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【第一夜】ヴォルテール著『寛容論』

 『百夜百冊』の記念すべき第一夜はヴォルテール著、中川信訳『寛容論』(中公文庫、2011年)を取り上げたい。当初、第一夜には別の本を紹介するつもりでいたのだが、この本が『百夜百冊』を書くきっかけとなった中島大希さんからいただいた本だったので第一夜に持ってくることとした。

著者のヴォルテール(1694~1778)は18世紀のフランス出身の哲学者である。英国、プロイセン、スイスを拠点に活動し、「百科全書派」の啓蒙思想家として知られる。「私はあなたの意見に反対である。だが、あなたがそれを主張する権利を命をかけて守る」(Je ne suis pas d’accord avec ce que vous dites, mais je défendrai jusqu’à la mort votre droit de le dire.)という名言で知られる。(ただし、正確に検証するとヴォルテールの言葉ではないとされる)。

『寛容論』は1761年フランス南部トゥールーズで起きた新教徒に対する冤罪事件(カラス事件)を契機に執筆され、1763年にジュネーヴで刊行された。本書を通じてヴォルテールは、カトリックに改宗した息子を殺害したとして処刑されたジャン・カラスの無罪を訴えるとともに、古今東西の宗教的な不寛容と寛容の事例を紹介し、宗教的寛容の重要性を説いている。

本書を読むうえで注意すべき点は、ヴォルテールは単にカトリックの狂信や新教徒迫害という宗教的不寛容のみを批判しているわけではなく、新教徒の狂信や諸宗派間の対立の不毛さを批判したうえで宗教的寛容の重要性を強調している点である。本書におけるヴォルテールの主張を一言でまとめてしまえば、「自分にしてほしくないことは、他人にしてはならない」ということになろう。

ヴォルテールはこの『寛容論』を通じて啓蒙思想家としての名声を高め、その精神は彼の死後の「寛容令」とフランス革命に際しての「フランス人権宣言」で結実した。(その功績もあって、ヴォルテールはパリのパンテオンに埋葬されている)。自由民主主義国家における憲法においては例外なく「信教の自由」が保障されるに至っている。

これだけ「寛容」について説いたヴォルテールではあるが、現在の研究ではヴォルテールには「反ユダヤ主義者」としての側面があったことも指摘されている。この事実からわかるのは、他者に対して「寛容」を説き、自らも「寛容でありたい」と願い、そのように振る舞っていたとしても、一人の人間の中には「寛容」と「不寛容」が共存しており、時に「不寛容」な部分が姿を見せることもあるということである。

先日、安倍晋三内閣総理大臣が辞任を表明した際に、立憲民主党に所属する石垣のりこ衆議院議員が「大事な時に体を壊す癖がある危機管理能力がない人物」と評したことが問題となった。立憲民主党は党の方針として「寛容」や「多様性」を重視する政党であったはずだが、その政党の所属議員が難病の患者に対して、主に政治的スタンスが異なることが動機となって「不寛容さ」を発揮してしまったのである。この事例もまた、一人の人間の中に「寛容」と「不寛容」が共存していることを証明してしまったのである。

石垣氏の筆禍(Twitterでの発言であるから「舌禍」と言い換えてもよい)においては、石垣氏に対して同情的な、従来はどちらかというと「寛容」や「多様性」を容認する人たちの一部が「不寛容」な姿勢を取る一方で、彼女に対して批判的な、従来はどちらかというと「寛容」や「多様性」を容認しない人たちが「寛容」な姿勢を取るという現象が見られた。

石垣氏がリベラル系政党に所属していることから、元々この政党や政治的スタンスに嫌悪感を持ついわゆる「保守」の立ち位置に属する人たちが、彼らなりの「寛容」の精神から石垣氏を「不寛容」と断罪したのである。常日頃、特定の国やその国民、民族に対して、また自らの政治的立場と異なる人たちに対して罵詈雑言を浴びせる、客観的に考えると「不寛容」な人々にも「寛容さ」が備わっている、あるいは意図的に「寛容を装っている」ことが見て取れた瞬間であった。

人間が不完全な存在であることを考えると、人間にそもそも「不寛容さ」が備わっていることや、意図的に「寛容を装う」ことがあるのは致し方ないことであろう。自分自身を振り返っても、「寛容」と「不寛容」が共存し、意図的に「寛容さを装っている」と思えることが少なからずある。重要なのは、人間には「不寛容さ」が備わっており、時として意図的に「寛容を装う」ことがあるという事実を予め認識しておくことである。そして、「不寛容さ」が姿を見せてしまった時、あるいは意図的に「寛容を装って」しまった時に自制をする力を持つことと、それを指摘してくれる人間の存在を認めることであろう。

関連書籍
①遠藤周作著『沈黙』(新潮文庫、1981年)
②カーラ・パワー著、秋山淑子訳『コーランには本当は何が書かれていたのか?』(文藝春秋、2015年)


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