くつ屋のペンキぬり-11(小説)

 図書館をぐるりとめぐって帰った翌朝、男は下宿の一画の狭い自分の城に、全財産を広げてウーンと腕組みをしました。
 分厚い毛皮の上着なんかはすっかり、金か涼しい衣服かに替えてもらっていましたから、買い手の付かなかった重たい靴を除いては、この国で暮らすのに必要なものばかりです。
 必要とは、この国で使えますよということですから、その点で言ったら実は靴のほかにもう一種類だけ、男は持て余しているものがありました。生まれ故郷の貨幣です。

 男は故郷を出てくるとき、引き出せる金はすっかり金庫から引き出してしまって、大陸を北から南への長い長い旅路の間、少しずつ大事に、必要なものを買うのに使っておりました。故郷を出たばかりの頃はまだ、それでよかったのですが、故郷を遠ざかるほど、店先で「外の国の金なんか使えないよ」と言われることが増えました。
 それでも大きい町へ行けば貨幣の交換所がありましたから、故郷の紙幣やコインと、その時その時の町の流通貨幣とを同じ価値で交換してもらって、もう一度商店へ出向くなんてことができました。中には男をだまして、公平でない金額で貨幣を取り換えようとする輩もおりましたが、男は貨幣の数え方につけては実際詳しかったので、生きるに困るほど損をすることはありませんでした。
 ところが、ずうっと南下してきたあたりで関所を越えてからは、すっかり貨幣が使えなくなってしまいました。交友、交易があんまりにも少ない国同士なもので、店先はおろか貨幣の交換も取り合ってもらえません。このことは、一つの意味では男に大変な喜びをもたらしました。雪と氷の故郷からはるかに遠ざかり、目指す太陽のおひざもとへと近付いている証左だったからです。それに男は元居た町での地位も名誉もすっかり捨てて出てきた身の上ですから、関所を越えた先までは、きっと追手も来ないだろうという安堵も胸の内に起こりました。真実は、とっくに追手が諦めていたとしても、男はそう思いました。
 しかし、食べるのに使える金は要りようです。いよいよ元から野宿の旅でしたし、凍えるような吹雪のない地域ではそれもずうっと楽になっていましたから、宿賃はよくても、まさか砂漠を耕して食べ物を得るわけにはいきません。男は日ごとに資材を運ぶ仕事や、帳簿の数字を数える仕事、食堂の皿を洗ってその日とその次の日のパンをもらう仕事などをしながら、太陽の近く、丸屋根の美しい国を目指して懸命に旅をしてきました。こんなことなら途中ですっかり、少し損をしても暖かい国の貨幣に替えてもらっておくんだったと思いましたが、今更北上もできませんし詮無いことでした。

 さてもそういうわけで、男の手元には故郷で作られた紙幣とコインがいくつか残っています。大金とまでは申しませんが、十日そこらのパン代くらいはあるでしょうか。それだけの日数を食い繋げれば仕事に就くあてもありそうな気がしましたが、実際、関所を越えてさらにさらに南へやってきた国では、店先でも交換所でもどこでも、故郷の貨幣の扱いようがないのです。
 男は少しばかり困りました。
 コインをひとつ拾い上げて、まじまじと見てみます。細工の美しい、彫刻の名工の作品です。年中雪に閉ざされた国では出歩く術がありませんから、家の中でもくもくと腕を磨くようなことが得意になりまして、コインの彫刻も、貨幣の図柄も、とびきり精巧に作られているのでした。
 しかし、その美しさも流通しないとなれば貨幣としては使えません。
 北へ行くキャラバンがあるらしいと、聞きつけたのは固いパンをちぎってしのいだ三日目のことでした。

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