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数学嫌いな人のための数学―数学原論/小室直樹【本要約・ガイド】


論理とは神への論争の技術なり

本書は、日本人が苦手とする論理と数学について、学問が確立した歴史的背景や意義を交えながら論じた知的読み物である。アリストテレスの形式論理学やガウスの大定理、背理法、帰納法、必要十分条件、対偶、ケインズの一般理論についての知識を得られるが、その過程で数式はほとんど出てこない。最初の数十ページを読んだだけなら、歴史の本と間違ってしまうほどだ。『痛快!憲法学』で披露した小室節はここでも健在のようである。

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・第一章:数学が登場した歴史的背景。古代イスラエルの宗教と論理学の関係、古代ギリシャの3大難問、大航海時代の新航路発見の意義などを読み進めていくうちに、数学の意義や考え方について学ぶことができる。
・第二章:東西の論理の違いについて、興味深い話が紹介されている。「なぜ、日韓関係はよくならないのか」の部分を読めば、国際理解に関しても論理が重要な意味を持つことがわかる。
・第三章:数学の論理によって育まれた資本主義の考え方が述べられる。資本主義の考え方に、いかに数学が根づいているかを実感できる部分。
・第四章:本書の肝というべき部分で、背理法、帰納法、必要十分条件、対偶などの証明の技術について述べられている。統計調査の注意点や困ったときの発想法なども述べられている。
・第五章:まとめとしてマクロ経済学の理論が登場する。ケインズと古典派の経済理論、リカードの大発見などを数学的視点からわかりやすく説明しており、マクロ経済の教科書が理解できなかった人にも理解しやすい。


数学の論理の源泉:古代宗教から生まれた

古代イスラエル人。
「神は存在するのか、しないのか」この宗教的な動機のために、論理が整理され始める。そして、神との契約を破ったか、破っていないか、を判定する必要がある。論理とは、論争のための方法のこと。神と人との論争である。

預言者の最大の仕事は、神との論争だった。
イスラエル人の宗教は、ユダヤ教は育つ。ユダヤ教からは、キリスト教とイスラム教が生じた。それゆえ、ユダヤ教こそが現代宗教の根底だ。

数学が登場した歴史的背景。古代イスラエルの宗教と論理学の関係、古代ギリシャの3大難問、大航海時代の新航路発見の意義などを読み進めていくうちに、数学の意義や考え方について学ぶことができる。

論理こそ数学の生命(5)

われわれは、数学とその論理を根底から体得するために、古代イスラエル人の宗教から見ていきたい。そして、それが古代ギリシャ人の論理と同じ論理に収束して、究極的には、歩を揃えて進んでいくことになる様相を検証したい。日本人ははじめ何となく「論理」なんていってもピンと来にくいが、実は論理こそ数学の生命なのである。
「論理」という字は漢字であるが、この言葉は西洋からきた。
英語でlogic、ドイツ語でLogik、フランス語でlogique という。その源は logos(ロゴス)である。
キリスト教に身近い人ならば、「はじめにロゴスあり」(「第一ヨハネ書』)という言葉を思い出すであろう。すべてのはじめにはロゴスがあって、神はロゴスから天地を創造したもうた、というのである。「ロゴス」とは、もともと、神の言葉、神そのもの、神の子イエス、……などという意味である。それが「論理」という意味になっていくのであるが、「論理」とは論争のための方法のことを指す。
それでは、一体、誰と論争をするのか。人と人との論争、と読者は思われるであろうが、究極的には、「神と人との論争」なのである。

論理の恐ろしさ


神すら論破することができる。
こうして、古代ギリシアにおいて、論理と数学が合体することになった。
存在問題、あるのかないのかが、人類にとっては重要なことだった。
神はいるのかいないのか
海峡はあるのかないのか

ここにきて、数学では、ガウスなどにより、解けない方程式の存在が明らかになる。方程式の重要な役割とは、「答えがあるのかどうか」を数学的に考えられるところだ。これは、現実の答えがない様々な問題へ対処するうえで、重要な視点だ。

法律の論理は偽物(18)
論理学の特徴としてはっきりしていることは、「正しいか」「正しくないか」、つまり真か偽かがキチンと決まることである。その判定が、一義的に (eindeutich, uniquely)に決まることである。
こんなことは当たり前だと思うかもしれないが、実はそうではない。前資本主義経済においてはそうではなかったし、資本主義経済においても、どこでもそうであるというわけでもない。

例えば裁判。裁判には、原告(例。検事)と被告(例。弁護人)という二つの立場がある。原告にも主張があり被告にも主張がある。これらの主張は、お互いに矛盾する。どちらが正しくて、どちらが正しくないかは、本当は分からない。その本当は分からないところを分かったようにする、それが裁判である。
実は、どちらかが絶対に正しくて、どちらかが絶対に間違っているたがその本当はあり得ないことを、あたかもあり得るようなふりをする、それが裁判である。

それゆえに、裁判に「不服」はつきものである。裁判における上訴(判決に対して上級裁判所に対して不服申立てを行うこと)は、正常な措置であり、これを行っても、誰も不思議であるとは思わない。
裁判における判決は、数学における証明とは違うのである。
数学における証明は、「正しい」か「正しくない」かどちらかである。そのいずれであるかが、一義的に決められなければならない。
”裁判における証明(判決)は、「正しい」か「正しくない」か、どちらかに決められるものでは、本来、あり得ない。その「あり得ない」ものを、「ごまか」して、恰も証明したようなふりをする。それが「判決」である。
まことに、法律におけるウソの効用たるや絶大なものがある
[末弘巌太郎(すえひろいずたろう]
『嘘の効用』川島武宜(たけよし)編、冨山房百科文庫、一九九四年

このように、法律の論理は本来の論理とは若干違う。いや、大いに違う。極言すれば、法律論理は偽物である。「ウソ」を「本当」だと見せかけるための道具、それが法律の論理である。
これこそが真相であるが、前近代的な法律とは違って、近代法は「論理」を標榜している。

例えば、所謂「概念法学」は、法律は三段論法を忠実に適用するものであることを看板にしている。
その解釈が論理的であることを誇りとし、他方、解釈があまりに論理的であるので堅苦しいと煙たがられる法律学の論理性すらなおかくのごとし。
その他の諸「学問」の論理たるや、「本来の論理」から一督を投じただけでも、「論理」とも何とも言いかねる代物も珍しくはない。「論理」と呼ばれる怪物も横行しかねないのである。


論理とは、論争の技術


神は、契約を絶対に守ることを要求した。
だから、成立したか、成立してないかが重要になる。

よって、ここから、「矛盾律」が出てくる。

そして、そこには、中間があってはならない。どちらかしか認めないのだ。これが「排中律」である。そして、契約は言葉で行なわれる。用語の定義が求められる。ここから、「同一律」が生まれた。

アリストテレスの形式論理学(20)

「本来の論理」という言葉を使った。そして、数学が「本来の論理」のみを使用した学問に成長したことは画期的であり、このことが数学の偉大な発達をもたらし、近代科学に基礎を与えたとも述べた。では、「本来の論理」とは何か。それは、アリストテレス(Aristotle 前384~前323年)の形式論理学 (formal logic)である(第2章で説明する。一瞬でそのエッセンスを理解したい人は特に84~87頁参照。一目で見たい人は1400頁を見よ)。
この体系はギリシャ、ヘレニズム世界、ローマ帝国、サラセン帝国、中世ヨーロッパなどにおいて論理学の模範、いや論理学そのものとみなされ近代に及ぶ。
一九世紀末、形式論理学は、記号論理学 (symbolic logic)、すなわち数学的論理学 (mathematical logic)に発展した。
また、形而上字の一種として、マルクスから弁証法をもって批判された。しかも、アリストテレスの形式論理学は、こう古(空前)の完成度を見せるものであって、中国学といえども比べものにならない。
曖昧模糊たるところを残さず、この論理学を用いれば、真偽の判定が一義的にできるところに未曾有の強味を有する。この点において、中国の論理学とも比較にならない。

形式論理学は、ギリシャで完成された。

しかし、人間の論理として実施されたのは、絶対的唯一神の存在を確信する宗教においてだった。

【同一律】(Principleofidentity)
「AはAである。」
*「AはBである。」も、AとBが共通の要素をもつことを述べているので同じ形式である。

【矛盾律】(Principleofcontradiction)
「Aは非Aでない。」

【排中律】(Principleofexcludedmiddle)
「AはBか非Bかのいずれかである。」

これらが数学の論理のキモである。

数学と近代資本主義


マックスウェーバーは、資本主義を生むのは、目的合理性だと言った。
目的合理性とは、形式合理性のこと。つまり、数学のように計算ができることを言う。
一方、日本人には、数学的思考を否定した「空」の思想が流れている。

「仏はあるとも言えるし、ないとも言える」という考え方ができるのだ。これは、先ほど紹介した論理学の基礎を破棄している。

また、資本主義の根本は私的所有権である。そして、私的所有権は、絶対性と抽象性を持つ。すなわち、所有の絶対性は数学化されるのだ。

経済学において概念の数量化(数学化)が急速に進展しうる所以は、その根本となる所有概念が形式合理化(計算可能化、数学化)したからである。
そして、資本主義は商品交換によって機能する。商品の絶対性が出来上がる。
数学化のおかげで、マイナス所有という概念が出来上がった。ゴミや、産業廃棄物処理などがそうだ。

数学を除くあらゆる科学は不完全である


近代科学の前提には、帰納法が存在する。

今まで見てきたカラスが黒色だったから、全てのカラスも黒色だろう、と推論することだ。あらゆる科学もこのように、これまでの実験ではそうだったのだから、次もそうだろう、と法則化される。
しかし、次にそうなる保証はどこにもないのだ。明日いきなり、物理法則に反する事象が見つかるかもしれない。だから、帰納法では、本来科学を完全にできないのだ。

この隙を「ファンダメンタリスト」はつく。聖書原理主義の人たちだ。彼らは聖書に書かれてあることを絶対とする。科学が不完全なのだから、聖書の方が正しいと信じるわけだ。彼らの行いを完全に否定することはできない。

一方、完全な帰納法もある。
それが数学的帰納法だ。この帰納法で証明された命題は、必ず正しい。


数学とは神の論理なり、と著者は言う。ここでいう神は宗教の天才古代イスラエルの民が育んだ唯一絶対的人格神である。そして論理とは「神と人との論争」のための方法であった。この論理が古代ギリシャにおいて論証(証明)を旨とする数学と合体して(「これは世界史における画期的大事件である」)、アリストテレスの形式論理学に結実した。

形式論理のエッセンスは自同律と矛盾律と排中律。この三原則を理解すれば、なぜ西欧社会に資本主義が生まれたかが分かる。資本主義の神髄は形式合理性=計算可能性であり、その根幹は私的所有権の絶対性と抽象性、すなわち観念化=論理化=数学化の確立にあったからだ。また、証明の技法のエッセンスは必要条件と十分条件。これだけを理解すれば必要十分なのだが、おそらく十万人に一人も分かっちゃいないだろう、必要条件や十分条件を滑らかに使いこなせるようになっていないと本当に理解したとは言えないのだと著者は言う。

日本人が苦手とする論理と数学について、学問が確立した歴史的背景や意義を交えながら論じた知的読み物である。アリストテレスの形式論理学やガウスの大定理、背理法、帰納法、必要十分条件、対偶、ケインズの一般理論についての知識を得られるが、その過程で数式はほとんど出てこない。


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