書くということ2(引用あり)

こんにちは。ご訪問ありがとうございます。

今回は少し雰囲気を変えて、若干なんちゃってブログ風に行ってみたいと思います。文体も少し硬茹でにしました。
内容は先日の投稿の続きです。

それでは早速!


先日の拙文「書くということ」についてボンヤリ(書かずに)考えていたところ、次のようなページに行きあたった。

「プログラム言語と抽象化」中田育男

さて先日の拙文では、(引くほどもない短文なのでここに書き直させていただく)書かれたものがあるのではなく、話されたものがあるのではなく、書きながら作られる、話されたものがあるのではなく、話しながら作られる、とそう書いたのだが、その明確な意図、意味としてまず、
・作ること(の内容)は文章の、つまり言語の構造に従う
・作ること(の内容)はすなわち言語の構造である
この二つが考えられた。
しかし考えを少し突き詰めると、我々は書きながらまた話しながら言語の構造を作って(変えて)いるわけではないので、そこで作っているものは新しい言語ではなく、言語というミディウムを使用した「他の」なにかだ、ということになり、否、「他の」なにか、ではなく、言語を使用して、作るということを作っているのだ、という、再びこの飛躍に、立ち戻ってしまう。のであるが。

ここで冒頭に引いたプログラミングの歴史の話に初めて触れるのだが、ちなみに筆者は全くの門外漢であり完全に無知であってプログラミングについては本当に何も知らない。
ということを大急ぎで断る必要をここに記しつつ、それでも読み進めて行くと、(以下引用)
「1980年のSmalltalk 80以来のオブジェクト指向言語(object‐oriented language)では,発想の転換をして,データが主体となり,手続きはデータ(オブジェクト)が持っているものとなった.」(引用終わり)
とある。
これである。
このページに登場するワード「手続き」「抽象化」「データ」は、どれも哲学に少しでも関心がある者であれば引っかかる単語のように筆者には思われるのだが、いかんせん異なる分野の専門用語であるので、意味が全く違うかもわからない。
それでも読み続けた結果、大きくは変わらないだろうと、つまり「手続き」とは手順であり、「抽象化」とは具体性の捨象であり、「データ」とは事実のことである、と仮に考えてみたわけである。
結果、この文章を読み終えるのに(大変な誤読かもしれないが)思ったほどの苦労はなかった。
そして先に引用した一文に、個人的にはとても“インスパイア”されたのである。

で、ここで筆者の先日の投稿の内容が少しでも明白になったのかというと、それはわからない。
そうあったらいいと願うほかはない。

お読みいただきありがとうございました。

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