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自分を幸せにしてあげられるのは自分しかいない(2023年5月27日時点での「私」の傾向性)

横になって、こんにゃくのようにグデングデンになって、ナマケモノを崇めながら、力みなく、見栄なく話す時の私。

この私は、私があまりに虐げてきた私自身。

それは最初は親によって抑圧され、虐げられてきた私。

一方でそれはいつの日からか、私の内部で、私自身が虐げてきた。

私は家族に、共感し耳を傾けてくれる人、心理的安全の中でただただ話を聞いてくれる人、そういう人に恵まれてこなかったのだと思います。

私の家によく来ていた高校時代からの友人が、言いました。

「太の家は、家族というよりは同居人のようだった」

その通りだと思う。最近やっと、この友達が言うことの意味がわかってきました。

私は家の中で、常に臨戦体制でした。常に防衛体制でした。うまく回るように。自分が傷つかないように。必死に生きてきました。

そしてそれは、私が家を出た後も、結局のところ続きました。

それは直接的なコミュニケーションの中で。また、私の脳内の思考の中で。

私にとっての「家族」が、一般で言う「家族」とどこかずれていること。私にとっての「親子」が、一般で言う「親子」とどこかずれていること。

そのことにやっと気づき始めました。

ただもちろん、「家族」にも「親子」にも、正解があるわけではありません。

そして、結局のところ「家族」も「親子」も、自分を100%理解し、共感し、救ってくれるわけではありません。

もちろん、あらゆる自分を無条件に愛してくれる家族や親を得ることができた人は、ある意味幸運と言えるかもしれません。

一方で、自分を無条件に愛してくれる家族や親を得ることができなかった人も、ある意味幸運と言える状態に持っていくこともできます。

そういう人は、「自分を慈しみ、愛でることができるのは自分だけだ」という気づきにより近いと言えるからです。

そしてその気づきを、その気づきを必要としている人たちに、届けることができると思うからです。

人生を呪うことは簡単です。家族や親を呪うことも簡単です。

時に呪ってもいいと思います。呪怨かけまくってもいいと思います。

でも最後は、どこまでいっても、「自分」なのです。

自分を幸せにできるのは、自分だけです。

私を不幸にする人から離れること。私の領域を侵害する人を拒否すること。私にとっての幸せを時に強く主張すること。

私を大切にしてくれる人を選ぶこと。私が幸せを感じられる時間や人を増やすこと。

私を守り、私を慈しみ、私を愛し、私を幸せにできるのは、結局のところ私だけ。

私たちは結局のところ、たった1人で生まれてきて、たった1人で死んでいくのですから。

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