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人とアートの関係は「光と影」のようなもの

光があるところに影が生じるという。
 
なぜか宇宙というものが存在して、そこに自ら光や熱を発生する恒星という天体が生まれた。われわれにとって最も身近な恒星は太陽である。たぶん太陽の光や熱のお陰で地球上に生命が生まれた。われわれが物を見たり周囲の景色を眺めたりできるのも、太陽が発する光のお陰だ。
 
太古の人類が暮らしていた環境では、太陽が地平線の下に没すると、周囲は闇につつまれる。晴天であれば、星明かりがわずかな光源として役立ったかもしれない。もちろん月が出ていれば、月明かりは夜を照らす重要な光源になったことだろう。言うまでもないことだが、月が明るく見えるのも、月面で太陽光を反射しているからである。しかし、人類がそんな合理的な理屈を知ったのは、もっともっと先の時代のことだ。
 
やがて人類は「火」を「発明」し、他の生物とは明らかに異なる道を歩みはじめた。火を知る前の人類にとって、闇夜は恐怖感を与えるだけのものだったのか、あるいは他の感覚も持ち得ていたのかは知るよしもない。しかし、火を操ることを知った人類は、火という光に照らされることで影が生まれることを知り、影の存在を強く印象づけたのではないだろうか。
 
もちろん、昼の太陽に照らされることで影が生じることは知っていただろう。しかし、古代の人類が洞窟を住み処としていたことを考えると、洞窟の中を煌々と照らす火は、闇の中の「光と影」の対比を人類の心性に刻みつけたように思える。洞窟の壁面に描かれた「壁画」もその現れだったのではないだろうか。
 
洞窟を出た人類は、農耕を始め、文明を築いていった。文明化の過程においても、人類は自らの心性の証しとして、絵画などの芸術作品を残してきた。そのような芸術作品の対象としても「光と影」は大きなテーマだったように思う。印象派の画家が陽の下で描かれた「光」を主題とする絵画を描いた代表とすれば、レンブラントなどは闇や「影」を強調した画家の一人と言えるだろう。
 
テクノロジーの発達とともに写真や映画、さらにはCGやVRなどの手法を人類は駆使するようになったが、そこでも「光と影」は変ることのないテーマとしてあり続けているように思う。しかし、日常的にCGやVRに囲まれた現在、なにが現実であり、なにが現実ではないのか、あるいは、なにが真実であり、なにがウソであるのか、そのような難問に頭を悩ませている。
 
「光と影」について考えると、光によって影が生じるとすれば、光は現実や真実であり、影は非現実やウソであることになるのだろうか。因果関係で言えば光が先で影が後であったとしても、影が非現実でウソのような存在であるとは言えないだろう。影は明らかに存在している。むしろ影が存在することで光の存在が明らかになることもあるだろう。もちろん、光によって影が生じるからといって、光の方が影よりも価値があるとか、影によって光の存在が明らかになるのだから、影にこそ価値があるということではない。
 
さらにメタの視点から見れば、絵画や写真などの芸術やアートの作品は、現実や真実を描いたり写したりしたものではない。ちょうど「光と影」の光(影)があって影(光)があるように、芸術やアートとして表現されることで、むしろ現実(真実)がより明確になるということである。
 
つい先日「ヒューマニエンス」という科学番組の「アート」が主題になっていた回で、ピカソの「アートは私たちに真実を気づかせる嘘(ウソ)である」という言葉が紹介されていた。CGやVRが氾濫し、さらにはAIがアートを作る昨今、私たちは、私たちのアートから真実を読み取る力が、これまで以上に試されているように思う。


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