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「生きづらさ」からもらった自己探求の指針

プールでクロールしてたら、こういうことかなあとふと思ったので、まとめてみようと思う。

自分でもよくわからずに書くので、あしからず。(でも割と、よくまとまっている感じはする。)

これから書くことを、なぜ目指すのか。目的は何なのか。

それは最後に書こうと思う。

とりあえず、何が、どういうことなのかを、まずは淡々と書こうと思う。

あらゆる規範的思考を疑える理性を養う|頭部

私たちは、自らの意思で思考しているのだろうか。

もしそうなら、次の瞬間の思考を選択してほしい。

恐らく無理だろう。

確かに「象さん、象さん、象さん」とマントラのように唱えていたら

頭の中は象さんだらけとなり、象さんという思考を選択できるかもしれない。

けど次の瞬間、その集中はどこかへ行き、何か別のことを考え始めてしまう。

それはまるで風に流される雲のように、私たちの意思とは関係なく、現れては消えていく。

それが思考である。

そして私たちは、そんな曖昧な存在である思考で規範を作り出す。そこから常識的思考も生まれる。

例を挙げてみよう。

  • 子どものことは愛さなくてはならない。

  • 決まりは、守らなくてはならない。

  • 言われたことには、従わなくてはならない。

  • 家族は、大切にすべきだ。

  • 人前で怒ってはいけない。

  • 人前で泣いてはいけない。

  • 欲望にのまれてはいけない。

  • 神の言うことは、正しい。

  • 先生の言うことは、正しい。

  • 親の言うことは、正しい。

  • 仕事は頑張らなくてはいけない。

  • 生きがいを持って生きることは幸せである。

  • 幸せとは、好ましいものだ。

  • 悪は、避けるべきものだ。

  • 失敗は、恥ずかしいことだ。

  • 成功することは素晴らしい。

などなど。

さて、こういった思考は、本当に私たち自身の意思から生まれた自由な思考なのだろうか?

もしそうじゃない可能性があるなら、いつ、どこから、この思考は生まれたのだろうか?

それは確実に、教育過程の中で、外から与えられたものである。

これは、自らの意思の思考と言えるのだろうか?

これらの規範的思考に対して、徹底的に疑いの目を向ける。

これが一つ目のプロセスである。

「それってほんと?」「それはなぜ?」

こうして生まれてくる思考を分解していくと、それには何の根拠もないことが見えてくる。

「あの人がそう言ってたから」「みんながそう言ってたから」「あそこにそう書いてあったから」

それぐらいのものである。つまりはどれも、噂の類である。

そんな具合に、湧いてくる思考を徹底的に疑い、由来を精査する。

これが最初のプロセス、

あらゆる規範的思考を疑える理性を養う

である。

そしてこれは、基本頭部で起こる作用である。

思考を意識する時、意識は頭部に向かう。

規範的思考で人がグルグル飲み込まれている時、その人の意識は頭部に昇ってしまっている。

つまりは、思考は頭部の仕業である。

あらゆる感情を原初のまま流し出す感性を養う|胸部

規範的思考で抑圧されるのは、感情である。

感情それは、弱く、脆く、幼稚で、情けない、自分のことである。

そこには、理由を述べる思考は存在しない。

頭部の思考からすると、「あんた何言ってんの?ちゃんとしなさい」と言いたくなることだらけだ。

さて、感性とは何だろう。

ここで言う感性とは、そんな幼稚な感情を丸ごと受け入れて、そのまま外に出せる態度を言う。

つまりは、湧いてきた感情を、稚拙かつ主観で、そのまま放出させる作用が、ここで言う「感性」である。

ここでも例を挙げてみよう。

  • ホント、ツラい・・・

  • おれは寂しいんだよ・・・

  • 嫌だ!!

  • もう疲れた・・・

  • 悲しい・・・

そういった弱く、脆く、幼稚な感情を、主観(主語を「私」)にして、ねじらずにそのまま出せること。

それがここで言う感性である。

大切なのは、ねじらないこと。

大人はすぐに、感情を規範的思考でねじる。

「これはあなたのためなの」「それが普通だ」「なぜそんなこともできない?」

これは全部ねじってる。

ねじった場合、言葉の主語が「私」ではなくなり、「あなた」や「普通」や「みんな」になる。

そして、やけに大人びたように見せた、達観したように見せた、澄ましたように見せた、客観的立場からの意見になる。

こうして私たちは、弱さ、脆さ、醜さ、幼稚さが露わになるのを恐れ、隠す。

これで私たちの感情は、ねじれていく。

これをねじらずに、原初のまま放出させること。

これが二つ目のプロセス、

あらゆる感情を原初のまま流し出す感性を養う

である。

そしてこれが起こる時、意識は胸部に向かう。つまり感性の地点は胸部である。

つまり、感情と思考の葛藤とは、胸部と頭部の自己内闘争でもある。

あらゆる感覚を馴染ませることができる身体性を養う|下腹部

私たちは生きていると、様々な感覚を持つ。

それは気持ちよく、快感と呼ばれる感覚もあれば、病気や怪我などから来る不快感もある。

そういった感覚は、時に人間関係からも受け取ることがある。

苦手な人、苦手な場面、苦手な雰囲気、苦手な集団。

そういったものと対峙した時の、どうしようもない不快感や違和感。

これは言葉にはできない。

詰まるところ、「生理的に無理」というやつだ。

さて、身体性とは何だろう。

身体性とは、一見すると自分にとってネガティブにも思える感覚すら、自分と馴染ませることができる身体感覚と言える。

それは、私がなぜ泳げるのかを説明できないぐらい、説明不能である。

私は、泳げる。なぜなら、泳げるからである。

私は、一見すると自分にとってネガティブな感覚とも馴染むことができる。なぜなら、馴染むことができるからである。

申し訳ないほどに、論理破綻である。

しかし、身体性に論理を司る機能はないのだから、仕方ない。

できるから、できるのである。

こればっかりは、身体で覚えるしかない。

その中で一つ言えること。

それは重心を下げるということである。

私たち現代人の意識と重心は、どんどん上に上がっていく。

テレビを見ているとき、スマホをいじっている時、見えない未来に悩む時、ロールを演じ人とおしゃべりする時、基本意識は頭部に上がっていく。

思考する時間より身体を動かしたり、芸術に身を浸したり、身体欲求を満たすことに熱心な人は違うかもしれない。

しかしそんな人は、現代人ではほぼいない。

つまりは意識と重心は上に上がっていくのである。それが現代社会である。

その意識と重心を、下げるのである。下げる癖と身体性を手に入れるのである。

それが3つ目のプロセス、

あらゆる感覚を馴染ませることができる身体性を養う

である。

これは胸部よりずっと下、下腹部での作用である。

重心が下がれば下がるほど、自分の身体性と馴染めば馴染むほど、あらゆる感覚は下腹部に吸い込まれていく。

「私」の全てを委ねる意識性を養う|そもそも身体とは?「私」とは?

さて、最後のプロセスである。

これは恐らく、ここまで述べてきた理性・感性・身体性を養った結果として、ある自問を自意識に投げ続けることで起こる。

一つ目のプロセスで、私はあらゆる思考を疑う理性を養う。

さて、ここで自問。

その思考をしているのは誰か?その「私」とは誰か?結局のところ、「私」とは何か?

二つ目のプロセスで、私はあらゆる感情を原初のまま流し出す感性を養う。

さて、ここで自問。

その感情を感じているのは誰か?その「私」とは誰か?結局のところ、「私」とは何か?

三つ目のプロセスで、私はあらゆる感覚を馴染ませられる身体性を養う。

さて、ここで自問。

その身体感覚を感じているのは誰か?その「私」とは誰か?結局のところ、「私」とは何か?

「私」とは何か?

この問いが生まれるところの意識にしがみつき、そこから離れない。

これがここで言う「意識性」である。

ここで「私」それ自体すら手放す委ねが起こる。

これは、ここまで述べてきた、理性・感性・身体性の3つを養うこと、プラスα「私とは何か?」という少しばかりのスパイスで、起こるかもしれないことである。

ここで、「起こるかもしれない」と言ったことには理由がある。

なぜならこの作用は「私」を超えた作用だからである。

だから意識性には身体の部位は関係ない。

なぜならもはや、「私って、なんだ?私の身体って、なんだ?」状態なのだから。

自己探究のトリガーはどうしようもないほどの「生きづらさ」

さてここで、最初に述べたことに戻る。

そもそもなぜ、こんなことを養わないといけないのか?なぜこれを目指すのか?目的は何なのか?

究極言うと、こんなことしないで生きていけるなら、そのまま生きていったほうが良い。

自己探究なんて迷路に、無理に迷い込む必要なんてないのである。

そんな探究始めないほうが、幸せそうに生きていくことができるかもしれない。(実際に幸せなのかは、私はその人自身にはなり得ないのでわかりようがない)

では、それでもなお、自己探求をしてしまう理由は何なのか。

そこに惹かれてしまうのはなぜなのか。

それは、「生」に対するどうしようもないほどの「生きづらさ」である。

どうしようもないほどに生きづらいから、自己探求が始まってしまうのである。

時に身体すら蝕むほどの生きづらさが、その人を自己探求に向かわしてしまうのである。

つまりは自己探求の条件は「生きづらさ」なのである。

生きづらさがないなら、自己探求する理由も起こらない。

しかし生きづらさを抱えすぎた人は、幸か不幸か、自己探求に迷い込む。

これは本当に、幸か不幸か、である。(何が幸で、何が不幸なのかは、誰にもわからないのだから)

つまりは、自己探求に絶対的に要求されるのは、幸か不幸か、このどうしようもないほどの「生きづらさ」なのである。

「生きづらさ」の先には、何があるのか?|私の現在地点

さて、「生」には残酷なほど、終わりがない。

確かに死は生を終わらせる。

しかし死が終わらせてくれる生は単なる身体の生であり、その事実が、今この時点で私たちの「生きづらさ」を終わらせてくれるわけではない。

そしてまた、この「死」が無条件に私たちを救う証拠もない。

なぜなら死の先は、誰にもわからないのだから。(わかったように話してくる人や教義などもあったりするが、私はそれを信じない。なぜならそれが、一つ目のプロセス、あらゆる思考を疑う理性なのだから)

では、この「生きづらさ」の先には何があるのか。

理性・感性・身体性・意識性を養った先には何があるのか。

それは「生きやすさ」ではない。

それは、「生きづらさ」そのものすら受け入れられる、あらゆる「生」そのものへの覚悟である。

喜び、怒り、悲しみ、弱さ、脆さ、強さ、醜さ、美しさ、幸、不幸、欲望・・・

こういった「生」が持つあらゆる側面を、そのまま受け入れることができ得るという体感と覚悟である。

そしてその「生」への覚悟とはつまり、あらゆる自己原因を自分の内に持つということである。

全ては「自分」から始まり、全ては「自分」に帰結する。

全てを「自分」に引き戻し、あらゆる自分の「生」の側面を受け入れることができるという可能性への期待である。

このようにして、「生きづらさ」がトリガーで起こる自己探求という迷宮の先には、「生」への覚悟が待っているのだと思う。

私は、ただ生きる。

誰のせいにもせず、何のせいにもせず、この「私」という「生」を、ただただ生きるという覚悟が生まれる。

これが私の、どうしようもないほどの「生きづらさ」で始まった自己探求の現在地点である。

そしてこの地点から振り返った時に、このプロセスに必要なのは、理性・感性・身体性・意識性という四つの側面を養うことである。

だからこれを書いている。

さて、私は何がしたいのか?

世の中から「生きづらさ」を無くしたい。

なんてことは全く思わない。

そんな気持ちは毛頭ない。というか、よくわからない。

そう、よくわからないのである。

『世の中から「生きづらさ」を無くしたい。』

この言葉の意味がよくわからない。

ただ私は、自分がそれなりに稀な経験をしてきた可能性があることは、まあ感じるっちゃ感じる。

なので、この経験を誰がどう生かすかは、私の意図ではなく、それすら委ねて、この世界に投げ入れたいのである。

そこで誰かが反応し、何かを知りたいのなら、何かを得たいのなら、私はできる限り、現在地点からできる限りのことを、恐らく自然とするだろう。

けど、何か自分が得たことを人々に届けたいとか、救ってあげたいとか、そういう気持ちは、よくわからない。

だから私は、この経験を引っ提げて、この「生」を生き、遊ぶだけである。

私の「生」とあなたの「生」が交わることがあれば、その時は存分に交わりましょう、って感じである。

何が言いたいのかよくわからないけど、とりあえずプールでのクロールから生まれたのは、この約5,000文字のnoteでした(いっつも長い)。

こんな長文が、迷わずたった2時間ぐらいで書ききれてしまうのも、また不思議である。

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