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「私」を休ませたらnoteで書くことがなくなった

どこまで行っても、「私」、「私」、「私」。

そんな気づきを最近得ました。

この「私」とは何か?

これは実在するのか?単なる幻想なのか?

古来からこの「私」という意識について皆が考え、論じ、この「私」を殺すことを悟りと呼び「私」を脱することを目指した人すらいました。

この「私」とは、今の「私」にとって、原初かつ最大の『枠組み』だと思ってます。

あらゆる枠組みは、結局は「私」という原初の枠組みによって生まれる。

「私」が生まれ、「他者」が生まれる。そしてその集団として社会システムや文化が生まれる。

この「私」と社会という相互の枠組みそれ自体が、「私」と社会という枠組みを自己生成する。

これはもはや、神の戯れと感じられるほどの自作自演的な神秘です。

そんな「私」を脱することを志してしまうのもまた「私」に与えられた欲求の一つなんでしょう。

古来からそれを目指した人たちは常にいて、そして「私」もその1人です。それは脱枠組みのかなり重要なプロセスだと思うからです。

一方で、最初に述べたように、どこまで行っても「私」を逃れられない。

「私」を脱した、と思わせるのもまた「私」。

この巧妙な「私」の手口に「私」はあっけに取られ、そしてそんなあっけに取られている「私」を見て論じているのもまた「私」。

もう、お手上げなんですね。

しかしここで、不思議なことが起こるのです。

ことごとく「私」であるこの現実に、完全に諦めること。どれだけ「私」が「私」を脱しようと足掻いても「私」からは抜けられないという愕然たる事実を、頭ではなく全人的経験から体感すること。

その結果、「私」であることを諦めること。いや、もう諦めるしかないことを全身全霊で知ること。

そうすると、何か言葉でもなく、思考でもない何かが、「私」と「私」の間のほんのわずかな隙間のようなものが生まれるんですね。「私」と「私」の間に亀裂が走るのです。

その亀裂から、何かが流れ込むのです。

「私」ではない片鱗が、その隙間から覗き込むのです。

これを語るのは「私」です。何かを語れる時点で「私」ですから。思考だから語れる。そして思考ということは「私」です。

一方、語り、思考を超えたところに「私」と「私」の隙間が存在し、そこから「私」を脱した説明不可能な何かが顔を出すのです。

さて、「私」がそうした事実を、愕然と知った時、「私」がnoteに書くことは、ほとんどないのです。

「私」は何もわからず、わかった気になったのも「私」であり、わかったことにしたい「私」を満たすために「私」はnoteに何かを書く。

いや、不毛なんですよ、結局。「私」の自慰行為なので。

書けば書くほど、わかってないことを表明するようなものですから。

そうなると、書くことがないんですね。

「私」は脱「私」をするために、ただ淡々と、「私」を鍛錬(脱教育)するだけなのです。

この「私」を語るのはまた「私」です。しかしそのもっとこちら側にいる何か。「私」と「私」の隙間から覗き込む何か。これは、何なのでしょうか。「私」ではなさそうなのです。

その何かが、冷静に「私」を俯瞰する。そうした俯瞰する何かには、「私」も「他者」も「世界」も全てが含まれる。

そこには自他という区別すらありません。自他の区別もないならば、もちろん争いも起こり得ません。

そんな何かが、どうやらことごとく「私」であるこの「私」と「私」の隙間にいるようなのです。そしてこれは、「私」の向こうのどこかにいるのではなくて、「私」のずっとずっとこちら側にいるのです。つまりはずっとそれは「私」より原初の、不変な何かとして何よりもこちら側にとどまっているのです。

そうなると「私」をとりまくこの世界は、単なる世界という現れとしての神の戯れでしかなく、「私」という生を営む手段としてのゲームなわけです。(ちなみにこの「神」を私は何か人格神として使っていません。生命そのもの、といった意味です。)

「私」を生かし、それなりに喜ばすためには食事や余暇が必要であり、直接的な物々交換ではない現代社会では、価値交換の手段であるお金が必要なのは至極当然なわけですから。

ただ、ほんと、それだけなんですよね。

それが「私」をとりまく物質世界です。これ以上でも以下でもない。

ではこのどうしようもなく「私」に絡め取られる物質世界において、「私」に残された選択とは何なのか?

それは、あなたは「私」に染まりきる現世を選ぶのか?「私」を脱する現世を選ぶのか?どちらですか?という問いです。

この問いだけが、「私」に問われる問いです。

これが映画マトリックスでネオが突きつけられた、青い薬を飲むのか?赤い薬を飲むのか?という問いです。

This is your last chance. After this, there is no turning back. You take the blue pill - the story ends, you wake up in your bed and believe whatever you want to believe. You take the red pill - you stay in Wonderland and I show you how deep the rabbit-hole goes.(これは最後のチャンスだ。先に進めば、もう戻れない。青い薬を飲めば、お話は終わる。君はベッドで目を覚ます。好きなようにすればいい。赤い薬を飲めば、君は不思議の国にとどまり、私がウサギの穴の奥底を見せてあげよう。)

映画「マトリックス」

「私」という枠組みが「マトリックス」なわけです。

ネオは赤い薬を飲んで、「私(とそれに付随して生まれる「世界」)」という幻想を抜け出たわけです。

おわり

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