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「なんでもいいんだよ」

今まで『私』の傾向性分析シリーズでnote書いてましたが、それもなんとなくやめようと思いました。

さてさて。

昨日noteを書き、『私』と対峙するために必要だった人間関係(心理学を学ぶコミュニティも含む)を整理。

そして、今日。

ある人と話している中でその人がふと口にした言葉。

「なんでもいいんだよ。」

・・・

なんでもいいんだよ。

ナンデモイインダヨ。

Nandemoiindayo.

(なんでもいいんだよ。)

これがまさかの、何かの啓示の言葉のように、私の下っ腹にパコーンッとクリーンヒットしたのです。

「なんでもいいんだよ。」

頭の理解ではなく、全身にこの言葉が浸りきる感覚。

そしてまた一つ、何かから自分が抜けた感覚と、下っ腹から沸き立つ自由と感謝の感覚。

(あー、逆に言うと、なんだかんだ、「『私』を抜けよう」というのもストーリーで、それに絡めとられていたんだなあ。というか自分がそのストーリーを必要として、絡めとられに行ってた)

という気づきも。

でもそれは、必要な拘束だったように思います。

枠はそもそも存在していない。

しかし人は、一見不要にも思われる枠を自ら作り出し、その中に自らを押し込め、そして自らが作った枠を自らで抜ける。(厳密には、そんなもの存在していなかったことに気づく)

なぜかよくわからないけど、なぜか自然発生的に人はそんなプロセスを行う。

「なぜかよくわからないけど」という言葉も、どこかで理由を求めている証拠。

そもそも、目的も理由もないのだ。

全ては、もし言葉にするなら、神々の遊びか何かなのだ。(ふとそんな芸人いたよな、と思い出し、アイキャッチをその人たちの画像に)

理由もない。目的もない。

え~なんでなんで?とグルグルしだしたそんな時は、はい、合言葉。

なんでもいいんだよ。

いやあ、すごい言葉だ、これ。

また何か、自分が変わっていきそうな感覚があります。

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