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good night dears

・真夜中3:34、お風呂に浸かりながらこれを書いている。近頃は夜が明けるのが早くて、4:30〜5:00くらいになると朝になっている。そのせいか、この短い夜が愛おしい。なるべく起きていたくなる。

・あなたは過去に戻れるとしたら、どの時点に戻りたいだろうか。人それぞれ、「ここかな」みたいなところはあると思う。ただ、僕は結局、考えれば考えるほど「今でいいや」となってしまう。

・時間を巻き戻したとしても、リプレイをかければその時点からまた流れていく。「戻りたい過去」みたいなものがある場合、高確率で「選択のやり直し」をしたいと思っていることが多い。僕の場合は「もしバンドをやらなかったら」とか「あのタイミングであんなこと言わなかったら」とか。戻ってみたい時点には、何かしらの分岐点がその近くにある。

・ただ、分岐点にいざ再び立つことを考えると、とんでもなく後悔しそうな気持ちになるのだ。既に知っている未来、そこで得たものをすべて捨て去ることになるからだ。出会うはずだった人や起こるはずだった嬉しい出来事、その全てが無かったことになる。この日記だって、きっと書くこともないだろうし、そもそも読んでいるあなたは僕のことを知ることもなく、僕自身、今現在周りにいる誰とも、接点を持たない暮らしをしているかもしれない。それがなんだかとても恐ろしい。

・これに加えて、過去に戻るということは必然的に「ここに至るまでの数年をやり直す」というタスクが発生する。それ込みで戻りたい!みたいな気持ちがないわけでは無いが、今更学生時代に戻って興味のない授業を聞いたり、気の合わない同世代とリプレイの学生時代を過ごすことを思うと、非常にめんどくさい。そう、思い返せば、過去にだって面倒なことや避けたかったことは割と沢山あるのだ。多分戻った時点ですら「戻りてえ」とかぼやいているかもしれない。下手すると未来へ。「あれが最適解だったのかも」とか。

・「もうこうなったら産まれ直したいかも」と思ったことは多々ある。たしかにそうだ。俺が他人だったら良かったのかも!みたいな。ただ、ここまで来るとこれはもはや来世への期待にした方がいい気がする。いずれは死という避けられないゲームオーバーが来るわけで(なんか死なない未来とか来そうな気配もあるけど)、ここまで考えられる頭があるなら、多分時間を遡行したところで今度は気にならなかったことが気になってしまうだろうし。

・そもそも過去の自分の取った行動が「結果として間違っていた」と観測した時点で、それは現在に於ける結論であって、「結論の出し方が違った未来」も、存在したのかもしれない。モノの見方、過去の自分に責任を押し付ける前に、現在の自分の視野とか考え方に問題があるかもしれない。拡張性は過去よりも未来にあるのは明白。変えられないものは眺めるだけにして、今何をどう思うのか、どうしたいのか、みたいなことが一番重要だと思う。

・その上で「めっちゃ過去に戻りたいです!」となるなら、それはそれで良いと思う。多分「一番輝いていた瞬間」みたいな、お気に入りを知っているということだから。ただ、忘れてはいけないことがある。これを望んでしまうということは「他人の変化を受け入れられなかった」という事実は、理解しなくてはいけないということだ。たとえば、「2010年に記憶を持ったまま戻る」ということは、「2022年までの12年間の他人や環境の変化を受け入れられない」ということにも言い換えられる。今現在11歳の子がいたら、その子が生まれたことすら否定することになる。

・意地の悪い書き方になってしまった。結局、時間を遡行することというのは、どう取っても「身勝手」に他ならないのだ。そして、身勝手に戻った先で自分の行いを省みて動いたとしても、周りの他人が期待通りに動くとは限らない。仮に同じことをしても、他人が同じように動くとも限らない。未来というのはいつも不確定で、「やり直し」なんて、そんなにうまくいくわけがないはずだ。遅刻をするとか、財布を忘れるとか、予定をすっぽかすとか。僕らは過去に戻らずとも、あやまちを活かしきれていないことが多い。こんなものなのだ。こんな僕らが、過去に戻ったところで、うまくやれるわけがない。多分。

・以上のようなことに更に個人的な面倒事等を加味していくと、僕は過去に戻ることを考えること自体が面倒になる。気付くとスケジュールアプリを開き、未来の予定を確認したりする。直近の予定から、白紙の月まで。スクロールした先には2023、2024、2025、と続いていく。その度に35歳、36歳、37歳の自分を思ったりする。「このスケジュールもいずれ未来の自分が埋めるのか」と。これが何処かで途切れてしまうことに悲しみとおそろしさを、少しだけ覚えながら。

・なんやかんや、生き抜いてきての現在なのだ。なんか全然美しくないかもしれない。面白くないかもしれない。だから一体なんなんだと。じゃあなんだ、ここまで読んでおいて、俺の文章も「駄作!」で終わらすというのか。(別にそう思われるなら仕方ないけどかなしい)

・ここまで書いておいて、僕自身もまた「未来は輝いている!」なんて言う気はさらさらない。正直不安しかない。個人レベルではなく、世界に対しての不安だ。自分がどうとか、そういう次元で片付けられない大変なことから、目を背け続けているような気がしてならないのだ。それでも、子供たちの遊ぶ声を聞くとなにか使命感のようなものを感じるし、自分の選んできたものとか、それを示し続けてくれた先人たちのことを思うと、この時間を何処かへ、まだ見ぬ誰かへと繋いでいきたいな、と思う。自分が自然とそうして導かれて生きてきたように。

・ただ、ありのままを直視し続けていくのはしんどい。今まさに俺のiPhoneが鬼束ちひろの「月光」を流していて、「この腐敗した世界に堕とされた」なんて言葉が浴室に響いている。2000年にリリースされたこの曲、22年後の東京都郊外のマンションの浴室で、高らかに鳴り、30代男性の心に改めて突き刺さっている。実に22年の時を越えた感動、というやつだ。(たしかリリースの2年後くらい、中学生の頃にCDは買っていた)

・鬼束ちひろの「月光」という曲は、「TRICK」というドラマの主題歌だった。「ケイゾク」「SPEC」等でも知られる、堤幸彦監督のドラマだ。僕はこの「TRICK」という作品が本当に好きで、後々、堤監督の作風に惹かれていく。勿論今でも僕は彼の大ファンだ。彼の作品見たさにParaviだって契約していたし。…まあそれは置いておいて、学生時代、僕はこの堤監督のドラマシリーズのノベライズ版を、朝読書の時間に好んで読んでいた。中学生までは「不要物」として漫画やCDは学校に持ち込めなかった中、ドラマのノベライズ版小説というのは、割と抜け穴だった。あとはトリビアの泉の「へぇの本」とか。(この辺同世代に刺さってくれたらうれしいな)

・朝読書のノベライズドラマのTRICKを読み進めるとき、僕の頭の中には、鬼束ちひろの月光が流れていた。insomniaというアルバムに収録されていたので、他の曲が聴きたかったこともあって、それを買ったのを覚えている。ちなみに、ヨルニトケルの最初期に「insomnia」という曲があるが、これは紛れもなくこのアルバムタイトルからの引用だったりする。

・鬼束ちひろのCDは他にもいくつか買っていた。今Apple Musicで確認したところ、2003年リリースのSugar Highまでは買っていたっけ。その後に出たベストとかも持っていた。この時代は、今ほど音楽を聴くには便利ではなくて、「CDの貸し借り」なんてのが頻繁に起こっていた。これはコミュニケーションにもなっていたし、僕は他人より多くの音楽を聴くことで、それを薦めたり、共有出来るようになっていった。その延長が、現在に他ならない。バンドメンバーとは中学や高校で、好きな音楽を共有し「いつか東京でバンドとかやりてえなあ」と語っていたのは、言うまでもない。

・鬼束ちひろの話に戻ると、不思議と彼女の音楽について語れる友人は少なかった。当時はテレビも沢山出ていたから、皆存在は知っていたと思う。それでも、語れる友人が現れたのは高校に入ってからだった。これ、今思えば青森ナイズされた感覚なのかもしれない。関東圏ならもっと音楽へのアンテナの感度が高い人が多くて、深夜の番組とかも面白かったんだろうな…(こういうときは純粋にうらやましくなる)

・しかしながら、「自分しか知らない素敵な音楽」という立ち位置になるものを持っていたのは、嬉しく誇らしくもあった。青森の片田舎、中学生の狭い世界での話にはなるが、自由に選べるものがまだ少なかった中、こういった音楽との出会いは、「自分」という存在を固めるのには充分過ぎる衝撃だった。実際、20年近く経った今でも刺さっているわけだし。鬼束ちひろ。

・時刻は4:53、文字数は3700字に差しかかろうとしている。1時間20分もの間、僕は浴槽にて、過去に戻ることと、鬼束ちひろに想いを馳せていたわけだ。僕のこの時間は、文字で私見を記録することで、「日記」として形を成し、保存される。この日記は多分、朝7:00とかに予約投稿するだろうから、これを読んでいるあなたは、もっと未来の時間で、この僕の「時間」に触れていることだろう。

・あなたがこの日記を読む時、これを書いた僕はもういない。眠っているかもしれない。ちなみに今日はライブだから、ちょうどステージに経っているかもしれない。もしくはそれを終えて家でゴロゴロしているかもしれない。または、もっと未来で、何日も何ヶ月も何年も経った先で、出会っているかもしれない。

・ここでちょうど4000字。この文量を読むとなると、最低5分くらいはかかるんじゃなかろうか。さて、ここでまたあなたに問いたい。この日記を読む前に戻りたいだろうか?戻れたとして、あなたは何をするだろうか?その結果、変わるものはなんだろうか?

・5分、最寄りのコンビニへいく、皿を洗う、トイレに行く、タバコを吸う…簡単に思いつくのはそのくらいか。まあなんにせよ、過ごしてしまったからには戻りはしない。ただ、何も得なかったわけでもないはずだ。僕は「鬼束ちひろの月光」という楽曲を題材として、あなたの知り得ないはずの、僕の過去を語ってみせた。時期としては2002〜2006年くらいまでのこと。

・もうおわかりのことだと思う。音楽をはじめとした小説、漫画、映画、ドラマ、絵画、写真、そういったものを媒介とすることで、僕らは過去を垣間見ることが出来る。あの頃のCDやMDはもう手元にはないけれど、Apple Musicは2002年の鬼束ちひろの歌声を、これを録音した当時の音を、2022年の浴室に鳴らしている。あなたのお気に入りはなんだろうか。ここでは例として音楽を出したが、別にそれに限った話ではない。素敵な過去へトリップ出来る何かが、きっとあるはずだ。

・記憶は嘘に似ている。必ずどこかにほころびがあって、当時のリアタイで思ったことよりも、一番強い感情がブーストされた状態で、保存されている。結局、戻ることもなければ、再現されることもないのだ。過去なんてものは。ここにない。それだけは変わらない。だから、眺めるくらいがちょうど良いのだと思う。

・「思い出の一曲」なんて特集、たまにテレビで見かけたりする。ただ、世代等で括った、ある年代ならあてはまるような「当時のヒットソング」を、自分の過去と照らし合わせるのは、それを媒介に語るのは、あまり好みではない。それでも、各々のこころの中に、その時代の節目毎の何かあるはずなのだ。もしも、あなたがその、ある時点の過去に飛びたくなったら、それを媒介として、目を閉じて、思い出してみるといい。過去はもうここにはない。ここにはないから、触れることはできない。だからこそ、いくら思い返そうと自由だ。元々ここにないのだから、あなたが思い返せる限り、消えることはない。誰にも邪魔はされない。美しくも、醜くも、そのすべて、何を思おうと、あなたの自由だ。

・その目がまた開かれるとき、目を閉じていた時間のことを思い返して欲しい。過去をどれだけ思っていても、時間は進んでいたという事実を、受け入れて欲しい。僕たちはこの目に映るものしか覚えていられない。この手で触れて、この耳で聞いたことしか、記憶に残らない。それ以外のものは、無いのと変わらない。確かに何処かにあったとしても、その時点では、無いのと変わらない。知らないことは、存在しないこと。

・時刻は5:18、文字数は5200字に差しかかる。流石に書きすぎた気がする。この日記も、消すまでは残り続ける。ここまで読んでくれたあなたは、いつ、この日記に触れるのだろう。これを書いた瞬間の僕は、それを知ることは出来ない。このあと僕は眠って、起きたらライブ会場に向かう。なんとなく、眠ってしまうと、別人になってしまうと思うのだ。いつも。記憶は引き継いでいるし、形も変わらないけれど。なんだか少し寂しい気持ちになってしまう。こんな感情さえ残しておけるから、日記というのは良いものだなあと思う。

・5:22、だいぶぬるくなった浴槽にて、今回の日記を書き終えることとする。人によってはもう起きる時間。あなたが眠っていた夜を見守っていた者として、その時間が確実にあったことを証明する記録として、この日記が何かしらの意味を持ったなら嬉しい。それではおやすみなさい。さようなら。またいつかの夜に。

fusetatsuaki

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