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Peace

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戦争について考えた記事をまとめました。
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難しいことはわからないが…

難しいことはわからないが…

先日、ようやくブラッドランドを読み終えた。

・人の心理は、個が集団となったときに、良心というハードルが低くなる。
・ヨーロッパの歴史は根深い。
思ったより根深く、もっと前の中欧史と東欧史を知る必要がある
・ユダヤ人以外のポーランド人の犠牲となった人が数が多すぎる。
 インテリや軍人を虐殺して、その国の国土と国民を自分の国の利益、、自分の利益のために働かせる…なんていうこと。
・途中から、犠牲者の

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今年の夏は…

今年の夏は…

小学生の頃の夏休みは、
宿題をはじめる前に、NHKの朝ドラを見ることが日課であった。
そして、毎年8月6日は、8時15分から始まるドラマが繰り下げられていた。そして、テレビには、広島で行われている平和記念式典と、一分間の黙とう。それが、毎年恒例であった。

一家に一台しかないテレビは、居間にあったため、その時期に放映される
戦争関係のドキュメンタリーを見せられていた。
幼いころにのこっている場面は

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1945年3月10日~体験者の話を聞く

1945年3月10日~体験者の話を聞く

東京生まれの東京育ちである私
また、親が戦前生まれであるためか、3月10日=1945年3月10日なのである。

いつからかは知らないが、東京都は、この日を東京平和の日として式典を開き、午後2時から一分間の黙とうを行っている。
東京都内の自治体のなかには、防災無線で黙とうの放送が流れる。

今日、90歳の男性と話す機会があった。
彼は、ご自分が昔描いたスケッブックを開きながら、当時、下町で体験した東

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今日は…

今日は…

数日前から、秋の気配を感じる。

風から伝わるにおい、肌の感覚。

もう秋が近くまでに来ている。

そして、今日は、終戦記念日。

今年は、オリンピックが終わるとともに、毎年恒例の戦争関連の特番が放送された。心の中でほっとする。

戦後76周年。

今まで、口を閉ざしてきた人たちが体験談を語りはじめているという。ご自身が死ぬ前に伝えておきたいことがあるということらしい。また、公文書の開示や、科学技

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初夢…1945年8月6日午前8時

初夢…1945年8月6日午前8時

今年の初夢は、

1945年8月6日午前8時の広島市にいた夢であった。

そこから、離れようとしても足が絡み、前に進めない。

焦る気持ち。

息はあがり、苦しい。

橋の上で、息を整えていて、ふと周りを見渡すと、

前方に産業奨励館が見える。

橋には、白いセーラー服とモンペ姿の女学生が数名、楽しそうに話しながら橋を渡っている。

出勤のために足早に歩いている眼鏡と口ひげがある男性。

子供と手

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二本松少年隊と生まれくる子どもたちのために

私は、好きな音楽を何度も何度もリピートして聴く癖がある。

それも、二つ年上の姉から、こっそりとカセットテープを借りてよく聴いていた。

なかでも、オフコースの「生まれくる子供たちのために」を何度聴いても何度も聴いていた。

その頃。姉から借りた木原としえさんの「天まで~」という新選組の沖田と土方を主人公にした漫画を読んでいた。幕末に関心を持ちはじめていた。

NHKの大河ドラマでは、獅子の時代を

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1945年7月25日広島市上空

1945年7月25日広島市上空

最近、広島市中島地区に気になり、いろいろと調べていた。そしたら偶然、広島市のホームページに1945年7月25日に米軍の上空写真をみることができた。

今は、平和公園であるその場所には、家々が立ち並び、対岸には産業奨励館がある。現在の平和大通りのところが白く映っているので、建物疎開のところからなと、平和記念館に問い合わせたところ、そうだという。

その写真を眺めているとそれぞれの家の営みが聞こえてき

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一瞬

一瞬

現在、広島市の平和公園があるところは、かつては中島地区といって賑わいのある町であった。そのことは、ドラマや小説によって知っていたが1年下の同僚は、広島の平和公園にかつて人が住んでいたことを知らなかったという。何かの広場だと思っていたということだ。

そこには、かつて1500世帯が住んでいたといわれている。そして8月6日爆心地の同心円500m内の人たちは消えてしまったという。

消えしまうとはどうい

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もし、そこにいたら…

もし、そこにいたら…

今日、電車に乗っていたときに「ウージの下であなたと出会い、ウージの下で永遠の別れ」The Boomの島唄が頭の中で流れていた。久しぶりである。

はじめて島唄を聴いたとき、とても悲しい歌だなという印象があった。歌詞の意味のなかで「ウージ」がサトウキビ畑だと知り、この歌の背景は沖縄戦だなと思った。そしたら、三つ編みした白いセーラ服にモンペ姿の女学生の姿や20代ぐらいの女性の姿が浮かんできた。

島唄

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平和の礎

平和の礎

昔、摩文仁の丘にある平和の礎を訪れたときツアー参加したときのこと。

平和祈念館から平和の碑に行く途中で、参加者の一人の男性が、平和の碑に大叔父の名前が刻まれているという話を始めた。その大叔父は、いつ徴兵されてもおかしくない年齢であった。将来を誓った婚約者がいたので志願すれば内地の仕事をあてがわれ戦地に赴かなくてすむと考えてたため志願した。しかし、予想に反して激戦地となった沖縄に配属されて命を落と

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1945年の記憶

1945年の記憶

1945年3月10日未明、父が住んでいた家から東方面の空は真っ赤に染まった。翌日、その惨状を知った祖父は身重な祖母と幼いこどもたちを祖母の姉の嫁ぎ先に疎開させた。父の記憶によると終業式前のことだった。

疎開先まで家財道具は持てるだけ持っての移動である。車もない時代なので、家族6人全員がそれぞれ荷物を分担して列車で運んだ。小学生だった父は一升瓶がはいった醤油を任されていた。はじめはしっかりと両手に

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