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帰省(2)

「浦西だから」
窓の向こうに空いっぱいの雨雲が広がっているのを覗きながら、そう母親がつぶやいた。朝は太陽が差し込んでいて、からりとした秋晴れの空のはずだった。ものの数時間でこうも天気が変わるとは。今朝スマホで確認した天気予報では、一日中晴れのはずだったのに。

ここ、京都府北部に位置する丹後地方では、丹後半島の近海を通る風の影響で、秋から冬にかけて気候が不安定になる。この不安定な天気のことを「浦西(うらにし)」と呼ぶらしい。穏やかな陽気が差し込んでいたと思いきや、突然土砂降りの雨が降り始める。そうかと思えば、あっという間に雨が上がり、また晴れ間がのぞく。移り気な天気の下で暮らす、ここ丹後の人々の間では「弁当忘れても、傘忘れるな」と言い継がれているらしい。

そういえば、どんなに晴れていても、一度雲行きが怪しくなると足早に外に干していた洗濯物を取り入れていた母の姿が思い起こされる。時折、諦めるような口調で「うらにしだから」とつぶやく言葉の意味を知ったのは、私が実家を出てからのことだった。

スマホにはいくつかの天気予報のアプリが入っている。予報通りの天気を過ごすことをほとんど当然と思っていた身には、久しぶりの「大外れ」が思いのほかにショックだった。
予想通りにならなかったことにこんなに驚いたのは、予想通りになっていた日々に慣れすぎていたからだ。天気予報を調べれば、一ヶ月先の天気まで見ることができる。それが日々修正されているとしても、結果として予報は大きく外れることはない。時刻表を調べれば、寸分違わぬ時間に、電車がやってくる。


帰省して驚いたことが一つある。
それは、父と母が一日の計画をその日に立てることだ。父も母も還暦を過ぎていて、仕事に使っている時間はわずかだ。一日の大半の時間を自由に使えるのだから、その日にやることを決めたってもちろん問題はない。
それでも、思いつきのように行き先を決めたり、やっぱり行かないと言ってやめてしまう父母の姿に最初は面食らった。おいおい、こっちは行くつもりになって心積もりをしていたんだぞ、と思う。夫とはカレンダーのアプリでスケジュールを共有している。数ヶ月先まで互いのスケジュールは一目瞭然で、たまに「家族で過ごす日」として予定している日を何日も前から楽しみにして過ごしている。もしも夫がコロコロとスケジュールを変えていたら、途方に暮れてしまうだろう。


ある日、家族で昼食を終えた昼下がり、子どもを寝かしつけようと寝室で横になっていた。娘は先ほどまで「ねんね」と言っていたのに、目はぱっちりと開いていて少しも眠そうではない。終いには「あっちいこう」と催促してくる。今寝てくれると助かるのに、と思いながら横になり続けていると、起き上がった娘が私を思い切り叩き、髪の毛を引っ張った。娘なりの必死の意思表示だ。仕方なく起き上がり、キッチンに移動する。それでも娘の機嫌は良くならず、泣き喚いている。
娘の泣き声を聞いた父と母がやってきた。申し合わせたように「ドライブに連れて行こうか」と言ってくれる。娘の泣き声に私も感情がたかぶっていた。ありがたい申し出に「いいの?」とそっけない返事しかできない。「ゆっくりしてね」という言葉を残し、あっという間に父母は娘を連れて外に出た。表から車が走り去る音が聞こえる。


子どもはなんて、思い通りにいかない存在だろう。そんな相手にこちらのスケジュールを押し付けるなんて馬鹿な話だ。それでもその馬鹿をたびたびやってしまう。子どもと接する時間と、そうじゃない時間をきっちり分けてはスケジュールを詰め込み、身動きを取れなくしてしまう。

天ぷら料理をしている最中に油がないことに気付き、その場でスーパーに買いに行く母を見て、ちゃんと確認すればよかったのに、時間の無駄じゃんと思っていた。でも、子育ても同じようなものかもしれない。どんなに計画していたとしても、計画通りにはならないことがほとんど。その場で油を買いに行くか、それとも別な料理にするのかを決めなくてはならない。料理を放棄するわけにはいかない。
泣いている孫を見て、すぐにドライブに連れて行った父母のことを思いながら、もう少し、自分のスケジュールを手放してもいいのかもしれない、と思った。
予報の外れる未来よりも、今に向き合うことの方がもっと大事なのだから。

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