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だけど願いはかなわない 第八話「二人の夜(前編)」


夢の中ならシロさんに会える事がある。

その幸せは単なる偶然に過ぎないけれど、それでも起きている時よりはずっと希望がある。

けれど七年という月日の長さは、それならいっそ永遠に眠ってしまおうかと思う時期すら過ぎるものだった。

シロさんが居なくなって最初の数年間、私はずっと夢と妄想と現実の狭間に居たように思う。その危険で曖昧な場所から現実側に引き戻されたのは、ある夜、あおいちゃんが一人で背中を丸めて泣いている姿を見てしまったからだ。

神仏など信じていない彼が、「これ以上俺達の大事な人を奪わないで下さい」「ジュンまで連れて行かないで下さい」と、涙を流しながら『何か』に向かって必死に祈っていた。

その光景を目にした瞬間、あおいちゃんの家のおじさんとおばさん、シロさんの養父母ファミリー、それから私の両親、三つの家族がそれぞれ同じように悲しんでいる顔が浮かび、私がしっかりしなければと責任感のようなものが強く沸き立ったのだ。

それと同時、ああ、あおいちゃんはシロさんが帰ってくるようにと願う事はもう諦めたのだなと、仲間を失ったような寂しさを感じたのを覚えている。


・・・・・


総合病院特有の待ち時間にはいちいち引っかかったが、ジュンの退院は無事に終わった。

あれやこれやと念のための検査をしたが骨や脳には異常無し。そもそもの倒れた事に対する診断結果は『疲労』と『軽度の不眠症状による睡眠不足』で、良ければこのまま院内の心療内科の方を受診して眠剤でも処方してもらうかという話をジュンが断る形で終了した。

睡眠不足になる程酷使しているつもりは無いが、疲労と言われてしまうと雇い主としては引っかかる。しかし、ジュンはそんな俺の心中を見透かすように言った。

「仕事が原因では無いので気にしないで下さいね。」

退院の際の会計は救急外来側の受付での対応だったので、例の女が働いているらしい正面の総合受付の方には行かずに済んだ。

ジュンの会計が終わるのを待ちながら、壁の時計に目をやる。昼飯時はとっくの前に過ぎていて、空きっ腹を紛らすように今朝の出来事をぼんやりと思い浮かべた。結局は、あの春日とか言う子犬君の考え過ぎだったのだ。

あいつ、十二月に夜通し野外で張るなんて、生真面目を通り越してどうかしてやがる。

どうせ口だけだろうと疑っていたが、万が一倒れられても夢見が悪いなと早めに病院に着くと、真っ青な顔して立ってやがった。入院病棟の方はまだ面会時間前だったが、昨夜救急搬送された患者の連れだと告げると入れてもらえたので、とっとと帰って熱い風呂にでも入れよと言って震える子犬を追い返したのだ。

程なくして会計が終了し、ジュンと横並びで出口に向かった。総合病院の出入り口とは言え、救急外来用なので間口はあまり広くは無い。タクシー乗り場はどっちだろうかと考えつつ、一つしか無い自動ドアを抜けた。

その瞬間。

ジュンとは反対側の俺の視界の右端、出入り口に沿って設置してある花壇の前、まるでガードマンのような不自然な立ち位置で待ち構えていた白いコート姿の女が、俺からほんの二、三メートルという至近距離に出現した。

心臓が止まるかと思ったがあえて気付かないふりをし、少しだけ足早にタクシー乗り場に向かってジュンを誘導する。女は、無言のまま背後から着いて来た。

はっきりとは見えなかったが、ほぼ確実にあいつだろう。なぜだ?ジュンの顔を知っているのか?それとももしかして、たまたま見かけた俺を着けているのか?この時間は仕事中だと思って油断していた。まさか、サボったうえに自分の職場の敷地内でずっと張っていたのか?何にせよ、普通じゃ無い。

考えがまとまらない。ジュンも異様な空気を察したらしく黙って俺に従い、どちらからともなく歩くスピードが増し続け、最後はなだれ込むようにしてタクシーに乗車した。女が後続のタクシーに飛び乗る。

「とにかく車を出してくれ、どこにでもいいから早く!」

叫ぶようにして運転手にそう告げ、発車した事にとりあえずの安堵感を得る。病院の敷地から出るわずかの間に、どうにかこうにか心臓を落ち着かせた。大通りに出て、どうか付いてきていませんようにと祈りつつそっと後続車を確認したが、女の乗ったタクシーはべったりと後を追ってきていた。

「鬼塚さん、あの女性は…?痴情のもつれか何かですか?」

眉をひそめ気味にそう言ったジュンに思わず吹き出しそうになったが、そう疑われても仕方が無いような過去の自分の行いが次々と脳裏をかすめた。

「俺の痴情じゃ無ぇよ…多分…。」

力無くそう返したが、もちろんジュンは納得がいかない様子だ。
ジュンの視線を浴びつつ、とにかくこれからどうしようかと思考を巡らせていると、タクシー運転手の弾んだ声が空気を一変させた。

「お客さん、追われてるんですか!?いやぁ、もう、さっきのお客さんのセリフ、どこでもいいから車を出してくれなんて、タクシードライバーとして一度は言われてみたいって憧れてたヤツですよぉ。」

三十歳そこそこといったところだろうか、タクシー業界にしては珍しく若そうなこの運転手の空気の読め無さに呆れたが、その明るさに少し救われた。予想外の待ち伏せに動揺してしまったが、冷静になって考えればこのまま逃げ切ればいいだけの話なのだ。

ジュンの自宅を知られるわけにはいかない。乗車したまま完全に撒いてしまえるならいいが、お互いにタクシーとなるとプロのドライバー同士の腕の戦いになるだろうし、この日中の道路の混雑状況ではそうもいかないだろう。

どこか、相手を撒ける場所 ーーーーー どこだ ーーーーー 仮に相手が侵入不可能な建物に逃げ込んだとしても、袋小路なら出口で張られてしまう。出入り口が複数あって、人目もあって安全が確保されるような場所、なるべくなら協力者を得られるような場所 ーーーーー。

ああ、面倒だ。面倒な時は、金で解決するに限る。普段何のために魂を削りながらヒィコラ働いているというのか、そうだ、俺には金があった。ついでに言うなら、コネも。

「鬼塚さん…?」

不安そうに俺の顔を覗き込んできたジュンに、ニヤッと笑って決め台詞を返す。

「ジュン、喜べ。働き者のマネージャーへの福利厚生だ。療養を兼ねた従業員旅行をプレゼントしてやる。」


・・・・・


タクシー内であらかじめ電話をかけ、俺の名前を前面に押し出して話を通した。電話の内容を聞いていたジュンが慌てふためく。

「急にそんな所に行くと言われても、私、スッピンだし昨日から着替えてません!そもそも、あの女性が誰なのか説明して下さい。」

俺はタクシー運転手に行く先を告げ、ジュンの方に向き直った。

「あそこは何でも売ってるから安心しろ、化粧品でも下着でもドレスでも買ってやる。お前はスッピンでも充分綺麗だから堂々としてりゃいいさ。事情は着いてからじっくり話すから待ってろ。」

下車に手間取らないよう、信号待ちの際に運転手に釣りはいらんと告げつつ万札を渡す。十五分程して、タクシーは国内でも間違い無く三本の指に入る高級ホテルの正面入り口に着いた。

俺を待ち構えているのはただのベルボーイやポーターでは無く、マネージャークラスとおぼしきスーツマン。そのスーツマンに誘導され、特別階に行く人間しか乗ることの許されないエレべーターまで一直線に突き進む。エレベーターに乗り込んでロビーの方へ向き直ると、遙か向かい側からこちらに気付いて走り出す白いコート姿の女が見えた。

俺が心の中でバイバーイと元気よく手を振った瞬間扉が閉まり、女は俺の視界から消えた。


・・・・・


「展開に着いて行けません。」

一泊ウン十万のインペリアルスイートルームのリビングで、一体何の素材で出来ているのかすら分らないふかふかのソファに腰掛けながらジュンが頭を抱える。

俺は早速ルームサービスで注文したオードブルをつまみつつ、シャンパン片手に昨夜からの話をかいつまんで説明した。空腹のせいで酔いが回るのが早く、あの子犬君が妻帯者だと告げる時も不要な緊張をせずに済んだ。

ジュンは意外や意外、ずっと無表情のまま黙って聞いていた。そして最後に口を開き、意外な発言をした。

「そうだったんですね…。あの…あの人、私もどこかで会った事があるような気がするんです。でも、さっきは何が何やらで顔をはっきりと見たわけでは無いですし、私の気のせいかもしれませんけど…。」

それでどうしてこのホテルなのかと質問するジュンに、TVマンのコネでここの支配人に顔が利く事、このレベルの高級ホテルには政治家や芸能人用の秘密の出入り口がある事、明日はそこにタクシーを手配してもらえるように段取りした事を説明した。

「ジュン、お前、今夜はあの同居人の厳つい兄ちゃんの仕事が終わったら来てもらえ。俺は交代で帰るから、お前達で泊まっていいぞ。こんなところに泊まれるなんて一生に一度だろうから、二人で俺に感謝しつつ堪能するように。」

俺の言葉に、ジュンは困惑の表情を浮かべて言った。

「…言ってませんでしたっけ。」

「何を。」

「彼は消防士です。鬼塚さんはご存知でしょう?彼らは基本的に二十四時間勤務です。仕事が終わるのは、明日の朝です。」


・・・・・


ジュンを雇った時、正直に言って全く期待はしていなかった。

どうせすぐに逃げ出すだろうし、とにかくマネージャーを雇ったという事を周りにアピールできればそれでいいと思っていたからだ。マネージャーを探すにあたって、学歴や経験は一切問わなかった。出版業界やTV業界の事だって何も知らなくていい。結局のところ、合うヤツとは合うし、合わないヤツとは合わない。そして、大抵の女は俺とは合わないのだから。

しかしジュンは、特上の掘り出し物だった。

頭の回転が速く、機転が利き、ハードワークの際も不機嫌にならずよく働き、いつも小綺麗にしているので目の保養にもなる。あの幽霊女だという事を忘れるくらい、ジュンは優秀だった。

そして何より重宝したのは、作家としての俺と個人としての俺との線引きが上手かった点だ。

仕事に対してはあの手この手で尻を叩いてくるが、タバコを吸うなだの栄養のあるものを食べろだの規則正しい生活をしろだの、母親のような口やかましい事は一切言わない。

単なる仕事の関係者だというのにある程度親しくなった途端にそういう口出しをしてくる女、それも謎の上から目線で言ってくる女は案外多い。俺はそういうタイプの女が心底苦手なので、ジュンがそうで無い事は非常に有り難かった。

むしろ、毎日顔を合わせているというのに無関心過ぎるくらいなので、俺の方から聞いた事があるくらいだ。

「お前って、タバコ吸い過ぎとか絶対に言わないのな。」

するとジュンは、いつものクールな顔つきでこう答えた。

「吸わなければ書けないのでしょう?お好きなだけどうぞ。」

一見冷たいようにも思えるその距離感を好ましく感じつつも、その反面、それからしばらくの間タバコの本数が減っていた自分に気付き、随分と男を手のひらで転がすのが上手だなと苦笑した。

そして、ジュンを側に置き続けようと思った決め手があった。

あれは、俺が締め切り直前に煮詰まってジタバタともんどり打っていた時だった。ストレス発散にからかってやろうと思い、ちょっと俺をぶってみてくれと冗談半分で口にした直後、ジュンは一切の躊躇無しに俺のほおを三度ぶったのだ。

「これでいいですか?」

平然とそう言い放ったジュンに、確信した。

やっぱりこいつはどこか壊れてやがる、と。

そして、同じくどこか壊れているであろう俺は、そんなジュンに居心地の良さを覚えたのだ。

ややこしい関係にならずに済む人間をマネージャーにするつもりではあったが、あの時、俺は無意識下でこいつには手を出すまいと決心したのだと思う。






つづく

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