3.11の1年後に福島で見たものは…

単なる感想文!と切り捨てられてデスク様からボツにされた5〜6年前の原稿。でも当時に見聞きしたものは伝え残したい(-人 -)


  コンビニの棚で〝ランチパック〟を見かけるたびに脳裏をよぎる事がある。福島島第一原子力発電所を訪ねた時、朝食にどうぞと東京電力社員から差し出されたからだ。これこそ目に見えぬ敵と対峙する彼らの朝食だったことが…。

  福島第一の爆発事故が起きた1年後、記者は現場を潜入取材した。津波や爆風の痕跡を目の当たりにしたのだが、テレビで何度も見かけていたので大きな衝撃は受けなかった。 それよりも、事故収束に当たる作業員の生活が気に掛かった。窓のない免震重要棟で1日を過ごすため、時間感覚が失われるという。 

 外出もできず、娯楽はない。食事が唯一の楽しみなのだが、朝はランチパックで昼と夜は仕出し弁当だと決まっていた。弁当は揚げ物中心になる。運動できる環境ではないので、カロリーオーバーを防ぐために揚げ物を残していると聞いた。 

 風呂もシャワーもない免震棟に週の半分は泊まり込む。数日だけでも気が滅入る生活だ。それを事故発生当初から1年以上続けている人が少なくなかった。

  もうひとつ、大きな衝撃を受けたことがあった。バスに乗って福島第一を出発し、作業拠点であるJビレッジに向かっている時だった。 ちょうど夕暮れ時に差し掛かり、山や田畑は夕日に照らされていた。風が吹き、田んぼが揺らいでいたのが見えた。

  東北支局で3年過ごしていた時、秋季に稲穂が風で揺られる〝黄金の海〟を何度も見かけた。Jビレッジに向かう車窓からの光景も〝黄金の海〟を彷彿させ、美しいなと感じた。

  その瞬間、言いようのない哀しみに締め付けられた。これは実りの秋を象徴する光景ではない。荒廃した田畑に雑草が伸び、それが夕日に照らされているに過ぎないと分かったからだ。 原発事故が周辺住民の生活を奪うだけではなく、周辺環境も破壊するのだと初めて実感した瞬間でもあった。 

 あれから2年が過ぎた。事故収束に当たる作業員の生活環境は改善されている。除染も少しずつだが進んでいるだろう。 しかし、1度荒れた田畑を元通りに戻すことは困難を極める。3年間も故郷を引き離されたことで帰還を諦めた人も少なくない。

  3.11から3年が経つ。原子炉からおびただしい放射性物質が放出される重大事故の影響が計り知れないことを、改めて胸に刻みたい。 

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