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30年前のパリ旅行

ストライキ中のパリに迷い込んだときの旅行記です。

北駅の思い出

ドイツ日記を書いていて思い出した。
三十年前、ケルン駅から乗った列車で起こったある事件。

あの日はクリスマスをパリで迎えようと、ドイツのケルンから早朝列車に乗り込んだところから始まった。

列車はモスクワ発パリ行き。まだ、ソ連崩壊のずっと前のことであるから、ちょっと珍しい列車でもあった。列車の中で、日本語がぺらぺらの北朝鮮からシベリア鉄道経由でパリに向かう人と知り合ったのもこの列車である。

ケルン駅を出発後、順調に国境を越え、ベルギー経由でフランス国内に入ると、突然列車が駅で動かなくなった。乗客たちもざわざわし始め、公衆電話に列ができた。

フランス語が分からない私にとって、まったく情報が入らなくなった。

人間と言うものは面白いもので、私も公衆電話の列に並び、日本に連絡しようとしたのであるが、かけ方の説明もフランス語である。オペレーターが出るところまではたどり着いたが、その後は意味不明の会話になり、受話器を戻した。

そうこうしていると、ホームに出ていた乗客たちも列車に乗り始めたので、私も列車に戻ると、列車はなんとか動き始めた。

その後も、たびだひ駅での停車を繰り返し、本来昼過ぎに着くはずが、夕方になった。とまった駅々には、兵隊が機関銃をもち、警備をしており、なにか戦争でも始まった雰囲気を醸し出していた。

そして、パリに着いた駅がこの北駅。

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クリスマスイブということもあり、行きかう人も少なく、たまたま見つけた日本人にこの状態は何かと尋ねると、ストライキだという。

鉄道をはじめすべての交通機関が止まっているばかりでなく、電力会社もストライキに入り、電気不足となっているという。パリの左岸では、車が燃えているといい、あまりセーヌ川左岸には行かない方がいいとアドバイスをうけた。

そんな状態なので、とりあえず一泊だけこの北駅前の安ホテルに泊まることにした。

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連れ込みホテルらしく、うす暗く、本が読める明るさはない。窓を開けて、ホテルのネオンでガイドブックを読んだくらいである。

クリスマスイブの食事は少し贅沢にと思っていたが、オペラ座まで歩いてもそれらしい店は開いていない。結局、駅前の食堂でオムレツをつつきながら、ワインを飲むというクリスマスイブとなった。

もう30年も前のことなのに、いろいろ思い出すのはよっぽどパニックになっていたのだろうと思う。現在、駅前には、かつてのホテルや食堂はなく、こぎれいな街並みとなっている。薄汚れた駅はユーロスターを始め、いろいろな国際列車が発着する駅となっている。


ノートルダム寺院のクリスマスミサ


北駅の連れ込み宿で、ホテルのネオンを頼りに地球の歩き方初版を読んだ。それまでは、地球の迷い方と馬鹿にしていた本であるが、このときは持ってきてよかったと感謝した。

それによると、手ごろな値段で日本人がいるホテルを見つけた。
場所はルーブル界隈。最高の立地条件である。

さっそく電話をかけるとすぐ日本人に代わってくれた。
今の状況を説明すると、今空き部屋があるのでこちらに来ないかと言う。

クリスマスの数少ないタクシーに乗り、ホテルを移った。
そこで、今のパリの状況を聞いた。
それによると、私が乗った列車は特別に動いたようである。
モスクワからの国際列車が功を奏したようである。
パリ発のTGVですら、現在動いてないという。

これは暫くパリで滞在となる。

この時の旅行はフィレンツェやベネチアをメインに動く予定だっただけに困ったこととなった。

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部屋でのんびりしていても退屈なので、歩いてノートルダム寺院に向かった。クリスマスだから、ここ以外は人通りが少ないのに、教会の中は身動きとれないくらいで混んでいた。

ミサでは、ワインにつけたパンがふるまわれ、キリスト教徒のクリスマスを感じることができた。ストライキのおかげで、普通なら入れないクリスマスミサに参加できたわけである。

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ボクシングデーのスト破り


26日、クリスマスも終わり、朝食の時にホテルスタッフから地下鉄が動き始めたと聞いた。

実際、リヨン駅の状態はどうなっているのだろうと、下見に出かけた。地下鉄の駅からリヨン駅までの地下道は、ストライキのため行き場所がなくなった旅行者の寝場所となっていた。

疲れた顔の人たちの間を歩いて駅に入ると、ホームにはずらっとTGVが並んでいた。いろいろ聞いてみると、少しずつは組合に入っていない人たちが列車を動かそうとしているという情報がえられた。

しかし、どの列車が動くかわからないし、いつ発車するかもわからない。
低い確率であるが、パリ脱出が可能であると分かった。

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リヨン駅の帰り道、ルーブル美術館に寄ってみた。当然ストライキ中であった。それでも多くの人たちがいつか美術館が開くのか待っていた。

その人ごみの中を歩いていると、一人のアメリカ人から声をかけられた。
「フランス語が話せるか」と。

フランス語は話せないというと、君は日本人かと聞いてきた。そうだと答えると、今、このルーブルを開館させようと、色々な国の代表を集めている。もし良ければ、立っているだけでいいから参加してくれないかと頼まれる。

暇だし、アメリカ人がどのように自分たちの要求をするか興味もあり、彼が集めた色々な国の人たちとともに事務所に向かった。

事務所には、たったひとりの事務員が人々の質問に答えていた。

さっそく、その事務員にアメリカ人は交渉を始めた。
彼が言うには、これだけの多くの国からルーブル美術館を訪れている。
この人たちにルーブルを見せなくていいのかとの主張を繰り返した。

暫くすると、責任者に電話で相談するという確約までたどりついた。
一時間後に開館するとの回答がでた。人を集めるために、一時間ほど必要だから時間が欲しいとのこと。

やってみるものだと、このアメリカ人に感心した。

せっかく開いたのだからと、ルーブルに入館することに。初めてではないので、好きなものだけを見ようとのんびり歩いていた。

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ニケを見ていると、後ろからにぎやかな団体がやってきた。日本語で、入館が遅れたので、急いでくださいと団体客を添乗員がせかしている。

あっという間に、ニケを通過し、次はモナリザに行きます。はぐれないで下さい。大きな声でせかせながら、旗の後ろに団体が通過していった。

同胞として、恥ずかしく感じ、そして、アメリカとの民度の差を感じた一日であった。

Special Day

ボクシングテーの翌日、早くパリを脱出しなくてはと、意を決してホテルをチェックアウト。一泊一万円はあまりにもきつい出費。多くても3000円と考えて旅している者にとって、かなりきつい。

荷物を持って、リヨン駅へ。

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昨日と雰囲気は同じであるが、人々がTGVに乗って待っている。

席は満席。

どれかの列車が出発するはずである。

どの列車がいいのか各列車を見比べていると、世界最速の記録プレートをつけたTGVを発見。行先を見ると、スイスのジュネーブ。出発させるのであればこれに違いないと、デッキには場所取り。

一時間ほど待っていると、車内アナウンスとともにドアが閉まった。私の選択は正しかったようである。

車内は満員でたくさんの立ち席客がいたので、ずっとデッキで立っていると、 退屈になった子供がデッキまでやってきた。

暇つぶしにと、日本の硬貨を見せて、欲しいのはないかとジェスチャーでしめすと、 選んだのは一円硬貨。子供にとって、銀色に光る硬貨がよかったようである。その子供が自分の席に帰り、嬉しそうに親に見せているのがデッキから見えた。

しばらくすると、その子が缶ジュースを持って戻ってきた。
お礼だという。
いやいや、一円がジュースに変身である。
何も買わずに乗り込んだ私にとって、ありがたい飲み物であった。

列車は徐行するところもあったが順調にスイスに進んだ。ただ、気にかかるのは、切符を買わずに乗ったことである。車掌が来ると買おうと思っていたが、全くその気配がない。

無賃乗車で捕まるのは嫌なので、車内で英語を話せる人を探して訪ねると、

一言 Today is special day と。

それに合わせて、車内からスペシャルデーの合唱が。

みんな買っていないんだと納得。

いやいや、フランス人って、いい性格してますよね。

この日記をYouTubeにしてみました。


初めてのマクドナルド

TGVでストライキ中のパリを脱出したことで三十年前の昔話を終えようと思っていた。しかし、その後のことを少し・・

ジュネーブ到着。時間は3時頃かと。
多分・・

駅のパスポートコントロールで、エンブロープ?言われ、わかりませーん。
手持ちの辞書で調べるに封筒以外の訳はない。
ふと、気がついたのは免税処理。
そんな贅沢な旅行をしていない私はパス。
手間を取らせたが、無事入国。
シェンゲン条約ができた今からは信じられない国境越えである。

スイスは物価の高い国。
当然、予定ではスルーする国であった。
本来ならば、一つの列車でイタリアまでと考えていた。

駅についてまず調べたことはイタリア行きの列車。
平常運転中のスイスでは普通に見つかった。
ただ出発時間が夜。
そして、到着は朝。
つまり、夜行列車である。

行き先はフィレンツェ。
考え方を変えればホテル代が一泊分倹約できた。
次はそれまでの時間潰しだ。
そして、昼ごはんというか、晩ご飯調達。
ジュネーブ駅には弁当を売る自動販売機があった。
透明のドアを持つコインロッカーのようなもの。
まず、日本では存在しない代物である。
値段を見ると、やはり高い。
さすがスイスである。

駅の中での調達を諦め、街に出た。

歩いていると、ふと噂のマクドナルド。
この時、私の住む四国の片田舎にはマクドナルドの店はなかった。
都会帰りの人間が自慢げに話していたぐらいだ。

旅行に出る前に、アメリカ帰りの友人が、
アメリカではハンバーガーといっても通じない。
バカーといえば買えるのだ。
嘘かホントかわからない戯言を言っていた。

そんな田舎者がマクドナルド。

ここは是非体験しなければと、両替したばかりのスイスフランを握り締めチャレンジした。

列の後ろに並び、ずっと様子を見ていると、同時に飲み物を注文するスタイル。
自分の番になって、周りに日本人がいないのを確認して、バカーと言ってみた。

あっさり買えた。
ただ、飲み物のサイズを聞かれアタフタ。
店員が気をきかせてくれたのか、コーラがついてきた。

それを持ってレマン湖へ。
噴水見ながら食べた記憶がある。

ジュネーブ観光はこれだけ。
なんともあっけないスイス観光である。

その後、列車に乗りフィレンツェへ。

相客なしのコンパートメントなので、一部屋占領。
全ての椅子を倒し、まっ平にして寝た。

ただ、噂では盗難が多いと聞いていた。
そのため、椅子の下に荷物を置いて寝たのだが、起きた時は荷物はドアのところまで動いていた。
幸い取られたものはなかったが、噂通りの夜行列車。

眠い目をこすりながらフィレンツェの駅に降りたのを思い出す。

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写真は別の旅行で撮ったもの。この記事には関係ありません。

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