![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/116629849/rectangle_large_type_2_8b2901ee228dde93ef1cdf0a63e75c65.jpeg?width=1200)
「なんでもいいんだよ」
今まで『私』の傾向性分析シリーズでnote書いてましたが、それもなんとなくやめようと思いました。
さてさて。
昨日noteを書き、『私』と対峙するために必要だった人間関係(心理学を学ぶコミュニティも含む)を整理。
そして、今日。
ある人と話している中でその人がふと口にした言葉。
「なんでもいいんだよ。」
・・・
なんでもいいんだよ。
ナンデモイインダヨ。
Nandemoiindayo.
(なんでもいいんだよ。)
これがまさかの、何かの啓示の言葉のように、私の下っ腹にパコーンッとクリーンヒットしたのです。
「なんでもいいんだよ。」
頭の理解ではなく、全身にこの言葉が浸りきる感覚。
そしてまた一つ、何かから自分が抜けた感覚と、下っ腹から沸き立つ自由と感謝の感覚。
(あー、逆に言うと、なんだかんだ、「『私』を抜けよう」というのもストーリーで、それに絡めとられていたんだなあ。というか自分がそのストーリーを必要として、絡めとられに行ってた)
という気づきも。
でもそれは、必要な拘束だったように思います。
枠はそもそも存在していない。
しかし人は、一見不要にも思われる枠を自ら作り出し、その中に自らを押し込め、そして自らが作った枠を自らで抜ける。(厳密には、そんなもの存在していなかったことに気づく)
なぜかよくわからないけど、なぜか自然発生的に人はそんなプロセスを行う。
「なぜかよくわからないけど」という言葉も、どこかで理由を求めている証拠。
そもそも、目的も理由もないのだ。
全ては、もし言葉にするなら、神々の遊びか何かなのだ。(ふとそんな芸人いたよな、と思い出し、アイキャッチをその人たちの画像に)
理由もない。目的もない。
え~なんでなんで?とグルグルしだしたそんな時は、はい、合言葉。
なんでもいいんだよ。
いやあ、すごい言葉だ、これ。
また何か、自分が変わっていきそうな感覚があります。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?