素面-11(小説)

 酒器を傾けた指に震えが走る。汗ばんだ手を気取られる前に拭う。いっそ取り落としたら、設えたスーツにこぼした酒の話も、思い出のうちとして斉藤の中にストックされるだろうか。
 ぬるめの燗がそれでも、喉の奥を焼くように通っていく。かあっと熱くなるのを、綾下は美味い酒のせいだと、思うことにした。モツ煮の残りをつつく。柔らかく臭みのないそれをいつまでも噛みしめる。
「……上手くいくといいな、次」
 小鉢の並びに目を泳がせて呟く。心にも無いことを言っている。どうせ気付かないだろう、肝心なところはなにも知らないのが斉藤という男だ。その上で綾下は結局、本当には、どこまでも上手く立ち回ることができる男なのだから。
「おまえだけだよ。そう言ってくれるのはさ」
「そろそろ懲りろって?」
「もう、非難轟々」
「はは」
 俺も同感だがな、と足してやったなら斉藤はげえっと潰れたような声を出す。ふっと、笑いか、溜め息か分からないものを吐きながら綾下は目を細めた。香ばしいにおいが鼻を抜けて、注文の揚げ物が届いたと気付く。空いた皿を脇へと避けながら、俺はいつ、この席から自分を片付けてやれるだろうと綾下は考えた。
 酒の席でのことだ。アルコールが神経をどうにかして、ぼうっとする頭でのやりとりだ。度を越えた飲酒は、どうしたって、重要な商談には向いてない。人生のパートナーだとか生涯の伴侶だとか、そういうのを誓うにも向いてやしない。囁いた愛がうすっぺらく聞こえたって無理もなく仕方もない。
 だから綾下はいつだって二人の間に酒を置いている。
 斉藤と自分との間に、かならず美味い料理と美味い酒を挟んで、決してこの場のことが、この場のこと以上にならないよう願っている。
「うっまそ」
「これ、ソースか?」
「だろうな。かけちゃっていい?」
 斉藤の腕がテーブル脇へ延びる。白いワイシャツの色ばかりが、学生の頃となんら変わりなくて眩しい。どうせ見てもいられない光景なら、酒を煽ることが許された分だけ、今のほうが幾分かマシだとも思えた。
 中濃ソースのほのかに酸っぱいにおいで、やけに鼻がつんとする。綾下は追加の酒をたっぷりと手酌で手元の器へ注いだ。それから、長らく飲み下せないものを胃の腑へ納め直して、丁寧に出入り口を焼いてしまうようにゆっくりと飲み干した。

(了)

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