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「高3生の悲痛」に不登校経験者が思ったこと



先週、Twitterで#高3生の悲痛 というタグがバズった

緊急事態宣言の継続地域と解除地域の間で、学校の再開時期や教育内容に差が出てきており、学習の遅れが大学受験に影響を与え不公平だ(だから9月入学で解消してほしい)、という主張のようだ

※たぶんこのヤフー記事が発端


<簡単な流れ>

①休校中の学生たちが思い思いに不満をつぶやく

②おじさん世代が「〇〇のが大変だ。甘え」と不幸自慢(〇〇には経済状況や過去の災禍等が入る)

③学生たちがおじさんの謎マウンティングにキレ返す


こういったTwitterにおける一連の流れ自体は自然なもので特に気になるようなことはない

個人的には今現在、仕事を休業中の身であることから「先行きの見えない中、イレギュラーな対応を強いられていることへの不満」は理解でき、共感した

しかしその上で「9月入学は学習機会の差を埋め得る解決策足りえない」と考えていることや、上記に引用していないが一部の学生は「学校がないことでむしろ勉強時間が確保できてラッキー」旨のツイもあり、これに共感しまくっていた



そんな中、こんなtweetを見つけて、心がやられた



学校は勉強だけをするところではなかった


友達との思い出、、、体育祭、、、文化祭、、、卒アル、、、



平時、彼らは部活帰りにマックに寄り

そこには他愛もない話で爆笑できる仲間がいて

家に帰ったら勇気を出してLINEを送ってみたり

既読がついたらドキドキしてみたり



そういった日常が奪われたことを嘆いていたのだった



想像できていなかった


彼らが学校というコミュニティに期待し、享受しているものは青春だった




さっきまでかわいそうだと思っていたはずの高校生たちが急にうらやましくなった

彼らは眩しく、そして憎くさえ思えてきた



自分が経験できなかった青春を、彼らはこの自粛期間が終われば日常として経験していくのがうらやましくて眩しくて憎い

(憎いと思ってしまった自分にびっくりもした)



冒頭の記事で少女は「不公平だ」と声を上げていた

しかし「公平」であることは「平等」であることを保証しない



周りと同じようにその機会が与えられていたとしても、それらを全員が確実に得られるわけではない

それが勉強であっても青春であっても

みんながみんな同じようにそれを獲得できるわけではない



私が獲得できなかった青春は、しかし私がいなくてもきっとそこに存在していたはずで

私以外のみんなと一緒に過ぎ去っていってしまった





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