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委ね・脱自己同一・フェルトセンス(2023年8月12日時点の『私』の傾向性)

とっても久々の投稿になります

今日はですね、もう、全員置いてけぼりにする覚悟で、今の『私』の傾向性を、嘘偽りなく、遠慮なく、読み手の理解も、読み手から持たれる印象も、全て度外視して、全部さらけ出そうと思います

なぜそう思うのかは、『私』にもわかりません。指が勝手に動くのです

前回、自分の傾向性を綴ったのは約2か月前

あっという間の2か月でした

また少し、自分の傾向性に変化が見られました

今の『私』の傾向性、大きく分けると3つです

そしてこの3つは、相互に連動しているようです

まず一つ目

それは『委ね』です

『委ねる』ということの重要性、自然性がより腹落ちしました

私はどこかで、「委ねなくては」という形で、自らを縛り付けていました

しかし、『委ね』とは、「委ねよう」とする意思ではなく、その意図を自分に引き戻し、今この瞬間の状態に全ての『私』を投げ入れるということだと、少しばかり腑に落ちました

そうすると、不思議とマインド(思考)の作用が弱まります

過去を思い出し、未来を想像し、『私』という首尾一貫した自我を形成し続けるのは結局はマインド(思考)でしかない

今まで以上に、巧妙なマインド(思考)によって作られる時間軸や境界、そして『私』という自我の幻想性に対して、意図なく、いたって自然に、意識の矢印を向けることができます

それはまるで、霧を晴らせる一筋の柔らかな光のようです(表現が怪しすぎる)

二つ目

これは一つ目の『委ね』と重なっておこる作用でもあると思いますが、

あらゆる『私』との自己同一性が外れてきてます

自己同一性とは「私は〇〇だ」という意識です

私は身体と心を壊すまでは、理性(マインド・思考の産物)によって想像上の『私』と『世界』を作りだし、それに不要な身体や心、私の人格の一部を闇の中に葬り去っていました

そして身体と心を壊してからは、私は身体・心・シャドー(ユング心理学の概念)を取り戻すプロセスを経てました

そのプロセスはある種の精神的・身体的な退行反応といったものをも出しながら、泥臭く自分にとっての悪・恥・弱さといったものと向き合い、時に自我をブルブル震えあがらせながら(何度泣いたか)、それらを統合していきました

それはつまり、今まで無視してきた身体に対して「この身体は全て私である」と、心に対しても「この心は全て私である」と、シャドーに対しても「このシャドーは全て私である」と、『私』に全てを引き戻し、受け入れ、統合していく作業でした

それからしばらくが経ち、また私はそういったもの全てに対して、自己同一性が外れていっています

しかしそれは『抑圧』という形ではありません

いうなれば『遊離』であり、『分離』ではありません

それはまるで、水面に浮遊した沈殿物があることはわかりつつ、その沈殿物は決して水それ自体とは離れない

けどそれは沈殿物であって、水そのものではないこともわかっている

そんな感覚です

そして何より大きいのは、現代に生まれ落ちた私たちが最も深く自己同一化する『思考』とも自己同一化が外れ始めたことです

こうして私の思考は私そのものではなくなり『私に最も近い他人』となります

私の身体も、私の心も、私の『私』(自我)も、私そのものではなく、『私に最も近い他人』となる感じです

こうなってくると、『私に最も近い他人』という存在である『私』も、『他人』も、『他人』という意味で同じです

逆に言うと、それはコインの裏表のように、全く同じ強さでもって、こうも言えます

つまりは、『私』も『他人』も『世界』も、私の投影である以上、全て私そのものに含まれる、ということです

こうして私はあらゆる『私』との自己同一性が外れ始めることで、『私』も含む全てが同じ『他人』であり、同時に全てが私である。つまり、二元論を超えるわけです

これは頭の理解でもなく、言葉の理解でもないんです

なぜならマインド(思考・言語)は、二分することでしか描写できないからです

善を作れば悪を作る

右を作れば左を作る

自国を作れば他国を作る

マインド(思考・言語)はその本質から、境界を引く

であるからマインド(思考・言語)で何かを捉えようとすると必ず境界が引かれ、二元論に陥るわけです

だから、これは、マインド(思考・言語)レベルの理解ではないんです

私は身体を壊してから、びっくりするぐらい身体が言うことを聞きません

それはつまり、マインド(思考・言語)の言うことを身体が聞かない、ということです

そしてその身体感覚に委ねれば委ねるほど、今までマインド(思考・言語)レベルでは気づけなかったことに気づいていくわけです

それは、言葉通り、「腑に落ちる」のです

「頭にくる」のではなく、「腑に落ちる」のです

つまり、真の理解とは、マインド(思考・言語・頭)のレベルで起こるのではなく、身体で起こるのだと思います

そしてこれが、三つ目の傾向性ともつながります

それはつまり、身体感覚>マインド(思考・言語・頭)になるということです

マインドが右だと言っていても、身体感覚が左なら、それはもう左が正解なってしまうのが今の私です

そしてこの時、私の身体は、もしマインドを優先して右を選ぶと、露骨に反応を示すのです

頭痛、疲れ、緊張感、等々

いや、ある意味これは病人ですよ笑

いや、病人なんでしょう笑

でもこれはもう、治らないのだと思います

むしろ私の身体感覚は現代では不要なほどに鋭敏になってしまったのかもしれません

けどもう、この生き方しかできないので仕方ないのです

この「仕方ない」というのはつまり、マインド(思考・言語・頭)の諦めであり、最初の傾向性の『委ね』ともつながるわけです

そして身体感覚>マインドという構図が生まれます

これは決して、マインドをバカにするとか、蔑ろにするとか、軽視するとか、敵視するとかではありません

マインドも『一番身近な他人』なのです

『他人』なのですからそれなりに敬意を払います

そして何より一番身近なのですから、とても大切に扱うべきだと思えるわけです

しかしそれは私ではない

つまりマインド(思考・言語・頭)が何か言い始めても、「わ~何か言ってんなあ。どうしたどうした~」と俯瞰した視点でマインドを優しく見守ることができる、マインドとはまた異なる別の『自己』が立ち上ってくるわけです(2つ目の傾向性)

ここでマインドを敵視したりすると、抑圧が生まれるわけです

さてさて。

身体感覚>マインドと言いましたが、この身体感覚はつまりは『痛み』とか『痒さ』とか、そういった明確な言葉にできるものではありません

また『悲しさ』とか『寂しさ』といったこれまた言葉にできる感情でもありません

また幼児期のような突発的な衝動性でもありません

私のここで言う身体感覚とは、言葉の描写を超えた『何か』なのです

そしてこの『何か』を、心理学はだいぶ前から扱っていたことを最近知りました

それを心理学では『フェルトセンス(felt sense)』と呼んで扱っていました

それは単純な身体感覚や感情の向こうにある、言葉でも描写できない(つまり思考でもない)何かなのです

このフェルトセンスを扱える素地のある人は、カウンセリングにおける変容(自分自身が変わり、状況も変わる)の度合いが大きいということが研究からわかっているそうです

そしてこのフェルトセンス

私は恐らく新規事業を企画するうえでも扱ってました

私(たち)はそれを謎に、『もうやん』と名付けてました

つまりは「モヤモヤする」ということです

職場の近くにもうやんカレーがあり、そこでカレーを食べながら「モヤモヤする」と言ってたから「もうやんする」という言い方に変わってしまい、『もうやん』と名付けてました

なぜもうやんするのか、その時は理由がわからないのです。言葉で説明できないのです

別にそれは怒りでも、恐れでも、ないのです

何か、違和感。もうやん

これはつまり、今思うと『フェルトセンス』だったのだと思います

そしてこのフェルトセンスを無視しない意思決定をすると、『課題解決』ではなく『課題消失』が起こることがよくあります

つまり、自分自身の次元が変わるため、課題だと思っていたものが課題ではなかったことに気づくのです

つまり『課題消失』なのです

これがフェルトセンス

つまり、的確に心理学的に言うならば、今の私の傾向性の三つめは、フェルトセンス>マインドであり、フェルトセンス優位な私であり人生といった感じです

といった感じで、だいぶ置いてけぼりにしたと思います

置いてけぼりにしたことを謝る気持ちで、最後改めてまとめると、今の私の3つの傾向性

  1. 委ね

  2. あらゆる『私』と自己同一性が外れ始めている

  3. フェルトセンス>マインド

ということです

で、ですね

私は今、非常に謎な状態にいます

もう『私』との自己同一性が外れた私で、『私』という映画を見ている感覚です

そしてその『私』はこの2か月で会社を作り、今の会社に退職意向を話し、何やら色々企画しだしてるのです

これはここまで話してきた3つの傾向性に、少しばかり誰かをお誘いしたがっているようでもあります

しかし『私』もバカではありません

こんな怪しいこと、ここに書いたみたいにそのまま書いても届かないのはわかっています

なので、ちゃんと現代人が抱えるニーズに合わせて届けていきます

それが、

  • 親および教育者支援

  • 凸凹特性の子ども支援

  • グローバル教育(マインドフルイングリッシュ)

  • HSPや繊細さんのキャリア支援

  • 組織コンサル

という切り口です

ターゲットとする価値観はずばり、『生きづらさ』です

『生きづらさ』は、ある意味、宝です

考えなくてもいいことを考えてしまう

気づかなくてもいいことに気づいてしまう

いわゆる普通の選択ができない

それは確かに、時に苦しく、時に孤独です

でも、だからこそ、それは自分だけの答えを探す覚悟となり、その答えを探し出す際の敏感なアンテナを私たちに与えてくれると、私は自分の実体験から感じています

そういった意味で、『生きづらさ』は宝になりうるのだと思います

もちろん、そういったきれいごとで救えないほどの『生きづらさ』に苦しんでいる人もいると思います

ただ『私』は、『私』のやれる範囲で、何かをしていくのだと思います

と、ぼけーっと『私』という映画を私は眺めてます

SDGsに向かうIDGsといった流れもあるみたいですし、『内的アプローチ』『内的変容』といった専門性・探究性を深めていきたいと思っています

そしてそれを、社会実装まで行います

さて、そろそろ、現代社会にそれなりに馴染めるある程度信頼性のあるブランディングを始めないといけないので、このnoteは一旦閉じるか匿名(画像なし)に変更されると思います

でも私の自己探求はもちろんどこまでも終わりませぬので、お楽しみに

なお、私が身体を壊してから辿ってきた変容プロセスはケン・ウィルバーが語っている理論と驚くほど一致している感じがするので、気になる人は読んでみてください

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