掌編小説(1)『海辺の祭り』
これは俺が十歳の冬に体験した出来事だ。
親父に叱られた俺は、納屋に放り込まれていた。家畜の餌やりをサボったのが原因だ。
その頃は、家畜や幼い双子の妹のことばかり気に掛ける両親にウンザリしていた。反抗期ってやつさ。
寒さに震えていると、妹二人が遊び場を求めてやってきた。
しばらくすると、妹たちが納屋の隅にある藁に頭を突っ込んできゃあきゃあ騒ぎ始めた。
「静かにしろよ。俺まで遊んでると思われるだろ」
「にいちゃん! 見て見て!」
あまりにしつこく誘うので、俺は二人の間に跪いて藁に頭を突っ込んだ。そしてすぐに引き抜いた。錯覚じゃなければ、藁の中に海が見えた。もう一度、今度は慎重に覗き込む。
さっきより奥に首を突っ込んでいくと、徐々に視界は開けていった。
そこは海辺で、どうやら祭りの最中らしかった。縞模様のテントや屋台があった。何かを焼いたような香ばしい匂い。俺は朝食抜きだったことを思い出した。
砂浜には場違いなメリー・ゴーラウンド。それに、小ぶりな観覧車まであった。まるでおとぎの国のようだ。鬱屈した毎日を過ごしていた俺は、その世界に入ってみたくなった。豚の世話や、後継ぎとしての責任や、学校の勉強なんかから逃げ出したくなったんだ。
強く体を押し込むと、体に感じていた一切の抵抗が消えた。俺は砂浜に立っていて、納屋も、妹も、何もかも消えてなくなっていた。
そして俺は自由になった。少なくとも、そのときの俺はそう思った。
向こうの世界で俺は、オサと名乗る爺さんに拾われた。行く当てもなく、砂浜をいったりきたりする異国の子どもは目立って仕方なかったらしい。
オサは小麦農家だった。広大な畑に囲まれた小さな家でひとり、静かに暮らしていた。
オサは俺にたくさんのことを教えてくれた。
一ヶ月先までの毎日の天気を予測する方法とか、太陽の機嫌の取り方。風をもてなす作法に、雨に嫌われない方法を教えてくれた。そのおかげで、今でも三日先までの天気なら簡単に言い当てることができる。
オサが見返りに望んだのは、俺のいた世界の話くらいだった。
オサは、日本はおろかアメリカやフランスも知らなかった。そのかわり、キモクやらシンキョウネとか、聞いたことがない国の話は詳しかった。
十年が経った。俺はオサの孫娘と結婚して、オサの仕事を手伝うようになっていた。
子もできた。双子の男の子だった。妹たちを懐かしく思った。
幸せではあったが、心は常にどこか別の場所にあった。俺が足りない何かについて考え、ふさぎ込むたびに、妻は少し離れたところから悲しそうに見つめていた。
ある日、珍しく妻が俺をドライブに誘った。
ドライブ以上に、助手席の妻との他愛のない会話を楽しんだ。しかし妻が笑顔なのは会話の最中だけで、話が一区切りすると、なにか思い詰めたように前を見つめた。
妻の案内に従って車を走らせていると、やがて海が見えてきた。空は淡いグリーン。海の色もそれを少し濃くしたような、翡翠やエメラルドのような色だった。
車を砂浜に乗り入れる。ちょうどその日は祭りのようで、いつか見た観覧車やメリー・ゴーラウンドもあった。頭上には、サーカスが使う綱渡り用のロープが張られていた。
二人で祭りを見て回った。妻は硬い表情で、俺の少し後ろをついて歩いた。周囲の喧騒に対して、まるでお通夜のようだと思った。そのまま冗談めかして伝えると、妻は今にも泣き出しそうな顔で笑った。そのときの表情を、俺は今でも鮮明に覚えている。
祭りの会場から少し離れた場所までやってきた。
「元気でね」
それだけ言って、妻はどこかを指さした。
その先に、妹の手をひいて歩く両親の背中が見えた。
俺は思わず叫んだ。
花火の音に負けないくらい、大声で叫んだ。
俺の声に気づいた両親が振り返って、目を見開いた。
それもそうだろう。
半年前の冬の晩、凍死寸前で納屋から助け出され、今は病院で昏睡しているはずの俺が目の前に現れたのだから。
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