だけど願いはかなわない 第三話「鬼塚さん」
「嘘の話ばっかり書いてるから、人の心を失くしちゃったのよ。」
売れない小説家だった俺を支えてくれた最初の妻は、そう言って出ていった。
学生結婚と同時に小説家としてデビューをしたが、鳴かず飛ばずでくすぶっていた頃、ひょんな事から手がけたドラマの脚本が小当たりした。脚本家に転身後はあれよあれよと言う間に売れっ子になり、一つ屋根の下に住んでいるのに禄に口もきかない生活を数年送り、そうして妻が出て行った時、俺はいつも通り締め切りに追われていたので放置した。
一月後、手紙と一緒に離婚届が郵送されてきた。
『あとはあなたの名前を書いて役所に出すだけです、よろしくお願いします。』
俺はその離婚届にサインをして、返事を添えてポストに投函した。
『すまない、役所に行く暇が無いのでそちらで出しておいてくれ。』
嘘の話ばかり書いてるから人の心を失った?
そうだろうか?俺は自分で思う。もともと人の心が無いからこそ、嘘の話ばかり書けるのかもしれない、と。
付き合いの長い女に見放された俺の日常生活は益々乱れ、それと同時に性生活もだらしなさを極めた。何せ、女の方から次々寄ってくるのだ。TV業界という所は打ち上げだヒットの祝賀だ何だといちいち騒がしく、『売れっ子独身脚本家』の俺はアホみたいにモテた。
その中の一人、「妊娠した」と言ってきた女と、その日のうちに二度目の入籍をした。婚姻届のサインを見て、初めてその女のフルネームを知った。妊娠は嘘だったので直ぐに離婚した。
離婚した翌日の飲みの席で、「先生、騙されてかわいそう」と潤んだ瞳で言いながらテーブルの下で下半身を触ってくる女が居た。こいつは絶対にヤバイと思ったが、ど真ん中ストライクのエロい身体だったのでホイホイ引っかかった。次の日家にやってきてそのまま帰らなくなり、三番目の妻になった。
その三番目の妻との結婚生活の末期、今から約二年前、ジュンと出会った。
仕事を選ばずにガムシャラにやってきたのがひと段落し、ある程度好きな仕事を選択出来る地位と金銭を得ていた俺は、脚本の仕事を減らし、以前から興味があったコラムの執筆を始めた。これも向いていたらしく、すぐに連載を数本持つようになった。派手でやかましいTVマンを相手にするより、昔ながらのイヤミったらしい編集者達とやり取りをする方が自分の性にも合っていた。
三番目の妻は身体は良かったが気性の荒い面倒くさい女で、何度言っても仕事中の書斎に入ってくるので喧嘩が絶えず、この時期はよく飲食店で仕事をした。ワープアについての話題を取り扱っていた最中だったので、ついでにネタを拾えないかとハローワークの近くにあったカフェに通った。
そこで見かける常連客の一人に、やけに生気の無い顔をした美人が居た。まさか俺は昼間から幽霊でも見ているのかと、冗談半分で意識するようになった。その幽霊女がジュンだった。
ジュンはいつも青白い顔をして、今より更に細い身体で、常に虚ろな瞳をしていた。求職中なのか、しょっちゅう文庫本を片手に昼間のカフェに居座り、いつも決まって窓際のカウンター席で、どんなに空いていてもテーブル席は選ばない。観察しているうち、更に興味を惹かれた。
理由は、三つ。
一つは、読んでいる本のラインナップが若い女にしては少々特徴的だった事。一ノ瀬泰三『地雷を踏んだらサヨウナラ』、辺見庸『もの喰う人びと』、沢木耕太郎『深夜特急』、それからーーーーー 俺が売れない小説家だった頃に単行本化した数少ない本の一つ、東南アジアを放浪するバックパッカー達が主人公の短編集。身内以外の人間の手に取られているのを見たのは、それが初めてだった。
二つ目の理由は、横顔をよくよく見てみると、黙読中の口が常に動いていた事。わずかな動きではあるが、その様は発語はなされていないもののまるで本を読み上げているかの様だった。そう言えば、幼い頃はそんな子どもが周りに結構居たなと思い至り、おそらく二十代後半であろう彼女の外見とのアンバランスさが実に奇妙だった。
そして三つ目の理由、これが決定的だった。ジュンは店内で何が起きていようと、自分に無関係な事であれば全く反応しないのだ。店員がコップを割る音が店内に響こうと、奇声を上げる珍客が乱入しようと、大きめの虫が飛び回っていようと、手元の本から顔を上げないどころか眉一つ動かさない。かと言って、耳が聞こえないといった様子でも無く、水のおかわりを促す店員の声にはきちんと受け答えするのだった。相当、自分の世界に入り込んで読書しているのだろう。
そんなジュンの事を面白く思っていたある日、朝から激昂していた三番目の妻を振り切ってカフェに来た俺は、とうとう居場所を突き止められ、入店後しばらくして突入された。
その日の店内は珍しく混雑しており、いつもならテーブル席で仕事をしている俺はカウンターでジュンの隣の椅子に座っていた。
三番目の妻は一体何にそんなに腹を立てているのか、入店して俺を見付けるなり大泣きし、メニューだの自分のバックだのを手当たり次第に俺に投げつけた。その修羅場の隣でも、いつも通りの無表情で読書をするジュン。しかし、勢い余った三番目の妻が、カウンターに置いてあったジュンの予備の文庫本を手に取った瞬間ーーーーー。
ジュンの白い手が、物凄いスピードで三番目の妻の腕を掴んだ。まるで命や有り金全てを取られているかの様な必死の形相を浮かべ、爪が腕に食い込み、「痛い痛い!」という声もまるで聞こえない様子で、やがて血が滲み始めた。
ずっとあっけにとられていた店員がようやく近付いて来るのとほぼ同時、俺が「本を返すんだ!」と言うと文庫本が音を立てて床に落ち、ジュンはすぐさま腕を解放して一目散に文庫本を拾い上げ抱き抱えた。
その表情は、まるで目の前で事故に遭いかけた愛犬の無事を確認した飼い主の様な、思わず泣き出しそうな程の安堵と愛情に満ち溢れた、初めて見る幽霊女の人間らしい顔だった。
数日後、三番目の妻は男と暮らすと捨て台詞を吐き、金を持ってどこかに消えた。書斎に平和が戻った俺としては万々歳で、自宅で仕事が出来るようになったので自然とカフェからも足が遠のき、目の前の仕事に追われてジュンの事もすっかり忘れた。
三回目の離婚後、さすがに少し疲れたのか、しばらくして軽いスランプに陥った。女遊びに逃げていると、危機を感じたらしい複数の仕事の関係者からこう迫られた。
「先生にまず必要なのは、色恋や奥さんでは無くマネージャーです。」
実際に何人か紹介されて面接じみた事もしたが、どいつもこいつもお利口さんで、やる気に溢れていますと言わんばかりの顔をしているのが気に食わない。
毎日顔を合わせるのだ、もっと俺の興味を惹くような面白いヤツがいいに決まっている。
本を読むなら経歴は問わない。ただせっかくなら、性別は女。できれば美人。でも、ややこしい関係にならないで済むよう、俺に色目を使わないような女、そして他人に流されない女が良い。
そう思っていたある日、気分転換に出向いた繁華街の大きな本屋のレジ横、クリスマス商戦のために特設されていたラッピングコーナーで真っ赤なエプロンをして働いている幽霊女に再会した。
独特の落ち着いた雰囲気を放ってはいたが、次々とやってくる客達を手際よくさばきながら接客スマイルを浮かべるジュンは、一瞬あの幽霊女とは同一人物と気付かなかったくらい、随分人間らしくなっていた。
直感した、コイツだ。コイツは絶対面白い。
「おいアンタ!俺の元で働かないか?給料はここの倍出す。俺のケツをひっぱたいて文章を書かせてくれ!」
そう言ってジュンに迫り無理矢理名刺を握らせた俺は、周りにいた店員にガードマンを呼ばれ、店長から出禁を言い渡されて店外につまみ出された。
しかし翌日、ジュンは電話をかけてきたのだ。
「いただいた名刺には脚本家・コラムニストとありますけど、小説家の鬼塚先生ですよね?私の恋人が先生のファンなので存じております。」
・・・・・
そう、ジュンはあの時、恋人が居ると言っていた。そして俺の元で働き出してから同居人がいる事を知り、それがどうやら異性の様だったので、てっきりその恋人と同棲していると思っていたのだ。
しかし改めてジュンの口から語られた彼女の過去と事情は、実に複雑で、奇妙で、そして俺ですらうっすらと同情を禁じ得ないものだった。
ジュンには親戚同然に育った仲の良い男友達が居り、その男友達が現在の同居人という事だった。ジュンはその男友達の兄の方と恋仲で、実に仲睦まじい幸せな恋人同士だったらしい。
物心つくかどうかといった頃から抱いていた可愛らしい恋心は、ジュンが中学生の頃に両思いに変わった。そしてその恋愛は中学・高校という多感な時期を経てもなおそのままの熱量で続き、二人はやがて一緒に暮らすようになった。
恋人の趣味は一人旅で、リュック一つ背負ってふらりと国内外に出かけるようなタイプだったらしい。
ある日の事、ベトナムに旅立ち、ほんの数日で帰って来るはずだった恋人が帰宅せず、連絡が取れないまま五日、六日、一週間、一月、半年と経った。
彼の家族は日本とベトナムの警察に失踪届を出し、ジュン自身も現地や大使館に足を運んだ。両親が探偵を雇った事もあるらしいが、何せ海外、それも発展途上国という事で捜査は難航し、何の手がかりも得られなかった。
ジュンは、二人で暮らした家で彼を待った。彼の弟でもあるジュンの幼なじみは、ボロボロになっていくジュンを見かねてその家に引っ越してきた。一年経ち二年経ち三年経ち四年経ち五年経ち、それでもジュンは恋人を待った。
二十代前半から中盤、おそらく女性の外見が一番華やぎ、恋愛において楽しい事も沢山待っているであろうその時期に、ジュンはただただ待っていた。
彼女にとって、唯一無二の愛しい男(ひと)を。
だけど、願いは叶わない。
六年経ち、七年経った時、『不在者の生死が七年間明らかでないとき』という法律の一文に則って、恋人の失踪宣告が成された。
ジュンの恋人は、戸籍上死亡した。
「鬼塚さんに声をかけていただいたのは、それから半年程してからだったと思います。」
そう言うジュンの瞳は出会った頃の幽霊女のものだったが、直ぐに「これで私の話はお終いです、コーヒーでも飲みますか?」と、いつもの有能マネージャーの顔に戻った。
つづく
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