2023年度特別展記念講演「世耕弘一のドイツ留学とその歴史的意義」(全文)
不倒館では、令和5年(2023年)が、本学創設者である初代総長 世耕弘一が大正12年(1923年)にドイツに留学してから100周年を迎えることを記念して、10月11日(水)~17日(火)の期間、特別展「創設者 世耕弘一 ドイツ留学100周年」を開催しました。その最終日に行った、当室特別研究員で日独交渉史の研究家でもある荒木康彦近畿大学名誉教授による記念講演「世耕弘一のドイツ留学とその歴史的意義」の全文を公開いたします。
はじめに
世耕弘一は、1923年から1927年まで足掛け5年間ドイツに留学している。世耕弘一がドイツ留学についての回想「ドイツ留学の憶い出」を残しており、自身にとってのドイツ留学の意義を深く認識していた訳である。
それ故に、ここでは根本史料である「ドイツ留学の憶い出」の重要な点を、新たに発見した一次史料を使って、逐一掘り下げ、それを通じて世耕弘一のドイツ留学とその歴史的意義について実証的に申し述べたい。
ベルリンに至る旅路
日本大学法文学部法律科を卒業して、朝日新聞社に採用された直後の世耕弘一が、「ドイツ留学の憶い出」によれば、日本大学理事の山岡萬之助から「ドイツ留学の内命をうけたのは大正十二年四月末」であった。
「大學令」によって1920年に認可された8私立大学の中の一つである日本大学は、認可申請附属文書によれば、専任教員の絶対数が少ないだけではなくて、学生数に比しても専任教員数が少なかった。
山岡萬之助は、卒業生を欧米諸国へ「海外留學生」として派遣し、帰国後は専任教員として採用して、日本大学の拡大を図るという経営安定の戦略を抱いており、世耕弘一が「ドイツ留学の内命をうけた」事の背景を為している。
日本大学からのドイツ留学の発令を示す1923年当時の史料は見出せないが、1926年「一月十九日」に日本大学で作成された、七項目からなる「世耕弘一」と題する文書を学習院大学法経図書センター所蔵「山岡萬之助関係文書」で見出した。ドイツ留学の発令日はこの史料からも分からないが、この史料の第三項目に「日本大學ヨリノ給費額 貮千七百圓 尚帰國旅費給與ノ見込」とされているから、世耕弘一が日本大学から派遣された事は明瞭である。しかも、注目すべきは、第四項目に「大阪朝日遣外社員トシテノ給費額」についての言及があり、朝日新聞社とのドイツ留学中の世耕弘一の関係性が伺える事である。
そこで、朝日新聞大阪本社で史料調査を実施した結果、同社所蔵の朝日新聞本社「自大正十一年至大正十五年 社員異動簿 (大阪 東京)」に「世耕弘一」の欄を発見出来た。大阪・東京朝日新聞本社の1922年から1926年までの人事異動に関するこの記録の1923年の部分に、世耕弘一に関する以下の様な内容の欄が収録されている。「発令月日」の項目には「大阪朝日新聞社総務局文書課12.7.11」のスタンプがあり、「給与」は「報酬無シ」、「氏名」は「世耕弘一」、「辞令」は「在欧中通信ヲ嘱託ス」、「所属」は「私立日本大學独乙留学生」等となっている。従って、朝日新聞社に採用されていた世耕弘一は、日本大学のドイツ留学生となった為に、「大正12年7月11日」に「報酬無シ」で「在欧中通信ヲ嘱託」される身分への「異動」という形で、事実上、朝日新聞社を退いている。
ドイツ留学が決定した段階で、為すべき事は海外渡航のための旅券の申請であった。この当時、外務省は旅券交付の結果を「海外旅券下付表」として一覧表を作成している。外務省外交史料館所蔵の「海外旅券下付表 二一八巻」の「東京府」の部分の19丁裏に世耕弘一の項目を発見出来た。「旅券番號」は「五四九八三一」、「氏名」は「世耕弘一」、「身分」は戸主の「弟」、「本籍地」は「和歌山縣」、「年齢」は「卅年六月」(30歳6か月)、「旅行地名」は「香港、新嘉坡、馬按加、彼南、古倫母、蘇土、坡西土、佛、瑞、獨」(ホンコン、シンガポール、マラッカ、プナン、コロンボ、スエズ、ポートサイド、フランス、スイス、ドイツ)、「旅行目的」は「學術研究」、「下付月日」は「八月三日」となっている。
かくして、留学準備が万端整った頃の1923年8月8日に、日本大学の有志による送別会が東京市麹町区の西洋料理店「富士見軒」で催された。その時の様子が同年8月13日付『日大新聞』(第三十三號) で報じられている。ドイツに赴く「我が大學留學生小林錡氏(獨逸法律學)」が「徹底的に研究して來るつもりである」と挨拶したのに対して、「世耕弘一氏(獨逸政治經濟學)」は「私はあちらへ行つたらピアノとダンスとそれから語學を大にやるつもりです。經濟學はそのつけたりにやるとかで、一體私は學生時代から三人前の仕事をやる主義であったが、今度も本學の留學生と、朝日新聞及び文部省の兩方に関係してゐるのでやはり三人前をやつてのける私の通信が朝日に出たのを御覧下さらば幸に世耕やつてゐるなと思つて頂きたい。」と述べて、拍手を浴びたのであった。
世耕弘一は巧みにユーモアを交えて、留学に向けての抱負等を語り、ドイツでは大局的で且つ本質的に考察をする積りであるとしていると解釈出来よう。
「ドイツ留学の憶い出」では、世耕弘一が「東京を出発したのがその年の八月三十一日」で、「翌九月一日、大阪で昼食をしている時にグラグラ大きく揺れ出したが、まさか東京が、あんな大きな被害を受けようとは思わなかった」とされている。1923年9月1日午前11時58分に発生した関東大震災の揺れを大阪での昼食時に感じたという事になる。
『公認 汽車汽船 旅行案内 大正十二年七月 第三四六號』掲載の東京・大阪間の鉄道の当時の時刻表によれば、東京発関西方面行の夜行の急行列車は6本あり、何れも約12時間程で翌日午前中に大阪着となっている。これらの夜行の急行列車のいずれかを利用し東京を発った世耕弘一は、その翌日の午前中に大阪に着いて、同地で関東大震災の揺れを昼食時に感じたのであった。そして、実兄の世耕良一との記念写真が撮影されたのも、同日に大阪に於てであった。
更に、「ドイツ留学の憶い出」の神戸からの出国については、次の通りである。
(前略)神戸から出航する欧州航路の伏見丸という船に乗ってドイツに向った。伏見丸は一万トンぐらいの船で、当時とすれば相当大きな船であった。伏見丸では小林錡さんと一緒であったが、小林さんとは一緒に日本を発って帰国する時も一緒であった。(後略)
世耕弘一の旅券が見出されていない事、当時の神戸の税関の出入国記録や日本郵船の伏見丸の乗船名簿も残っていない事から、伏見丸の神戸からの出港について一次史料によって確認出来ない。
しかし、1923年9月23日に神戸で刊行された英字新聞THE JAPAN CHRONICLE,WEEKLY COMMERCIAL SUPPLEMENTに掲載された「船舶情報」の「出航」の欄の9月2日の部分に「ロンドン向け、日本郵船株式会社」の「伏見丸」が掲載されている。従って、日本郵船の伏見丸は1923年9月2日に神戸を出航した事が確認出来た。また、1923年発行の「神戸市地圖 付西灘村」では当時整備中の神戸港の様子が伺われ、第一突堤の東側の岸壁に接岸した伏見丸に世耕弘一は搭乗してヨーロッパに向かったと判断される。
更に「ドイツ留学の憶い出」で言及されている、単に伏見丸で同乗しただけではなくて、ドイツ留学を共にした小林錡(1888-1960)についての徹底的な文献調査の結果、世耕弘一による小林に対する追悼文「小林先生との深い因縁」が1963年に発行の『小林錡先生』に掲載されているのを発見出来た。これも非常に重要な史料であり、殊に伏見丸では共に「2等船室」を利用した事、ベルリンまでの所要日数は「45日」であった事が明記されているのは注目に値する。
伏見丸の2等船室の位置について、1915年刊行の『日本郵船株式會社創立三十年記念帳』に収録されている伏見丸等の1万トンクラスの客船の縦断図で確認すると、居住性の悪い船尾部分にあった事が分る。
伏見丸の欧州までの所要日数については、1924年刊行の『渡歐案内』によれば、伏見丸等の日本郵船の1万トンクラスの船舶の場合、神戸から43日目にマルセイユ着となっている。また、『渡歐案内』によれば、日本郵船の船舶はマルセイユ港の「海の駅の船溜まり」(Bassin de la Gare Maritime)の第8岸壁に接岸するとなっているから、世耕弘一はそこに降り立ち、欧州での第一歩を印した事になる。
1925年刊行の『歐洲大陸旅行日程』所収の「歐洲大陸旅行案内」によれば、マルセイユからのベルリンまでの鉄道旅行はリヨン・ジュネーヴ・バーゼル・フランクフルト経由が一般的とされている。
当時のヨーロッパ大陸の鉄道時刻表に関しては、国内外の図書館・資料館等でこれまた徹底的に史料探索した結果、大阪府立中央図書館に於て非常に貴重な1923年10月刊行のCook’s Continental Time Table And Steamship Guideを発見する事が出来た。これに収録されたヨーロッパの鉄道の時刻表を利用して、リヨンを経由するマルセイユ・ジュネーヴ間、ジュネーヴ・バーゼル間、バーゼル・フランクフルト間、フランクフルト・ベルリン間の急行の発着を克明に調べた結果、リヨン・ジュネーヴ・バーゼル・フランクフルトで急行列車を乗り継ぐ形で鉄道を利用すれば、マルセイユに到着の翌々日の夜にはベルリンに到達可能である事が分かった。具体的に言えば、43日目の午前中に伏見丸でマルセイユに着き、12時10分にマルセイユ発・ジュネーヴ着急行に乗車すれば、リヨン・ジュネーヴ・バーゼル・フランクフルト経由で、45日目の17時26分に、或いは22時50分にベルリンに到着出来るのである。
前掲のトマス・クック社の時刻表では、フランクフルト発ベルリン行の5本の急行列車は、いずれも当時のベルリンのアンハルト(Anhalt)駅到着となっている。従って、世耕弘一は神戸港を発ってから45日目の夜にベルリンで最も壮麗な駅舎であった同駅に到着したと判断される。
留学の地ベルリンにて
19世紀以来ドイツの諸大学で学んだ日本人について考察すると、実に様々な形態や資格で留学している事が分かる。即ち、学籍簿に登録した学生の外に、聴講生、担当教授の許可を得てゼミナールに参加する者、同じく許可を得て研究室で個別研究に従事する者等である。例えば、森鴎外の場合は、ミュンヘン大学では学籍登録したが、ベルリン大学では学籍登録せずに教授のローベルト・コッホが総括する衛生研究所で研究に従事した。
「ドイツ留学の憶い出」ではベルリンでの勉学の在り方について、「ドイツでは、主としてベルリンで二、三の大学教授について勉強した」と陳述されている。また、世耕弘一が帰国した直後の1927年3月1日に刊行された『日本法政新誌』第24巻第3号に掲載された「◎二留学生の帰朝」と題する記事では「世耕氏は同じくベルリン大學の研究室において政治學及び經濟學を専攻したものである。」と報じられている。従って、世耕弘一も、森鴎外の様に、ベルリン大学では教授の許可のもとに研究室で個別研究に従事したと推測される。
ここで、世耕弘一がベルリンで留学生活を送っていた当時、ドイツ及びベルリンに在住する日本人の実数について触れておきたい。1924年6月現在の「獨逸在留帝國臣民職業別表」を外務省外交史料館に於て発見出来た。それによれば、ドイツ国内に在留する「本邦内地人」1,175人の内の977人が、ベルリン市内に在留していた。そして、ここで注目すべきは、ベルリン市内に在留する「本邦内地人」の中で職業的に1番多いのは「教育関係者」で377人(男性376人・女性1人)となっている点である。従って、その中の「教育関係者」男性376人の一人が世耕弘一という事になる。
世耕弘一のベルリン留学中の動静が記された決定的に貴重な一次史料を発見する事が出来た。それは、先に触れた「山岡萬之助関係文書」に収録されている、恩師の山岡萬之助に宛てたドイツ留学中の世耕弘一の4点の書簡である。
①世耕弘一の山岡萬之助宛1923年11月2日付書簡(「山岡萬之助関係文書」H172)
②世耕弘一の山岡萬之助宛1923年11月19日付書簡(「山岡萬之助関係文書」H173)
③世耕弘一の山岡萬之助宛1924年10月10日付書簡(「山岡萬之助関係文書」H174)
④世耕弘一の山岡萬之助宛1924年10月11日付書簡(「山岡萬之助関係文書」H175)
それらの内の1923年11月2日付書簡は難解な長文であるが、解読して、通信文の要点を纏めて見ると、以下の通りである。
(a)日本大学の再建について心配していたが、ドイツに入国後に、日本人倶楽部で日本大学再建についての記事を朝日新聞で読み、大感激した。
(b)この当時のドイツの経済事情については、特にハイパー・インフレについて、詳しく触れられ、ドイツに入国した頃の10月17日や11月2日の為替レートが具体的に挙げられている。
(c)この当時のドイツの政治情勢については、現連立内閣の倒壊不可避性と次期内閣の政党基盤、各州における独立運動の成功の可否が触れられている。
(d)ドイツの危機的な経済や革命的な政治の状況を見るのが、留学の目的であるので、命を落とすまでそれを考察するつもりであり、その考察ためにドイツ語の速成が必要なので、日夜それに励んでいる。
また、②の1923年11月19日付書簡では『讀賣新聞』に山岡萬之助の記事が掲載されているのを見出して嬉しかったので、切り抜きを同封したので御一覧を賜りたい旨が記されており、調査の結果、この切り抜きは同年9月14日付『讀賣新聞』掲載記事である事が確認出来た。
①の書簡の要点(a)と②の書簡から、世耕弘一は研究の合間に「日本人倶楽部」を訪れ、そこに備え付けられた日本の新聞を読んで、日本の様子を知ろうとしていたと思われる。1931年にベルリン駐在日本大使が作成した報告書によれば、「獨逸日本人會」の設立は1923年で、場所はビュロウ(Bülow)通り2番となっている。ベルリンを訪れた日本人はここを「日本人倶楽部」と呼んで、よく利用していた。 野一色利衛が1936年にベルリンで刊行した『獨逸案内』に記された「獨逸日本人會」(Japanischer Verein in Deutschland)の件によれば、同会はベルリン在住の日本人から構成され、日本人相互の親睦を図り、常に有益な見学などを催しており、日本の新聞や雑誌・碁・将棋・麻雀・玉突きなど備え、日本食堂も設けていた。更に、Digitale Landesbibliothek Berlin(デジタル・ベルリン州立図書館)で『ベルリン住所録』(Berliner Adreßbuch)の1923-1927年の分を丹念に閲覧した結果、「独逸日本人會」のアドレスを見出し得た。例えば、1925年版『ベルリン住所録』の第3巻138頁に「ビュロー通り2 ドイツ日本人会事務所 ヤーパン倶楽部」(Bülowstr. 2 Doittu Nihonjinkai Jinnusho,Japan Klub)と掲載されている。
①の書簡の要点(b)のハイパー・インフレについて、ドイツの公式記録等に依拠して見ると、以下の様になる。1ドルに対するマルクの為替レートは第一次世界大戦前の1914年7月には4.2マルク、大戦後の1920年1月には41.98マルクであったのに、1923年1月31日には49,000マルクとなり、同年10月11日には50億6,000万マルクに、そして到着直後の同年11月3日には4,200億マルクとなった。従って、世耕弘一がベルリンに到着した時は、ハイパー・インフレが一層激化した時期だったのである。
①の書簡の要点(c)についてであるが、そこで触れられている当時の「連立内閣」とは、1923年8月13日に国家人民党が中心となって社会民主党・民主党・中央党と連合して形成した、シュトレーゼマン(Stresemann)内閣の事である。同年11月2日に社会民主党が連立から離脱した為にこの連立内閣は11月23日に倒れ、同月30日に中央党を中心に国家人民党・民主党・バイエルン人民党が連合して次のマルクス(Marx)内閣が成立し、この書簡に触れられている「次期内閣」と言う事になる。「各州の独立運動」とは中部ドイツの諸州における革命の動きやヒトラーによる「ミュンヘン一揆」等の事であろう。
①の書簡の要点(d)についてであるが、「ドイツの危機的な経済」、即ちハイパー・インフレを克服すべく、シュトレーゼマン(Stresemann)内閣は、9月26日にゼネ・スト停止を敢行し、11月15日に不動産や商工業資産を基礎とする紙幣レンテンマルク(Rentenmark)を発行し、1兆マルクを1レンテンマルクと交換した。かくしてハイパー・インフレがまことに奇跡的に収束に向かい、翌1924年はじめに金本位によるライヒスマルク(Reichsmark)が導入された。こうした経済政策についての留学中の考察から得られた知見は、後に隠退蔵物資摘発の理論的根拠になっていくのである。
ドイツでの研究に関して、「ドイツ留学の憶い出」では、「私をよく指導してくれたのはプリルーという音楽の先生」であったと陳述されている。しかも「ドイツ留学の憶い出」の陳述では、「プリルー教授」からの「ドイツをよく見てゆくこと、ドイツ語をしっかりやっておくことが一番大切だ」という「留学の秘訣」に従って、「主として本を読むことを中心にして勉強した」とされている。
更に、この「ドイツ留学の憶い出」に於て触れられている「プリルー教授」の音楽家としての経歴に依拠して、各種の文献史料で検討した結果、1912-1934年間にベルリンの音楽大学(Hochschule für Musik)教授を務め、フルート奏者としても令名のあったエミール・プリル(Emil Prill 1867-1940)である事が分かった。この人物のアドレスを、1923-1927年に限定して、前掲の『ベルリン住所録』 (Berliner Adreßbuch )で調べると、例えば1923年版『ベルリン住所録』第1巻のプリル姓の所に「エミール 教授 シャルロッテンブルク レオンハルト通り5 Ⅲ 電話Wilh.7627」(Emil, Prof., Charlottenbg., Leonhardstr. 5 Ⅲ.T. Wilh.7627)と掲載されている。
以上から、 エミール・プリル教授の住居は、世耕弘一の下宿のあったヴィルマルスドルフ区の北隣のシャルロッテンブルク区の レオンハルト通り5 Ⅲであった事を見出せた。
それから「ドイツ留学の憶い出」では、ベルリンでの下宿先について、次の様に詳述されている点は注目される。「ベルリンで下宿していた」とされる「ウイルデ」家は「ウイルマスドルフという街のヒンデブルグの名前のついた八十何番地かで」、主人は「昔は軍隊へ服などを納入する御用商人であった」が、そのころは「化粧問屋の支配人」であった。
旅行者向けに1923年に出版された英語版ガイドブックであるカール・ベーデッカー著『ベルリンとその近郊』(Karl Baedeker, Berlin and its Environs )に収録されている詳細な当時のベルリン地図を見たところ、ヒンデンブルク(Hindenburg)通りはヴィルマルスドルフ(Wilmersdorf)区の南端を東西に延びる通りである事を見出した。
1923-1927年間の各年に刊行された『ベルリン住所録』(Berliner Adreßbuch)のベルリンの居住者(Einwohner)の部分を長時間に亘り丹念に閲読して、ヴィルマルスドルフ(Wilmersdorf)区ヒンデンブルク通り(Hindenburgstraße)に居住するヴィルデ(Wilde)姓の者を発見した。例えば、1925年版『ベルリン住所録』第2巻3502頁にヴィルデ姓の者が羅列されている中に「ハンス 商人 ヴィルマルスドルフ ヒンデンブルク通り82 I」(Hans,Kaufm.,Wilmersdf.,Hindenburgstr.82 I)となっている。世耕弘一のベルリンでの下宿先は、ヴィルマルスドルフ区ヒンデンブルク通り82 Iのハンス・ヴィルデ宅であった事を解明出来た訳である。
Web上で公開されている1937年当時のベルリン地図(https://histo.binmap.de/xyz/)と同じく、現在のベルリン地図(https://openstreetmap.orgd)を照合した結果、旧ヒンデンブルク通り82はアム・フォルクスパルク(Am Volkspark) 81に相当する事を解明出来た。更に、「Googleストリートビュー」を利用して旧ヒンデンブルク通り82と思しきアム・フォルクスパルク 81の現状を見ると、この建物は外観が往時の状態を留めているか否かはさて置き、世耕弘一が下宿していた当時も基本的にはこうした様子であったと思われる。「ドイツ留学の憶い出」に於ける下宿先が「二階建て」・「アパート」だったという文言からすれば、一戸建ての二階の家という意味ではなくて、旧ヒンデンブルク通り82の当該建物の内の二階層住戸がヴィルデ宅だったと判断すべきであろう。
次に、「ドイツ留学の憶い出」で注目すべきは、留学費用についての陳述であり、これを整理すると、以下の様になる。
(1)関東大震災で「日本大学も壊滅して復興に全力をつくすことになったので、日本大学からの留学費は一年分ぐらいしか頂けなかった」。
(2)「次の一年間は自分の金でやりくり」した。
(3)その後の「一年半分」は「紀州の徳川家から借りた金」であった。
(4)更に、「一年半分」は「紀州の先輩で政治家の岡崎邦輔」から「借りた金」であった。
留学費用に触れている史料が、先に挙げた山岡萬之助宛の③と④の2通の書簡である。1924年10月10日付書簡と同年10月11日付書簡には極めて特殊な関係性がある事を、先ず指摘しておかねばならない。この一日違いの両者は、後者にある追伸部分除けば、ほぼ同じ内容であり、細かい表現の違いはあるもののほぼ同じ様な文章の書簡である事、前者が「ロシヤ経由」(Via Rußland)の「航空便」(Luftpost)によるもので、後者は単に「ロシヤ経由」(Via Rußland)となっている事である。後者の追伸部分の大意は、「昨日夕方にモスクワまでの航空便でこの手紙と同様の文意で御願したのですが、初めての事で無事着くか不安で汽車便でこの手紙を出した訳で、何もなければ航空便が七日くらい早いと思います」となっている。
何れも丁重な候文で非常に流麗な草書で書かれている。ベルリンでの研究を継続する為に、世耕弘一は非常に熱情の籠った通信文を記している。その大意を箇条書にすれば、以下の通りである。
(一)昨年の地震以来、確定的費用の出所を失い、今日まで何とか切り抜けてきた。
(二)東京の深川の材木店の知人が本月初めに送金すると約束していたが、「突然本日電報にて本年内送金不可能の旨」言ってきて、「非常に困却」している。
(三)急な事で「当座の方法」も立て難いので、約三ケ月の学費を貸して頂きたい。
(四)送金頂く場合は「電報為替」で御願したい。
ドイツ留学を継続して研究を深めたいとの熱意から、この様な書簡が山岡萬之助宛てに発信されたのである。
これらの書簡が投函されたのは、1924年10月であるので、ベルリン到着後ほぼ1年にあたる時期である。それらによれば、日本大学からの給付された留学費「一年分ぐらい」は、この時期までにすでに足らなくなっており、「じぶんの金」で苦心して切り抜けている事が伺える。
このような向学心あふれるそれ等の2通の書簡はいずれも無事に山岡のもとに着いたが、山岡から「留学費」は融資されなかった様であるが、山岡が岡崎邦輔(1853-1936)に働きかけて、先に述べた様に「紀州の徳川家」および「紀州の先輩で政治家の岡崎邦輔さん」から融資を受ける結果となったと思われる。岡崎邦輔は和歌山県選出の衆議院議員(立憲政友会所属)であり、陸奥宗光(1844-1897)の従弟にあたり、政友会内で重きをなした人物である。
そこで、岡崎邦輔関係の一次史料を幅広く捜し、「山岡萬之助関係文書」収録の1926年1月12日付の山岡萬之助宛書簡(「山岡萬之助関係文書」H75)が世耕弘一の留学費用に関する史料である事を解明出来た。
この書簡の通信文の要点は、大略次の3点である。
(1)「世耕之兄弟」が岡崎邦輔を訪問し、留学費用不足分と帰国費用等で千五、六百円不足するので、工面してくれと申し入れてきた。
(2)「留学中之借金及旅費」も必要との事であるが、これ以上の支出は無理なので、「南葵育英會」に申し込んでおいた。
(3)「南葵育英會」は海外の留学生への貸与の前例は無いが、特別に取計って貰うように申し込んでおいた。
以上から、「ドイツ留学の憶い出」で「紀州の徳川家から借りた金」と表現されているのは、「紀州の徳川家」による南葵育英會からの奨学金貸与だという可能性が有るという事が判明した。
鉄路による帰国
「ドイツ留学の憶い出」では、ドイツ留学からの帰国の時期及びルートについては、「日本に帰ったのは昭和二年二月、行くときは船であったが、帰りはシベリヤ鉄道でロシヤを通って来た。」と陳述されている。
第一次世界大戦後に成立したヴェルサイユ体制ではソヴィエト社会主義連邦共和国、略してソ連邦は敵視されていたが、 1920年代始めに西洋諸国は相次いでソ連邦を承認し、1927年にはシベリヤ鉄道の国際的利用が再開される事になった。それこそは、世耕弘一が「昭和二年二月」に「シベリヤ鉄道」を利用して「ロシヤ」経由で帰国した背景であった。
帰国時期について考察を進める上で、参考になるのは世耕弘一の著書『𝔇𝔢𝔲𝔱𝔰𝔠𝔥𝔢 𝔖𝔭𝔯𝔞𝔠𝔥-𝔲𝔫𝔡 𝔖𝔱𝔦𝔩𝔩𝔢𝔥𝔯𝔢 獨逸語並に文骵論』の「はしがき」にある次の様な件(くだり)である。
千九百二十七年の春
独逸ベルリン、ヒンデンブルヒ街の
假の宿にて しるす
この「はしがき」を記したのは「1927年の春」とされているが、ここで言う「春」とは、立春(2月4日)以降立夏(5月6日)迄の期間を意味していると解すべきであろう。1927年にシベリヤ鉄道を利用して欧州から帰国した画家の八木彩霞(1886-1969)は、著書『彩筆を揮て欧亜を縦横に』に於て克明な「ベルリン發歐亜連絡車發車時刻表」を掲げている。それに依れば、八木は1927年2月17日午前7時5分にベルリンを発ち、ワルシャワを経由してモスクワに行き、シベリ鉄道を利用して旧満州の満州里に着き、南満州鉄道を利用して韓国に入り、釜山から連絡船に乗船して、3月3日午前7時に下関に到着しており、所要日数は15日である。1927年6月刊行の鉄道省運輸局『西伯利經由歐州旅行案内』では欧州主要都市から日本までの所要日数は15乃至16日となっている。そして、先に記した様に、「ドイツ留学の憶い出」によれば、帰国時期は「昭和二年二月」となっている。これから総合的に勘案すれば、世耕弘一は1927年の立春直後にベルリンを発ち、その15日位後に帰国したと推測される。『西伯利經由歐州旅行案内』によると、ベルギー・フランス方面からワルシャワ行の列車は、ベルリンでは西部のツォーロギッシャー・ガルテン(Zoologischer Garten)駅、中心部のフリードリヒ通り(Friedlichstraße)駅、東部のシュレージエン(Schlesien)駅で停車していた。世耕弘一の下宿先はベルリン西南部のヴィルマルスドルフ区であったから、近くのツォーロギッシャー・ガルテン駅からワルシャワ行きの列車に乗車して、ベルリンを発った可能性が高いと推測される。また、ベルリンから帰国するまでの経由地は、八木の場合とほぼ同じであった、即ちワルシャワを経由してモスクワに行き、シベリ鉄道を利用して旧満州の満州里に着き、南満州鉄道を利用して韓国に入り、釜山から連絡船に乗船して、下関に到着したと推測される。
また、『西伯利經由歐州旅行案内』では、インド洋・地中海経由の日本・マルセイユ間の船便は「一等船客運賃」は1000円で所要日数は43日であるのに対して、日本・ベルリン間の鉄道便は一等車の場合、1000円で所要日数は15日である事が強調されている。
しかも、「ドイツ留学の憶い出」では、シベリヤ鉄道を利用して帰国する時の次の様な興味深いエピソードが語られている。世耕弘一は帰国後もドイツ語の研究を進めていく上でぜひ必要な「ドイツの古い珍しい本を少し買ったりしたので、帰りの旅費が足らなくなった」のである。そこで、下宿のヴィルデ家の夫人が「アパートの権利」を担保にして金を借りて貸してしてくれ、世耕弘一は「その金で、シベリヤ鉄道経由で七百円ばかりの日本までの通し切符を買い」帰国したと記されている。世耕弘一は「日本に帰ってすぐにその金を倍にして送金をして返済した」のであり、「その温情」を終生忘れなかったという。
先にも言及した『日本法政新誌』の第24巻第3号(1927年3月1日)に掲載された「◎二留学生の帰朝」と題する記事では、以下の様に報知されている。
去大正十二年九月一日の大震災の前日神戸
を出帆してドイツ留學の途についた小林錡學
監、及び世耕弘一氏は満二ケ年の留學を終つ
てシベリヤ經由本月帰朝した。
小錡學監は渡欧後直にベルリン大學に本科
生として入學を許可さられ主として刑法、法
理學及び政治學を研究し世耕氏は同じくベル
リン大學の研究室において政治學及び經濟學
を専攻したものである。
既に考察した通り、関東大震災の翌日に神戸を発っているから、「大震災の前日神戸を出帆」は、明らかな誤謬である。「本月帰朝した」という件(くだり)の「本月」は、掲載誌の発行年月日が1927年3月1日である事から、同年2月と判断すべきところであろう。
現在のところ、世耕弘一の正確な帰国日を示す一次史料は見出せておらず、今後の課題であるが、帰国の時期は1927年2月後半と確認出来たという事になる。
結びに代えて
世耕弘一のドイツ留学の歴史的意義について言及して終わりたいと思う。
世耕弘一著『𝔇𝔢𝔲𝔱𝔰𝔠𝔥𝔢 𝔖𝔭𝔯𝔞𝔠𝔥-𝔲𝔫𝔡 𝔖𝔱𝔦𝔩𝔩𝔢𝔥𝔯𝔢 獨逸語並に文體論』は、「はしがき」に依れば、「千九百二十七年の春」に「獨逸ベルリン、ヒンデンブルヒ街の假の宿にて」脱稿しているが、その奥付に依れば「昭和二年十二月十日」に発行されている。日本大学「海外留學生派遣規程」(1926年4月)の「第五條」にある「本大學ノ留學生ハ歸朝後留學中ノ研究結果ヲ公刊シ學会ノ批判ヲ受クヘシ」に従って、同書は「公刊」されたものと判断されるのである。日本大学作成の『日本大學教職員調』収録の日本大学に於ける世耕弘一の「職歴調」によれば、1927年4月に「世耕弘一」は「日本大學講師」として採用された事になっている。更に、1928年6月18日に日本大学校友会が発行した『昭和三年六月現在 日本大學校友會會員名簿』でも「世耕弘一 日本大學講師」となっている。それは、世耕弘一が日本大学「海外留學生派遣規程」の「第三条第二號」にある「歸朝後本大学ノ教授又ハ講師トシテ就職スルニ適當ナル事情ニアル者」に該当すると認められた結果であろう。それ故に、世耕弘一はドイツ留学の結果、大学人としての基礎を固めたと言えよう。そして、それは最終的には近畿大学の創設に繋がるのは言うまでもない。
他面において、世耕弘一は、既に述べた様に、ベルリンから山岡萬之助宛に発信した1923年11月2日付け書簡では、留学の目的はドイツの危機的な経済や革命的な政治の状況の考察であるとしている。そこから、ドイツ留学中に世耕弘一の政治への志向が醸成されたと推測される。世耕弘一が1927年に帰国する直前に、「獨逸日本人會」で送別会が催されたが、それに出席した「文部省の在外研究員」山本勝市(1896-1986)の「世耕さんの政治への情熱に驚かされた。」という陳述から、それが分かる。世耕弘一は、帰国した翌年の1928年に実施された第16回衆議院総選挙に、家族が驚倒せんばかりに卒然と和歌山県2区で立候補した(結果は、次々点であった)。更に、1930年に実施された第17回衆議院総選挙に立候補し(結果は、次点であった)、1932年に実施された第18回衆議院総選挙に立候補してトップ当選を果たした。それ故に、世耕弘一はドイツ留学の結果、政治家としての基礎を固めたと言えよう。そして、第二次世界大戦直後の日本の政治史に於て、ドイツ留学中に得た世耕弘一の知見は異彩を放つのである。即ち、旧日本軍の備蓄物資に由来する隠匿物資の摘発とそれを通じてインフレ克服の政治活動は、ドイツ留学中のハイパー・インフレとレンテンマルク発行によるその克服に関する知見に立脚していることが、1947年に発表した「隠退蔵物資摘発の真相」と題する論説で、以下のように語られているからである。
私は第一次欧州大戦直後にドイツに行き、僅か二十四、五億円の金銀其
他を供出することによつてレンテンマルクという新札が発行され、あの恐
ろしい天文学的数字と称されたドイツの大インフレが一夜のうちに片づい
てしまつたことは目の前で体験しているのである。
もし、われわれが隠退蔵されたダイヤモンドにより、金銀塊により、そ
ういうような手を打つことができれば日本のためにどれだけ幸福だかわか
らない。隠退蔵物資の処理がインフレ克服にどれほど深い関係をもつかと
いうことを、皆さんは深く認識してもらいたい。
ドイツ留学から日本に戻った後の世耕弘一の生涯は、大学人と政治家の両面が糾える縄の如き形で力強く日本現代史に於て展開されていくのであり、その両面はいずれもドイツ留学中に芽吹いており、そこに世耕弘一のドイツ留学の歴史的意義を見出し得るのである。
追記
ここでは原典尊重の観点から、引用史料や引用文献に於ける表現・漢字は、原則として、そのままにしている。従って、ここで、例えば、「大學」と「大学」が混在するのも、この理由に依る。
※特別展については、「2023年度特別展「創設者 世耕弘一 ドイツ留学100周
年」を開催しました」を掲載しています。
※講演内に出てくる資料をはじめとする展示資料の解説「2023年度特別展
〔創設者世耕弘一 ドイツ留学100周年〕展示目録」を掲載しています。
文:広報室建学史料室特別研究員・近畿大学名誉教授 荒木康彦
写真:特別展記念講演の様子
(2024年9月30日公開)