キリスト教における「復活」の解釈は一様でない。ローマカトリック教会は、復活をイエスの肉体的な蘇りと捉え、信者も最終的に肉体の復活を果たすと信じている。一方、異端とされたグノーシス主義では、復活は霊的覚醒や解放を意味し、物質世界からの脱却を象徴すると考えられていた。この違いは、物質世界や救済の本質に対する見方の違いを反映しており、キリスト教の多様な教義理解を示している。
エマオの復活
一部の写本にしかない〔 〕括弧付きの節
ルカによる福音書24章12節が存在する写本については、多くの後代のギリシャ語写本やラテン語訳聖書に確認されている。これらの写本には、ペテロが墓へ走り、亜麻布だけを見つけて不思議に思う描写が含まれている。代表的なものとして以下が挙げられる。
アレクサンドリア写本(Codex Alexandrinus)
5世紀に作られたこのギリシャ語写本は、アレクサンドリア系の伝承に属し、ルカ24章12節を含んでいる。アレクサンドリア写本は、新約聖書全巻を含む貴重な写本であり、多くの後代のテキストに影響を与えた。
エフレム写本(Codex Ephraemi Rescriptus)
5世紀に書かれたパリの国立図書館に所蔵されているこの写本も、ルカ24章12節を含む。エフレム写本は、新約聖書の大部分が残存しているものの、部分的に消された後に別の文書が上書きされており、パリ・パリンプセストと呼ばれる再生写本の一例である。
ベザ写本(Codex Bezae)
西方系テキストを代表する5世紀のギリシャ・ラテン語対照写本であり、ルカ24章12節を含んでいる。ベザ写本は、西方の教会で使用されたテキストの特徴を反映しており、他の写本と異なる箇所がいくつか見られるが、この節は含まれている。
ビザンティン系の多数派テキスト(Byzantine Text-Type)
中世以降のギリシャ語写本の大多数がこのテキストに属しており、ルカ24章12節を含んでいる。ビザンティン系テキストは、9世紀以降の教会において広く流布したもので、多くの後代の写本や現代の翻訳聖書がこの系統を基にしている。
ラテン語ウルガタ(Vulgate)
4世紀末にヒエロニムス(ジェローム)によって編纂されたラテン語訳聖書「ウルガタ」には、ルカ24章12節が含まれている。ウルガタは西方教会において長く使用された公認のテキストであり、多くの中世の聖書翻訳や写本に影響を与えた。
これらの写本は、ルカ24章12節を明確に含んでいるため、この節が後に挿入された可能性がある一方で、広く伝承されてきたことを示している。特にアレクサンドリア写本やベザ写本は、新約聖書の成立と伝承において重要な役割を果たしたものであり、これらの写本にルカ24章12節が含まれていることは、節の正統性を主張する一つの証拠とされる場合もある。また、ビザンティン系テキストは後代の教会で標準となったため、現代の多くの翻訳聖書においてもこの節が含まれている。したがって、ルカ24章12節は、初期の一部のギリシャ語写本には欠けていたものの、アレクサンドリアや西方系の伝承を含む多くの後代の写本に確認されており、後の教会史の中で重要な部分として広く受け入れられてきたと考えられる。
ルカによる福音書24章12節における「ペテロが墓へ走り、中に亜麻布だけが残されていたことを確認する」という記述は、いくつかの古い聖書写本には含まれていない。この事実は、当該節が後の時代に挿入された可能性を示唆している。特に、代表的なギリシャ語の写本であるシナイ写本(Codex Sinaiticus)およびヴァチカン写本(Codex Vaticanus)には、ルカ24章12節が欠如している。この点は、新約聖書研究において重要な批判的テキスト問題を提起している。シナイ写本およびヴァチカン写本は、どちらも4世紀に書かれた非常に重要なギリシャ語写本であり、当時の新約聖書のテキストの伝承に大きな影響を与えている。これらの写本において当該節が欠けていることは、初期の伝承においてこの記述が普遍的ではなかったことを示唆している。これに対し、多くの後代の写本にはルカ24章12節が含まれており、特に西方系やビザンティン系の伝承においては一般的な要素となっている。
さらに、ネストレ・アーラントのギリシャ語新約聖書(Nestle-Aland Novum Testamentum Graece)などの批判版テキストにおいては、ルカ24章12節が後に挿入された節である可能性が指摘されており、この節の出典や信憑性に関する議論が展開されている。ネストレ・アーラントの注記によれば、この節の欠如は一部の重要な古代写本に共通して見られ、そのため当該節が初期のルカ福音書のオリジナルではなかった可能性が高いとされる。
したがって、ルカ24章12節に関するテキスト批判的な見解として、この節は後代の教会による挿入、あるいは伝承の発展による追加であると考えることが妥当である。特定の翻訳聖書、例えばシナイ写本やヴァチカン写本を基にした学術的な版においては、この節が欠如しているか、脚注として扱われていることが多い。新約聖書のテキスト批判におけるこのような問題は、聖書本文の成立過程やその後の伝承に関する理解を深めるための重要な要素である。
ヨハネ福音書では、ペテロともう一人の弟子(通常はヨハネと解釈される)が共に墓に走って行く場面が詳述されている。
マルコ福音書では、ペテロが墓に直接行く場面は描かれていないが、天使が女性たちにペテロに伝えるよう指示する場面がある。
この箇所では、ペテロが墓に行く描写はないものの、ペテロに特に知らせるように指示が与えられている。
エマオで復活したキリストは肉体か霊か?
エビオン派と仮現説
エビオン派は、初期キリスト教においてユダヤ教とのつながりが強いグループで、イエスを預言者やメシアとして尊重しつつも、神そのものとは見なさなかった。この点で、彼らはキリスト教正統派とは異なる立場を取っていた。特に、イエスの神性や処女降誕の教義を否定し、イエスをあくまで人間として捉えたことが特徴だ。彼らはモーセの律法を厳格に守り、パウロの教えを歪曲されたものとして強く批判していた。
エビオン派とグノーシス主義は、一見すると似た部分もあるが、根本的な思想は異なっていた。グノーシス主義は「隠された知識(グノーシス)」による救済を強調し、物質世界を悪と見なすことが多かった。一方、エビオン派は物質世界や肉体を必ずしも否定するわけではなく、むしろ律法を守るという具体的な行動に重きを置いていたため、グノーシス主義の神秘主義とは距離を置いていた。
エビオン派に関連して、仮現説(ドセティズム)にも触れておくと、これはイエスの肉体が単なる幻影であり、実際には苦しみを経験しなかったという考え方だ。仮現説はグノーシス主義に近い思想で、イエスの神性を強調するために彼の人間性を否定する。しかし、エビオン派はこれとは対照的に、イエスの人間性を強調し、彼が実際に苦しみを経験し、肉体を持った存在であったと信じていた。つまり、エビオン派はイエスの神性を否定しつつも、彼の人間としての側面を重要視していたため、仮現説とは対立する立場にあった。
エビオン派は1世紀から4世紀にかけて活動していたが、キリスト教がローマ帝国の公式宗教として確立され、三位一体論が教義の中心となる中で、次第に異端とされて影響力を失っていった。しかし、その存在は初期キリスト教における多様な信仰のあり方を示しており、ユダヤ的なキリスト教観を持つグループの一つとして、歴史的に重要な位置を占めている。
教会の絶対的権威
絶対的な権威を帯びた使徒証言
個人の内的な信仰生活を否定する教会
エビオン派のキリスト養子論
教会とグノーシス、対立する二つの救済観
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