と書かれていることから、伏見丸船上で撮影されたと確定できるが、撮影年月日は判明していない。
 高山福良・原嶋亮二編『小林錡先生』収録「小林先生との深い因縁」では、「コロンボで、暑さにあたり熱病にかかったのも二人いっしょで、三十八度前後の体温。そして、地中海に入ると同時に二人ともケロリ平熱となって、元気で終着港のマルセイユについたのであった。」とされている。
 世耕弘一がコートを羽織っていること、前列の女性の1人がコートを着用していることから10月中旬の冷涼な地中海にはいった時期、また全員が正装であることからマルセイユ到着時に撮影された可能性が高いと推定される。
 なお、この写真のオリジナルについては所在が分かっていない。

19.「渡歐案内」
 (近畿大学所蔵の『日本郵船株式會社』〔1924年〕)

 パンフレットであるため、奥付がなく正確な刊行年月日は分らないが、2頁に「右日本貨換相場(大正十三年五月)は時々變動(へんどう)を免れません。」と記されていることから、1924(大正13)年5月ころと判断される。
内容は「歐洲航路豫定航海数日數及距離」と「寄港地案内」が主となっており、各寄港地についての情報が詳しく記されている。
 「欧州航路豫定航海日数及距離」によれば、欧州航路に就役していた日本郵船の伏見丸などの1万トンクラスの船舶は、神戸から43日目に「馬耳塞(マルセイユ)」着となっている。
 従って、世耕弘一は高山福良・原嶋亮二編『小林錡先生』収録「小林先生との深い因縁」で「神戸で乗船、船室も二等で同室」、「日本をはなれてベルリンに着くまで四十五日間」と「四十五日間」のうちの初めから42日と何時間かは伏見丸の「二等」船室で過ごしたということになる。

20.「英國及歐洲大陸交通略圖」
 (近畿大学所蔵の1923年発行・1927年再版『欧州旅行日程 日本郵船株
  式會社』収録)

 日本郵船株式会社が、自社の船を利用してヨーロッパに行く客のために編纂し、配布していたヨーロッパ大陸鉄道旅行の案内書であり、史料としては大変珍しいものである。
 内容的にはマルセイユからヨーロッパ各国の主要な都市への旅程が記されている。また、巻末には「英國及歐洲大陸交通略圖 歐洲大陸旅行日程附圖」と題するこの地図が収録されている。
 この史料の41頁には「馬耳塞から伯林へ(一千五十六哩)」と題するマルセイユからベルリンまでの旅程が掲載されており、リヨン・ジュネーヴ・バーゼル・カールスルーエ経由のルートが推奨されている。
 ドイツに入ってからのルートについては触れられていないが、カールスルーエの北にはフランクフルトがあることから、フランクフルト経由でベルリンに至るのは自明である。

21.マルセイユ港地図
 (近畿大学所蔵のMeyers Grosses Konversations-Lexikon,
  6.Aufl.,Leipzig und Wien Bd.13,1906.の複製)

 古代以来の良港である入り江の部分ではなく、地中海の海岸線とそれに沿って築かれた長大な防波堤から成る近代的な港湾部分であり、『渡歐案内 日本郵船』の「寄港案内」の記述にあるように、伏見丸などの日本郵船の船舶はその左端から入港し、Bassin de la Gare Maritime(海の駅の船溜まり)の第8岸壁に接岸したといことになろう。
 従って、世耕弘一はヨーロッパでの第1歩をこの岸壁に印したということになる。

22.ベルリン・フランクフルト間の時刻表
 (大阪府立中央図書館所蔵のCook’s Continental Time Table And
  Steamship Guide,Thos. Cook & Son,October 1923の複製)
 
神戸から出発した世耕弘一は43日目にマルセイユに到着、鉄道でジュネーヴ・バーセル・フランクフルトを経由して45日目、即ち1923年10月17日にベルリンに到着したと推察される。
 フランクフルト・ベルリン間の鉄道線はドイツの鉄道の幹線であった。
世耕弘一はフランクフルトを7時2分の急行で発ち17時26分にベルリンに到着したか、13時20分の急行で発ち22時50分にベルリンに到着したかのいずれかであろう。

23.1923年当時のベルリンのアンハルト駅の絵葉書
 (近畿大学所蔵)

 アンハルト駅はベルリンにおける長距離列車の離発着駅の1つであり、その壮麗な駅舎は有名であった。
 第二次世界大戦の空襲で破壊され、ベルリンが東西に分裂し、それぞれに事実上の中央駅ができ、東西ドイツ統一後にベルリン中央駅ができたので、この駅の壮麗な建物は正面玄関のポーチ部分などを残すのみの状態になっている。
 裏面の消印には《Berlin W 20 7 23 10‐11 N 8》とあり、1923年7月20日10-11時間にベルリンで投函されたことが分かり、100マルク切手と20マルク切手が貼られている。
 同年の初めまでは0.4マルク切手一枚で済んでいたが、すでに300倍となっており、歴史上有名なハイパーインフレが進行していることが知られる。
 宛名・通信文の解読及び邦訳は以下の通りである。

  Herrn              コンラート・テングラー
  Konrad Tengler          様 
  Wien 18             ウィーン 18
  Fitbachstr. 75/10          フィートバッハ通り 75/10
 
        20/7 23                23年7月23日  
  Nach sehr guter Fahrt         非常に快適な走行の後に
  hier angekommen,sende       ここに到着し、
  dir und deinen w. Angehoerigen   君と君の大切な親族に送ります。

24.ベルリンのアンハルト駅の複合写真
 (近畿大学所蔵の『Helmut Maier, Berlin Anhalter Bahnhof,Berlin 1990.
  の表紙)

 写真の右側のカラー部分は現在残っているアンハルト駅の正面玄関のポーチ部分の写真であり、それ以外の部分は第二次世界大戦前のアンハルト駅の写真である。この本の表紙はこれら2枚の写真の複合写真である。
 この駅舎は第二次世界大戦の空襲で破壊され、その後再建されず、ここの地下にSバーン、つまり近郊電車の駅があるのみである。


第2会場 テーマ:留学の地ベルリン、そして鉄路による帰国

 ベルリン滞在中から日本へ帰国するまでに関連する史資料

25.Pharus-Plan Groß-Berlin,Berlin1923.(復刻版 複写)
 (近畿大学所蔵)

 この地図はPharus都市地図シリーズの1923年版「大ベルリン」(復刻版)である

※地図上には以下の様に世耕弘一に縁のある地点にマークしました。

① アンハルト(Anhalt)駅:ベルリン到着時に下車した駅
② ウンター ・デン・ リンデン(Unter den Linden)のベルリン大学
 (Universität Belrin):研究に従事していた大学
③ ヒンデンブルク通り 82(Hindenburgstraße 82):下宿していたハンス・
 ヴィルデ(Hans Wilde)宅があった通り
④ レオンハルト通り 5(Leonhardstraße 5):頻繁に訪問していたエミー
 ル・プリル(Emil Prill)教授宅があった通り
⑤ ビューロー通り 2(Bülowstraße 2):日本の新聞閲覧等に訪れていた「独
 逸日本人会」があった通り
⑥ ヒルデブラント通り 25(Hildebrandstraße 25):日本大使館があった通
 り
⑦ ツォーロギッシャー・ガルテン(Zoologischer Garten)駅:ベルリン出途
 時に乗車した駅

26.世耕弘一の山岡萬之助宛書簡(1923年11月2日、ベルリン発信)
 (学習院大学法経図書センター所蔵の「山岡萬之助関係文書」H172の複
  製)
 
この書簡の通信文の要点を、箇条書きにすると、以下のようになる。

(1)世耕弘一は「上海著港」の折に、関東大震災で日本大学も焼失したこ
   とを知り、帰国すべきか留学すべきか大いに迷ったが、断固として留学
         することに決した。
(2)日本大学の再建について心配していたが、ドイツに入国後、日本人ク
    ラブで日本大学再建についての記事を朝日新聞で読み大感激した。
(3)当時のドイツの経済事情については、特にハイパーインフレについて
         詳しく触れられ、ドイツに入国した頃の10月17日の為替レートは1ポン
        ド400億マルク、11月2日朝には1ポンド4兆マルク、同日夕方には1ポン
        ド8兆マルクという急激なものである。
(4)当時のドイツの政治情勢について触れられ、この時期の連立内閣の倒
         壊不可避で次期内閣の政党基盤が取り沙汰されており、全体的革命は
         不可能であるものの各州における独立運動は成功する可能性がある。
(5)ドイツの危機的な経済や革命的な政治の状況を見ることが留学の目的
         であるので、命を落とすまでそれを考察するつもりであり、その考察
         ためにドイツ語の速成が必要なので日夜それに励んでいる。

 また(5)については、世耕弘一の留学の目的は混乱状態での政治と経済状態を見ることが留学の目的であり、また、体験したハイパーインフレとその克服の考察が後に隠退蔵物資摘発の理論的根拠になったのである。

27.世耕弘一の山岡萬之助宛書簡(1923年11月19日、ベルリン発信)
 (学習院大学法経図書センター所蔵の「山岡萬之助関係文書」H173の複
  製)
 
『讀賣新聞』に山岡萬之助の記事が掲載されているのを世耕弘一が見出し、「嬉しく思い、切り抜きを同封したので御一覧を賜りたい」と記されている。『讀賣新聞』を閲覧した場所は明記されていないが、「日本人倶楽部」であったと判断される。
 世耕弘一自身の文字で「東京の讀賣新聞の記事です。」と書き込まれた新聞の切抜が 同封されており、その「小石川巣鴨の災を救った山岡局長のお手柄」という見出しの記事は、調査の結果、1923(大正12)年9月14日付『讀賣新聞』掲載であることが判明した。

28.1920年代後半のベルリン大学の写真
 (近畿大学所蔵のAufnahmen von Sasha Stone,herausgegben von
  Adolf Behne,Berlin in Bildern,Wien und Leipzig 1929収録)

 この写真は、Aufnahmen von Sasha Stone,herausgegben von Adolf Behne,Berlin in Bildern,Wien und Leipzig 1929に収録されている、ベルリン中心部のウンター・デン・リンデン(Unter den Linden)通りに面したベルリン大学(正式名はFriedrich-Wilhelms-Universität zu Berlin)を撮った写真である。
 前面にあるのは、同大学の創設に関わったアレクサンダー・フォン・フンボルト(Alexander von Humbold 1769-1859)の像である。興味深いのは、建物の前に写っている人物の中に帽子を被った人物がいるが、体型から西洋人ではなく、日本人の可能性がある。それほど、当時は日本人留学生の姿が同大学ではよく見かけられたと思われる。

29.ドイツ在住の日本人(1924年当時)統計数字表
 (外務省外交史料館所蔵の「大正十三年海外在留本邦人職業別人口調査一
  件 第二十七 在歐洲各館」に依拠)
 
この史料に挙げられている複雑な表の数字を必要な限りで簡明に整理すると、以下の通りである。

ドイツ国内に在住する
 「本邦内地人合計」 : 1175人(男性:1089人・女性86人)
  その中の「本業者」: 1094人(男性:1077人・女性17人)         
  その内の 「家族」   : 81人(男性: 12人・女性69人)
ベルリン内に在住する
 「本邦内地人合計」 : 977人(男性: 934人・女性43人)
 その中の「本業者」 : 935人(男性: 931人・女性 4人)         
 その内の 「家族」    : 42人(男性:  3人・女性39人)

(表記は原典尊重の観点から原史料のままにしている)

 そして、ここで重要なのはベルリン市内に在留する「本邦内地人」の中の「本業者」935人内で、1番多いのは「教育関係者」で377人(男性376人・女性1人)という点である。この「教育関係者」の男性376人 の一人が、世耕弘一ということになろう。
 因みに、2番目に多いのは「医師」、3番目に多いのは「官吏」、4番目に多いのは商社等に勤務する「会社員」で、以上で合計約700人になる。

30.「獨逸日本人會」の広告
 (近畿大学所蔵の一色いしき利衛著『獨逸案内』〔欧州月報社 1936年〕
  収録)

 一色いしき利衛(1909-?)が1936(昭和11)年にベルリンで日本人向けに刊行した『獨逸案内』に掲載された「獨逸日本人會」(Japanischer Verein in Deutschland)の広告である。
 同会はベルリン在住の日本人から構成され、官庁・会社・銀行・商店などの団体に属する人々を団体会員とし、留学生・旅行者を普通会員とするもので、日本人相互の親睦を図り、常に有益な見学などを催していた。日本の新聞や雑誌・碁・将棋・麻雀・玉突きなどを備え、日本食堂も設けており、ベルリンを訪れた日本人はここを「日本人倶楽部」と呼んでよく利用していた。
 1931(昭和6)年に、ベルリン駐在日本大使小幡酉吉が外務大臣幣原喜重郎に提出した報告書にドイツ在留の日本人が組織した5団体が列挙されており、その中の一つであるこの「獨逸日本人會」は、1923(大正12)年に設立され、場所はビュロウ(Bülow)通り2番となっている。
 『ベルリン住所録 1925』(Berliner Adresßbuch 1925)第3巻138頁には以下の通り記載されている(JinnushoはJimushoの誤記と思われる)。

  Bülowstr. 2        (ビュロー通り2
  Doittu Nihonjinkai Jin-   独逸日本人会
  nusho,Japan Klub T    事務所 日本倶楽部)

 この当時、ベルリンの南西部は日本人の多く住む地域であり、「獨逸日本人會」もその地域にあった。世耕弘一は研究の合間にこの「日本人倶楽部」を訪れ、そこに備え付けられた日本の新聞を読んで、日本の様子を知ろうとしていたと思われる。

31.ハイパーインフレの推移の表
 
この表は、第一次世界大戦参戦直前を起点として、マルクの対ドル為替相場が約10分の1に低落した年月日と10分の1に低落していく時間的間隔を示すものである。

 以下の文献に立脚して作成:
  Hrsg. vom Statistischen Reichsamt,Wirtschaft und Statistik,3.Jahrgang
  Berlin 1923
  Hermann Bente,Die deutsche Währungspolitik von 1914 bis 1924, in:   Weltwirtschaftliches Archiv ,Bd.23, Jena 1926

32.100,000マルク紙幣(1923年2月1日発行)
 (荒木康彦近畿大学名誉教授所蔵)
 
1923年1月11日に、ドイツの賠償金支払不履行を理由にフランス・ベルギーはドイツ産業の中心部たるルール地方の工業設備を軍事占領した。ドイツのクーノ(Cuno)内閣は、同月13日にルール地方の住民に「消極的抵抗」、つまり占領軍に対するゼネ・ストを命じた。
 この政策によってドイツの経済は深甚な影響を蒙(こうむ)り、紙幣が乱発に乱発を重ねられハイパーインフレが急激に進行し、1ドルに対するマルクの為替レートは第一次世界大戦前の1914年7月には4.2マルクであったのに、大戦後の1920年1月には41.98マルク、1923年1月31日には49,000マルクとなり、世耕弘一のベルリン到着直前の同年10月11日には50億6,000万マルクに、そして到着直後の同年11月3日には4,200億マルクとなった。
 従って、この紙幣はハイパーインフレが急激に進行し始めた時期に発行されたものである点が注目に値する。

33.Emil Prill肖像写真
 (同志社女子大学所蔵のAdolf Goldberg, Porträts und Biographien
  hervorragender Flöten-Virtuosen, -Dilettanten und -Komponisten,
  Berlin 1906.の復刻版の複製)
 
世耕弘一の恩師とも言うべきエミール・プリル(Emil Prill 1867-1940)の略歴は、以下の通りである。
 1881-1883年にベルリン王立音楽大学で学ぶ。サンクトペテルブルク及びモスクワで活動後、1888-1889年にハルキウ帝国音楽学校で教鞭を執る。1889年にハンブルク・フィールハーモニー管弦楽団の首席フルート奏者に就任、1903年以降はベルリン王立音楽大学で活動し、1912-1934年は教授を務めた。
(典拠:Hrsg.von Rudolf Vierhaus,Deutsche Biographische Enzyklopädie, Bd.8 München 2007)

 桜門文化人クラブ編『日本大学七十年の人と歴史』第2巻収録「ドイツ留学の憶い出」では「ドイツでは、主としてベルリンで二、三の大学教授について勉強したが、特に私をよく指導してくれたのはプリルーという音楽の先生で、私は家庭的にもプリルー教授の一家とは非常に親密にして貰った時間の方が多かった。」と述べられており、世耕弘一はプリル教授宅を頻繁に訪れていたと推察される。『ベルリン住所禄1923』(Berliner Adeßbuch 1923)第1巻2455頁に「プリル,エミール シュルロッテンブルク レオンハルト通り5Ⅲ 電話Wilh.7627」(Prill, Emil, Prof., Charlottenbg., Leonhardstraße 5 Ⅲ.T.Wilh.7627)と掲載されている。
 なお、「ベルリン大學の研究室において政治學及び經濟學」を研究する世耕弘一が、如何なる経緯でベルリン音楽大学の教授であったエミール・プリルの知遇を得る事になったかの解明は今後の課題である。

34.世耕弘一『𝔇𝔢𝔲𝔱𝔰𝔠𝔥𝔢 𝔖𝔭𝔯𝔞𝔠𝔥-𝔲𝔫𝔡 𝔖𝔱𝔦𝔩𝔩𝔢𝔥𝔯𝔢 獨逸語並に文體論』
 (寶文館 1927年 近畿大学所蔵)

 日本大学の「海外留學生派遣規程」(1926年4月)の「第五條 本大學ノ留學生ハ歸朝後留學中ノ研究結果ヲ公刊シ學会ノ批判ヲ受クヘシ」の規定により、世耕弘一の帰国の年である1927(昭和2)年12月20日に発行されたと判断される。
 本書の冒頭の「はしがき」から、「1927年の春」(この場合の「春」とは立春以降立夏までの意味であろう)、即ち帰国直前に、ベルリンのヒンデンブルク通り82の下宿で脱稿したのが注目される。「はしがき」の内容は以下の通りである。

 この文法書はドイツの有名な語学者ワイセ教授の著
書によって書いたものである。
 そしてこの本は一ツは教科書とし一ツはドイツ語
学の研究の一助たらしめんとしたのである。
      千九百二十七年の春
      独逸ベルリン、ヒンデンブルヒ街の
           仮の宿にて しるす


35.ベルリン地図
 (荒木康彦近畿大学名誉教授所蔵のKarl Baedeker, Berlin and its
  Environs ,Leipzig 1923収録)
 
ドイツを訪れた外国人旅行者向けに刊行されたベーデカーの旅行案内書シリーズの内、ベルリンの巻に収録されたベルリン地図である。この当時、ベーデカーの旅行案内書はよく利用されており、歴史や文化よりも宿泊・観光・娯楽等を中心にして編纂されている。
 刊行年が1923年であることから、同年にベルリンに到着した世耕弘一や小林錡(かなえ)も利用した可能性がある。本書にはベルリンの各種地図が収録されており、巻末にはベルリンの主な「通り」の索引も付せられ、利用しやすくなっている。
 桜門文化人クラブ編『日本大学七十年の人と歴史』第2巻収録「ドイツ留学の憶い出」で「私がベルリンで下宿していた家の人は、非常によい人だった。私はベルリンに着いた最初からその家に下宿して、5年間ずうと居った。現在は西ベルリンの方になっているか、ベルリンのウイルマスドルフという街のヒンデンブルクの名前のついた八十何番地かで、ハンス・ウイルデという二階建ての家であった。」と述べられており、名称変更の為に現在は存在しないが、世耕弘一の下宿があったヒンデンブルク(Hindenburg)通りもこの地図で確認出来る。

36.Berliner Adreßbuch 1925,Zweiter Band,Berlin 1925, S.3502.
 (ベルリン州立図書館所蔵の複製)
 
デジタル・ベルリン州立図書館(Digitale Landesbibliothek Berlin)で、『ベルリン住所録』(Berliner Adreßbuch)が公開されている。これは「公的な資料の利用に基づいて」とされているものであるから、「可信性」が高いと思われる。
 1923-1927年間の各年に刊行されたものを閲覧すると、それぞれ第1巻(Erster Band)及び第2巻(Zweiter Band)にベルリンの居住者(Einwohner)がアルファベット順に網羅的に掲載されている。
 1923-1927年間の各年に刊行された第2巻に、世耕弘一の下宿先であったヴィルマルスドルフ(Wilmersdorf)区ヒンデンブルク通り(Hindenburgstraße)に居住するヴィルデ( Wilde)なる人物を見出すことが出来た。
 例えば、『ベルリン住所禄 1925』第2巻3502頁にヴィルデ姓の者が羅列された中に「ハンス 商人 ヴィルマースドルフ ヒンデンブルク通り82Ⅰ」(Hans, Kaufm, Wilmersdf, Hindenburgstr.82 Ⅰ)と掲載されている。
 このヴィルデ(Wilde)という人物は、桜門文化人クラブ編『日本大学七十年の人と歴史』第2巻収録「ドイツ留学の憶い出」で言及されている下宿していた家の主人「ハンス・ウイルデ」であろう。職業がKaufm.即ち商人(Kaufmann)となっているのは、下宿していた家の主人が「昔は軍隊へ服などを納入する御用商人で、そのころはライヒナーという有名な化粧品問屋の支配人のようなことをしていた」という「ドイツ留学の憶い出」における陳述と矛盾しない。

37.Berliner Adreßbuch 1925,Zweiter Band,Berlin 1925,S 3502の部分拡大
 (ベルリン州立図書館所蔵より採録)
 『ベルリン住所録1925』第2巻3502頁にヴィルデ姓の者が羅列された中に「ハンス 商人 ヴィルマースドルフ ヒンデンブルク通り 82 Ⅰ」(Hans, Kaufm, Wilmersdf, Hindenburgstraße 82 Ⅰ)と掲載されている。

38.世耕弘一の下宿先の建物現状写真
 (Google ストリートビューより採録)
 
世耕弘一の下宿先であるヴィルデ宅はベルリン市のヴィルマルスドルフ(Wilmersdorf)区のヒンデンブルク通り(Hindenburgstraße)82であったこと、それは現在の同市シャルロッテンブルク・ヴィルマルスドルフ(Charlottenburg-Wilmersdorf)区のアム・フォルクスパルク81(Am Volkspark 81)であることを非常に複雑な史料分析の結果、解明することができた。
 この写真はGoogleストリートビューを利用して採録したアム・フォルクスパルク81(Am Volkspark 81)の建物の現状である。この建物は外観が建設当時の状態を留めているか否かはさて置き、世耕弘一が下宿していた当時も、基本的にはこうした様子であったと思われる。

39.世耕弘一の山岡萬之助宛書簡(1924年10月10日、ベルリン発信)
 (学習院大学法経図書センター所蔵の「山岡萬之助関係文書」H174の複
  製)
 
桜門文化人クラブ編『日本大学七十年の人と歴史』第2巻収録「ドイツ留学の憶い出」では留学費用について、関東大震災により「日本大学も壊滅して復興に全力をつくすことになったので、日本大学からの留学費は一年分ぐらいしか頂けなかった」とされており、ベルリン到着後、約1年後に発信されたこの書簡では留学費用の送金が要請されている。この書簡がモスクワまでの航空便であることから、至急のことであったのが伺える。
 この書簡の内容の要点は、以下の通りである。

(1)昨年の地震以来、確定的費用の出所を失い、今日まで何とか切り抜け
   てきた。
(2)東京の深川の材木店の知人が本月初めに送金すると約束していたが、
       「突然本日電報にて本年内送金不可能の旨」と言ってきて、「非常に困
        却」している。
(3)急なことで「当座の方法」も立て難いので、約3ケ月の学費を貸して頂
         きたい。
(4)送金頂く場合は「電報為替」で御願したい。

40.世耕弘一の山岡萬之助宛書簡(1924年10月11日、ベルリン発信)
 (学習院大学法経図書センター所蔵の「山岡萬之助関係文書」H175の複
  製)
 1924(大正13)年10月10日発信の書簡とその翌日発信のこの書簡は、ほぼ同じ内容である。その理由としては、この書簡の追伸部分で述べられている様に、先の書簡が航空便であった為、確実に着くかどうかが懸念され汽車便で発信したことであった。留学を継続したいという熱意と周到な配慮が伺える。

41.岡崎邦輔の山岡萬之助宛書簡(1926年1月12日 東京発信)
 (学習院大学法経図書センター所蔵の「山岡萬之助関係文書」H75の複
  製)
 
桜門文化人クラブ編『日本大学七十年の人と歴史』第2巻収録「ドイツ留学の憶い出」では留学費用について「紀州の徳川家」および「紀州の先輩で政治家の岡崎邦輔さん」から融資を受けたとされているが、岡崎邦輔(1853-1936)は和歌山県選出の衆議院議員(立憲政友会所属)で、陸奥宗光(1844-1897)の従弟にあたり、政友会内で重きをなした人物である。岡崎は山岡萬之助と親交があったと推測される。
 この書簡の内容の要点は、以下の通りである。

(1)ドイツ留学中の世耕弘一からの書簡を岡崎邦輔が「拝見」したので、
  「返上」するつもりである。
(2)「世耕之兄弟」が岡崎邦輔を訪問し、留学費用不足分と帰国費用等で
  1500、600円不足するので、工面してくれと申し入れてきた(「世耕之
  兄弟」は実兄の世耕良一であろう)。
(3)「留学中之借金及旅費」も必要との事であるが、これ以上の支出は無
  理なので、「南葵育英會」に申し込んでおいた。
(4)「南葵育英會」は海外の留学生への貸与の前例は無いが、特別に取計
  って貰うように申し込んでおいた。

42.『南葵育英會會報 五十一號』(1935年12月発行)掲載の「賛助員名
  簿」
 (近畿大学所蔵)

 1935(昭和10)年の南葵育英会「賛助員名簿」には「世耕弘一 豊島区池袋一ノ二 日本大學々生主事 代議士」とされており、「一期」、即ち「十年」で、「賛助金口数」は「五口」、即ち「年十圓」となっていることから、「一年半」の留学費用は「紀州の徳川家から借りた金」(「ドイツ留学の憶い出」より)は南葵育英会からの奨学金と判断される傍証になると思われる。

43.『南葵育英會會報 第壹號』(1913年7月発行)掲載の「南葵育英會設
  立趣意書」
 (近畿大学所蔵)

 この「南葵育英會設立趣意書」によれば、従来の育英会の資金と紀州徳川家の「四分利公債六萬圓」を「基金」にして、同家第15代当主の徳川頼倫(1872-1925)によって1913(大正2)年5月14日に南葵育英会は設立されている。また、「南葵育英會規則」第2条によれば、同会は「和歌山縣下全部及三重縣下舊紀州領出身者子弟ノ教育ニ關スル保護奨励」を目的とするものであった。桜門文化人クラブ編『日本大学七十年の人と歴史』第2巻収録「ドイツ留学の憶い出」では「一年半」の留学費用は「紀州の徳川家から借りた金」とされており、これは南葵育英会からの奨学金と判断される。
 その他に注目すべきは、この「南葵育英會會報 第壱號」所収の「會計報告」に「育英會引継後寄付金」の筆頭に「一〇〇〇圓 岡崎邦輔」と記されている事である。また、この号所収の「南葵育英會評議員」名簿に「東京市京橋區明石町六二 岡崎邦輔」が認められる事から、岡崎邦輔は南葵育英会での発言権が強かったと推察される。

44.「ベルリン發歐亜連絡車發車時刻表」
 (国立国会図書館所蔵の八木彩霞『彩筆を揮て欧亜を縦横に』〔文化書房
  1930年〕の複製)
 
1927年にシベリヤ鉄道を利用して欧州から帰国した画家の八木彩霞(1886-1969)は、著書『彩筆を揮て欧亜を縦横に』に於て、克明な「ベルリン發歐亜連絡車發車時刻表」を掲げている。
 それによれば、八木は1927年2月17日午前7時5分にベルリンを発ち、ワルシャワを経由してモスクワに行き、シベリ鉄道を利用して旧満州の満州里に着き、南満州鉄道を利用して韓国に入り、釜山から連絡船に乗船して、3月3日午前7時に下関に到着しており、所要日数は15日である。

45.「鉄道路線地図」
 (和歌山大学図書館所蔵の『西伯利經由歐州旅行案内』〔鉄道省運輸局
  1927年6月〕の複製)
 
第一次世界大戦後に成立したヴェルサイユ体制では、ソヴィエト社会主義連邦共和国(以下、ソ連邦と略)は敵視されていたが、 1920年代始めに西洋諸国は相次いでソ連邦を承認し、1927年にはシベリヤ鉄道の国際的利用が再開されることとなった。それこそは、世耕弘一が「昭和二年二月」に「シベリヤ鉄道」を利用して「ロシヤ」経由で帰国した背景であった。
 この資料は1927(昭和2)年6月に鉄道省運輸局から『西伯利經由歐州旅行案内』に収録された、シベリヤ鉄道を利用した場合の日欧間の鉄道路線図であり、注目するのは、シベリヤ鉄道を利用した場合の大陸から日本国内への連絡ルートは複数有ることである。
 世耕弘一がシベリヤ鉄道を利用して帰国したのは1927(昭和2)年2月と判断されることもあり、ほぼ同時期にシベリヤ鉄道を利用して帰国した八木彩霞と同様、満州里・哈爾賓・奉天・釜山を経由し下関のルートを利用して帰国した可能性が大きいと思われる。

46.シベリヤ横断急行食堂車の写真
 (近畿大学所蔵のF.N.Petrov,TRANS- SIBERIAN EXPRESS,INTOURISTの
  複製)

 この史料は、ソヴィエト社会主義連邦共和国の旅行公社であるINTOURIST 発行の『シベリヤ横断急行』(TRANS- SIBERIAN EXPRESS)と題するシベリヤ鉄道のガイド・ブックであり、シベリヤ鉄道沿線の都市や観光スポットの案内が主である。発行年代は不明であるが、61頁に「このスケデュールは1930年5月15日まで有効である。」という文言がある事から、世耕弘一がシベリヤ鉄道を利用した時よりも若干後に発行されたものであると推測される。
 表紙に満鉄ハルビン事務所内「ジャパン・ツーリスト・ビュロー」のスタンプが押されていることから、南満州鉄道のハルビン事務所内「ジャパン・ツーリスト・ビュロー」の旧蔵資料であったと判断される。
 シベリヤ横断急行に連結されていた食堂車内の珍しい写真であり、その当時の西欧の国際列車の食堂車に比べて遜色ない事が分かる。

47.「◎二留学生の帰朝」
 (日本大学広報部広報課所蔵の『日本法政新誌』第24巻第3号〔日本大学
  内日本法政学会 1927年〕より採録)
 
『日本法政新誌』には巻末に当時の日本大学関係者の消息が掲載されている。
 この記事は『日本法政新誌』第24巻第3号の巻末に掲載されたものであり、その発行日は1927(昭和2)年3月1日であるので、「二留学生」が「シベリヤ經由本月帰朝した」とされている場合の「本月」は1927(昭和2)年2月と解すべきであろう。世耕弘一がシベリヤ鉄道を利用して1927(昭和2)年2月に帰国したことを報じる貴重な陳述である。
 また、世耕弘一のベルリン大学での研究について、同大学の「研究室において政治學及び經濟學を専攻したものである」とされているのも貴重な言及である。但し、冒頭部分の「去大正十二年九月一日の大震災の前日神戸を出帆してドイツ留學の途についた」の「大正十二年九月一日の大震災の前日」というのは明らかな誤謬であり、正しくは「大正十二年九月二日の大震災の翌日」、また「満二ケ年の留學」というのも誤謬であり、正しくは「満三ケ年余り」乃至「足掛け五ケ年」とすべきところであろう。

48.『昭和三年六月現在 日本大學校友會會員名簿』表紙及び345頁の「世
  耕弘一」の部分
 (国立国会図書館所蔵より採録)
 
日本大学の「海外留學生派遣規程」(1926[大正15年]年4月)の第3条にある「歸朝後本大学ノ教授又ハ講師トシテ就職スルニ適當ナル事情ニアル者」と認められ、留学生としてドイツに派遣された世耕弘一は、帰国後に日本大学講師として採用されており、この名簿の345頁に姓名は「世耕弘一」、職業は「日本大學講師」、現住所は「東京府下西巣鴨町堀ノ内八五」、卒業年度は「大一一」、学科種別は「法」、本籍は「和歌山」と掲載されている。

49.「世耕弘一」の写真及び略歴
 (荒木康彦近畿大学名誉教授所蔵の『アサヒグラフ』「新代議士名鑑」
  〔第十八巻第十號 東京朝日新聞発行社 1932年3月2日発行〕より採
  録)
 
世耕弘一は帰国した翌年の1928(昭和3)年に実施された第16回衆議院総選挙に、家族が驚倒(きょうとう)せんばかりに卒然と和歌山県2区で立候補した(結果は、次々点であった)。更に、1930(昭和5)年に実施された第17回衆議院総選挙に立候補し(結果は、次点であった)、1932(昭和7)年に実施された第18回衆議院総選挙に立候補してトップ当選を果たした。
 同年に刊行された『アサヒグラフ』(第十八巻第十號)「新代議士名鑑」の「和歌山」の部分に、世耕弘一の写真及び略歴が掲載されており、「世耕弘一(政友・新)」、「日大教授」、「日大卒(四〇)」とされている。

50.世耕弘一「隠退蔵物資摘発の真相」
 (国立国会図書館東京本館憲政史料室所蔵 メリーランド大学ゴードンW.
  ブランゲ文庫収録 『自由國民』第7号[時局月報社1947年]の複製)
 
この論説での定義によれば、隠退蔵物資とは隠匿物資と退蔵物資という意味で、前者は非合法的手段によって入手保管するものであり、後者は正規の機関が保有する物資で割当先が決定しているのに、決定後6カ月以上も正当な理由なく配給されていないものである。
 隠退蔵物資問題は、第二次世界大戦終結時に本土決戦に向けて旧日本軍によって備蓄されていた莫大な物資が拙速に放出されたり、不正に奪取されたりしたことに由来しており、終戦直後の日本に於ける最大の社会問題となった。
 第二次世界大戦後直後の物資不足で飢餓に瀕する国民を救済する為に、隠退蔵物資問題の解決に取組んだ世耕弘一の活動は周知のことである。世耕弘一がドイツ到着直後に体験したハイパーインフレとシュトレーゼマンのレンテンマルク発行によるその克服を参考にし、摘発した隠匿物資によって第二次世界大戦直後の日本のインフレを克服することを目指したことが語られている。
 ドイツ留学中の知見が世耕弘一の政治活動の基礎をなしていることに改めて注目されるのである。


※近畿大学所蔵資料のみ、画像を添付しています。
※特別展については、「2023年度特別展「創設者 世耕弘一 ドイツ留学100周
 年」を開催しました」を掲載しています。
※記念講演「世耕弘一のドイツ留学とその歴史的意義」の全文を掲載してい
 る記事があります。


文:広報室建学史料室


(2024年9月30日公開)

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