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【山上の垂訓】新約聖書・キリスト教の研究-16/#152-153


イエスは洗礼を受けた後、本格的な伝道活動を開始する。その中心的な教えの一つが『マタイによる福音書』に記されている「山上の垂訓」で、貧しさの中での祝福、憐れみや正義を求める心、そして隣人を愛することの重要性など、人類に普遍的な価値観を説いたものだ。シンプルでありながら、深い道徳的な指針を提供している点が際立つ。
しかし、この純粋な教えがそのまま後世に伝わったかというと、そう単純ではない。イエスの教えはその後、特にローマカトリックによって大幅に体系化され、教義として整備される。これに伴い、原初の教えにさまざまな解釈や慣習が加わっていった。教会の権威を強化するため、あるいは社会的な統制を保つために、彼の教えに「都合の良い」解釈が付け加えられた。

山上の垂訓

山上の垂訓でイエスが教えたことを守って生きている人は、すべてキリスト者である。しかし、洗礼を受けなければ天の王国に入れない、またはキリストを救世主として認めないと入れないと言い出すようになった。エルサレムの原始共同体はそのように考えており、エッセネ派に属していたため、割礼と洗礼が天国に入るために必要だとされた。
エッセネ派および12人の弟子たちは、最初エルサレム教会を母体として活動しており、その活動の中で大きな勘違いがあった。彼らは基本的にユダヤ人だけが救われると信じていたため、割礼を必須とした。これに対して、パウロは民族や血筋は関係なく、福音を受け入れることが重要だと説いた。
パウロの活動によって、エッセネ派の宗教、すなわちユダヤ教の枠を超え、キリスト教が世界的な宗教へと発展したことは間違いない。しかし、最大の問題はパウロがイエスを「神」としてしまったことであり、これが最大の誤りであった。


山上の垂訓(Sermon on the Mount)は、イエス・キリストの教えの中でも特に有名で、倫理的・宗教的な指針が詰まった箇所だ。マタイ福音書の5章から7章にかけて詳述されており、「心の貧しい者は幸いである」「敵を愛せよ」など、人々の道徳観に大きな影響を与えている。この部分は、キリスト教倫理の核心とも言える内容が多い。
だが、福音書は複数あり、特に山上の垂訓はマタイとルカの福音書で記述が異なる。例えば、マタイでは「こころの貧しい者は幸いである」(マタイ5:3)とされているが、ルカ福音書では「貧しい者は幸いである」(ルカ6:20)となっている。この違いは些細なように見えるが、実は神学的に重要だ。マタイは精神的な貧しさを強調している一方で、ルカは実際に貧しい者に焦点を当てている。この差異は、両福音書がそれぞれ異なる信者層や伝承を反映しているためと考えられている。
このような違いがあると、果たしてイエスが本当に言った言葉はどれなのかという疑問が湧く。だが、これは単に「どちらが正しいか」という二択の問題ではない。まず、福音書はそれぞれの執筆者が異なる状況や目的を持って書いたものであり、口述記録というよりは、イエスの教えを再解釈・再編成した結果だと考えるべきだ。古代の文化では、厳密な逐語記録よりも、メッセージや精神を伝えることが重視された。
歴史学的に見ても、イエスが実際に語った正確な言葉を特定することは非常に困難。四福音書は、イエスの生涯を数十年後に書き残したもので、当時の口伝の文化も加味すれば、記録される段階で変化が生じた可能性は高い。また、イエスの教えはもともとアラム語で語られたが、福音書はギリシャ語で書かれたため、翻訳時のニュアンスの違いも影響しているだろう。
しかし、ここで重要なのは、どの言葉が「正しい」かではなく、どのようにその教えが受け取られ、解釈されてきたかだ。イエスの教えは、その言葉の一字一句が持つ力というより、その背後にある精神、すなわち人々への愛と慈悲の呼びかけにある。マタイが精神的な貧しさに重点を置き、ルカが物質的な貧しさに焦点を当てたのも、それぞれの教会や信徒の置かれた状況を反映したものだ。
結局のところ、イエスの本来の言葉を完全に再現することはできないかもしれないが、その教えの核心である「愛」「謙虚さ」「平和を作る者の重要性」といったメッセージは、時代や文化を超えて、常に人々に力強い影響を与え続けている。山上の垂訓における微妙な違いは、むしろその教えの豊かさと多様性を示しているとも言える。

心の貧しい人たちはさいわいである

1 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。

8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
13 あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。
14 あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。

15 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。
16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
17 わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
20 わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。
21 昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
22 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。
23 だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、
24 その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。
25 あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。
26 よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。
27 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
28 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。

29 もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。
30 もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。
31 また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。
32 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。
33 また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
34 しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。
35 また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。
36 また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。
37 あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。
38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

39 しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
40 あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。
41 もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。
42 求める者には与え、借りようとする者を断るな。
43 『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
44 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
45 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
46 あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。
47 兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。
48 それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

マタイによる福音書 第5章/太字はイエスのことば。以外は後世の付加物

平地の垂訓

12 このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。
13 夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった。
17 そして、イエスは彼らと一緒に山を下って平地に立たれたが、大ぜいの弟子たちや、ユダヤ全土、エルサレム、ツロとシドンの海岸地方などからの大群衆が、
18 教を聞こうとし、また病気をなおしてもらおうとして、そこにきていた。そして汚れた霊に悩まされている者たちも、いやされた。
20 そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。

ルカによる福音書 第6章

敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい

「もし誰かがあなたの右の頬を打つなら、もう一方の頬も差し出せ」―はたして、この言葉を実行できる人がいるだろうか?現実にはなかなか難しいだろう。しかし、エジプトのナグ・ハマディで発見されたナグ・ハマディ文書の『トマスの福音書』には、こう記されている。

それゆえに私は言う。家の主人は盗賊が来ることを分かっているなら彼は盗賊が来る前に目を覚ましているであろう。そして彼が自分の支配下にある家の自分の家に押し入り自分の財産を持ち出すことを許さないであろう。それだからあなた方はこの世を前にして目を覚ましていなさい。大いなる力であなた方の腰に帯を締めなさい。盗賊が道を見い出してあなた方のもとに来ないように。

↑「下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい」などとは決して言っていない。実際は、ぼーっとしてると盗賊がやってきて、すべてを持っていかれるから、しっかりと見張っていなさい!という戒めだ。

施しや祈りは人に知られないようにしなさい

1 自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
2 だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
3 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。
4 それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
7 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。
8 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
11 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
13 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。

14 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。
15 もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。
16 また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
17 あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
18 それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。
19 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。

マタイによる福音書 第6章

神と富とに兼ね仕えることはできない

20 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
21 あなたの宝のある所には、心もあるからである。
22 目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。

23 しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。
24 だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。

マタイによる福音書 第6章

まず神の国と神の義とを求めなさい

25 それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
26 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
27 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
28 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
29 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
30 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。

31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
32 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
34 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

マタイによる福音書 第6章

イエスは垂訓を理解していたか?

聖書解釈において、ここが非常に重要な部分である。山上の垂訓はイエスの口から発せられているが、その教え自体はマイトレーヤ(メルキゼデク)の教えである。つまり、イエスの口を通じてマイトレーヤが語っているということだ。
しかし、イエス自身はこのメッセージを受け取っていながら、その真の意味を理解していなかった。イエスは自分なりに言葉の意味を解釈していたため、マイトレーヤの意図とは異なる理解に至っていた。イエスが民衆に語りかける際も、実際にはマイトレーヤによって語らせられていた言葉を自分なりに解釈して理解していた。そのため、言葉自体は同じであっても、イエスが理解した意味とマイトレーヤの意図した意味との間に二重の解釈が生じることになった。その具体的例が_

心の貧しい者は幸いである。天の国はその人たちのものである」(マタイ5:3)"Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven." (Matthew 5:3)
「イエスは弟子たちを見つめて言われた。『貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである。』」(ルカ6:20)
"Then he looked up at his disciples and said: 'Blessed are you who are poor, for yours is the kingdom of God.'" (Luke 6:20)

「心が貧しい」とか「貧乏人」という表現は、特定の集団を指しているわけではなく、単純に神の救いを求める人々を指していると解釈するのが自然だ。心を神に向ける者こそが祝福される、という意味だ。これはつまり、全人類に向けた普遍的なメッセージであり、ユダヤ教の狭い視点で語られているわけではない。むしろ、開かれた視点から発せられている。サマリア人であろうと異邦人であろうと、神に救いを求める人々、助けを願う者に対しても「幸いである」と語っていると解釈するのが妥当であろう。

クムラン宗団に入って、神の国を迎えよう

エッセネ派はどういう人たちだったのか
実のところ、エッセネ派の人は一般人(死者)の家に入ることすらなかったが、彼イエスは徴税人や娼婦、酒のみなどのところに行った。実を言うとこのような人々すなわち徴税人とか娼婦という人はクムラン宗団の規定から外れているというだけで単なる一般人に過ぎなかった。例えば仕事や社交で異邦人との付き合いのある人は、別に売春などしていなくても娼婦と呼ばれたのである。(※死者や娼婦は隠語
そしてこのような人々は一般に裕福な暮らしをしていた。
イエスの使徒の一人は徴税人であったし、死者(一般人)の中から蘇らされたザーカイなどは徴税人の長であった。(※蘇らされた=クムラン宗団に入信した
ザーカイは全財産の半分を過去の罪の清算のために差し出し、残りの半分を貧者に施した。貧者とはつまりクムラン宗団をさす言葉である。
イエスの山上の説教に関してはこれまでにも様々な解釈が行われてきたが、ここまで述べてきた事実に照らせば実に単純なことを述べてるにすぎないことが分かるだろう。
「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」心の貧しき人々とはつまりクムラン宗団のこと。
「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」悲しむ人々とはヤーウェの神殿が異邦人の手にあることを嘆くクムラン宗団及び敬虔なユダヤ教徒のこと。
「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」柔和な人々という表現もクムラン宗団の人々が自らを指すのに用いた言葉である。
死海文書に照らしてみれば、これがあらゆる柔和な人を指すのでないことは明白である。
「義に飢え乾く人々は幸いである。その人たちは満たされる」クムラン宗団は常にサディークすなわち義を求めていた。
「義のために迫害される人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」クムラン宗団は常に迫害を受けていた。
***
このようにしてみるとこの説教は別に何も大したこと言ってないていうことが分かる。「山上の説教」は「クムラン宗団に入って、神の国を迎えよう」という信者募集のスローガンに過ぎない。(p.229)

封印のイエス

イエスは単なる宗教指導者ではなく、革命を企てた人物だったと言える。彼が革命を進めるためには資金が必要で、そのため裕福な層から信者を集めたというわけだ。山上の垂訓も、その視点から解釈すれば、まさにそういう意図を持って語られたものと考えられる。

当時の一般人や異教徒は、比喩的に「死者」と見なされていた。彼らに洗礼を施し、生き返らせることで、新たな信者を生み出すプロセスが始まる。そして、山上の垂訓の核心は、自分たちの宗教団体への加入を促すメッセージであり、洗礼を通して仲間に加わりなさいという呼びかけだった。この説教は、まさにその目的を達成するためのものであったのだ。

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