白い女・黒い女-01(小説)

 カフェの向こうに真っ白い女を見つけたとき、早央里は濃いめのブラックコーヒーを啜っていた。
 向かいといっても同じテーブルを挟んで同席したわけではない。早央里が腰掛けた二人掛け席の、テーブルとイスとそれから通路をさらに挟んだ窓の際、三階から街並みをよく見下ろせる座面の低いソファに女はいた。
 白いな、というのが第一の印象だった。
 特段、目立つ言動があったわけでも、芸能人に似ているというわけでもない。早央里が厚ぼったいネイビーのコートを向かい側の背もたれにあずけ、仕事に愛用しているブラウンの合皮のトートバックから手帳を出して、明日の予定を書きつけ、店員の若い男の子から注文の品を受け取ったあたりで彼女に気付いた。視界に居た、ただそれだけの女だけれど妙に白いのが気にかかった。気に障った、と言ってもいいかもしれない。その日の早央里は妙にいら立ってもいたからだ。深緑とチェックのスカートには、上司の小言を受け流す代償として、握りしめた皺が付いていた。
 女はまず肩から背中にかけて、真っ白なニット素材のストールを掛けていた。室内だもの、それなりに暖かく調整されているだろうに、カーディガンのようにして上半身を覆っている。おかげで、早央里に見える姿のうちのほとんどが真っ白かった。
 大通りを見下ろせる三階の窓へ、身体の右側を預けるようにソファが置いてあったから、早央里は彼女の左半身を何の気なしにじろじろと眺めることができた。勿論、不躾にならないようコーヒーのマグを口許へ運ぶ合間、合間にだけれど。女のスカートは薄いアイボリーに、クラシカルな花模様が焦げ茶で所々プリントされている。足元は荷物入れのカゴで隠れていたが、そのカゴから除いているのは着用してきたコートらしかった。白いウールの裾がのぞいている。ストールの隙間からちらりと見えるカットソーの袖口は、ロイヤルミルクティーを溢したようなベージュ色で、全体と相まってますます白い女の印象を和らげる。
 あんな格好では、とてもケチャップが恐ろしくてナポリタンなんて食べられないなと早央里は思う。現にナポリタンを頬張っているのは自分の方で、白い女はキノコがたっぷりと入ったオイルソースのパスタを器用に口へ運んでいた。肩にかかる緩いウェーブの髪を時折、背中側へ流しながら、一口ずつ咀嚼している。
 なにを食べたらあんな風に育つのだろう。悪くはない、よく似合ってもいるし他人の格好に文句など付けないが、早央里には何をどうすれば白いスカートに白いコートと白いストールを巻き付ける発想に至るのか理解できなかった。説明でもされれば理解するかもしれないが、少なくとも想像はとても付かなかった。湯気の立つコーヒーを握ると指先がじんわり熱い。
(少し似てるな)
 かじかむ両手に白い息を吐いていた放課後を思い出す。

***

 小学校以来、同じ読み方の名前が同級生にいつも二、三人いたから、サオリたちは決まって苗字で呼ばれていた。樹(いつき)という姓を、クラスメートと重ならないという利便性以外の点で、早央里はすきではなかった。響きのどことなく男性っぽい感じがよくない。早央里自身は平均よりも背丈があって、あまり柔らかい顔付きではなく、真っ黒で太い髪質がうっとおしくていつも短く切りそろえていた。そんな自分に後輩からの「イツキ先輩」なんて呼び方が妙にしっくりくるところなど、いよいよ、すきではなかった。
 高校は自宅から少し遠くへ進学したけれど、それでもやはり「サオリ」がもう一人いた。紗織とは一度も同じクラスにならなかったけれど、部活が同じで、気さくに話のできる仲だった。紗織は色素の薄い、ともすると染めて見える髪をまっすぐに背中まで下ろして、いつもハーフアップにして綺麗なバレッタで留めている。紗織は早央里よりもさらに遠くから通学していて、毎朝五時に起きて強情なくせ毛をアイロン片手に調教しているのだと、けらけら笑って話していた。五時なんて親のいびきに文句をつけてから二度寝する時間だ、と早央里が言えばそれにもまたけらけらと笑っていた。紗織はいいやつだった。
 だけれども一つだけ問題があるとすれば、紗織だけはどこへ行っても「サオリ」のままということだった。
 これまでは「サオリ」がいれば全員がそれぞれに苗字で、樹のほかは谷口とか吉野とか林とか、それで別のだれかと重なるときはあだ名だとか、とにかく「サオリ」以外で呼ばれていた。ところが紗織だけは畑中と呼ばれることはなく常に「サオリ」だった。映画同好会では紗織が「サオリ」で、早央里が「イツキ」で通っていた。紗織は気にする素振りもなかったし、早央里も、気にかけないよう努めた。たおやかな響きと字面が、清楚な印象の彼女に似合うんだろうと思えば納得もできた。二年になり三年になり、先輩と呼称され始めても、薄暗い視聴覚室で顔を合わせるたびずっと紗織は「サオリ先輩」で、早央里は「イツキ先輩」のままだった。
 ただ一人、真っ白なあの子だけを除いて。

 さおりセンパイ、と最初に呼びかけられたとき、誰のことだか分からなかった。続いてもう一度、今度は自分の至近距離で声がしたものだから、早央里はさっと教壇から視聴覚室を見回した。窓の外はしんしんと雪の降り積もる、なんていえば聞こえはよくても、実際は膝下までの長靴でうんしょうんしょと踏み越えなくては学校へ来られない豪雪の日だった。たまにあるのだ、四月になってから"どか雪"の降る年が。そうでなくても普段から始業チャイムぎりぎりの紗織は、田舎の休日ダイヤではなおのこと、時間通りに部活へ姿を見せるほうが珍しかった。
「紗織ならまだ。今日はバスが遅れてると思うけど」
「無視しないでください、早央里先輩」
 黒板前に大きなスクリーンをぶら下げたところで、早央里はやっと近くへ視線を戻して声の主を確かめた。見逃してしまいそうに小柄で、だけど妙に目を引き付ける、華のある、二つ年下の女子生徒が教室の入り口に立っていた。
「えっと」
「花井です。花井今日子」
「そう、花井さん」
「今日子でいいですよ。早央里先輩」
 今日子はぱっちりとした二重まぶたを瞬かせてにっと笑った。寒い外から、入ってきたばかりなのだろう、白い頬に赤みが差して制服が冷気を纏っている。早央里は一瞬あっけにとられていたが、今日子がずずっと鼻を啜った音で我に返り、「そんなとこいないで入りな」と入室を促した。古い校舎だったから、年季の入った石油ストーブしかなくて、そのすぐそばへ椅子を置いて今日子を座らせた。
「いじわるされたかと思っちゃいました」
 あはは、と今日子はあどけなく声を出す。まだ制服に着られるような年頃、ひと月前まで中学生だったはずの今日子は、それでもやけに高校生がさまになっていた。糊の利いたセーラー服に、白いPコートを羽織って両手をストーブにかざし、寒かったあ、なんて呟いている。自分もそんなふうだったかしら、と早央里は思って、すぐに内心で首を振った。今でこそ袖も短くなりつつあるセーラーもプリーツスカートも、違和感なく鏡で確かめられるようになるまで、三か月はかかった。
「紗織はいつも遅いんだよ。ほかも、この雪じゃ、遅れるだろうね」
「畑中先輩はもっときっちりしてるのかと思ってました」
「みんなそう言うね。紗織は見た目がああだから真面目に思われるんだ。べつにだらしないとかじゃないけど、とにかく家が遠くってさ。親が厳しいらしくて下宿は認めてくんないの、箱入り娘なんだって。だから大学は絶対に東京行くんだって言ってた」
「ふうん」
「あ。また勝手に話して怒られるかな、まあ映画部ならみんな知ってる話だから」
「早央里先輩は? もう志望校決めてるんですか」
「……ねえ、その早央里先輩ってのなんなの」
 今日子は目をぱちん、と閉じてすぐ開け、きょとんとして首を傾げた。
「だって先輩ですよね、早央里先輩」
「そこじゃない」
「え。あれ、ひょっとして先輩には『さん付け』の文化でした? 間違えたかな」
「そうじゃない、っていうか、そんなにうるさくないでしょウチの部。じゃなくて、みんな樹のほうで呼ぶから」
「なんだそんなことですか、早央里先輩」

(続く)
(百合には明るくありませんが、ラベルを貼るなら百合に該当するんだろうなと思って書きます)

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