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小林秀雄『読書について』

小林秀雄の書く文章を、こんなふうに舐めつくすように読んだのは高校生の時以来だ。大学受験予備校の現代文の講師から、新聞の社説と小林秀雄の評論文を読むといいと言われたことがきっかけだった。

新聞の社説はいくつ読んでも退屈でピンとこなかった。

小林秀雄の評論は、市の図書館にある全集の中からいくつか読んだ。どれを読んだのかもう覚えていないけれど、難しいと感じたし、正直よくわからなかった。でも、退屈ではなかった。

きっとこれはとても良い文章で、何か世界についての大切なことが書かれているのだろうという予感があって、少し緊張しながらじっくり読み進めたのを覚えている。


今回読んだのは、読書についての評論ばかりを集めた一冊。初出は一番古いもので昭和7年、新しいもので昭和48年。

新聞や雑誌に掲載された一般読者向けの文章ばかりということもあって、比較的読みやすいものが多かった。私自身の読解力が高校生の頃にくらべれば上がっているという理由もあるかもしれない。

読むことと書くことについて深く考えさせてくれる本。

当時の常軌を外れた知識欲とか好奇心とかは、到底一つの本を読み了(おわ)ってから他の本を開くという様な悠長な事を許さなかったのである。
読書の最初の技術は、どれこれの別なく貪る様に読む事で養われる他はない

濫読のすすめ。先日読んだ東大読書でも同時読みは推奨されていたし、知識を身につけるという点から考えると、とにかく読んで読んで読みまくる時期というのは人生に必要なのだろう。「文は人なり」を体感するためには、一流作家の全集を読むと良いとのこと。

大部分の小説読者は、耳を塞いで冒険談を読む子供と少しも変らぬ読書技術で小説に対している。

我を忘れる現実逃避のためだけの読書を戒めている。そのような読書は将来的に他の娯楽にとって代わられてしまうから。実際、いまはそういう社会になってしまっている。

物語を楽しむだけなら、漫画・映画・ドラマ・アニメなど選択肢がいろいろあるし、そちらの選択肢のほうが簡単に楽しめて視覚的な刺激も強い。

最近では朝読書の時間がもうけられている学校が増えているようだが、子どもたちが好んで読むのは漫画や映画のノベライズ本が多いらしい。つまり、わざわざ小説という形である必要がない、漫画など別の媒体に簡単にとって代わられる、というより別の媒体でのほうがより楽しめる内容の小説が増えているということだ。

仕事の休憩時間、「本読んでると時間があっという間に過ぎるなぁ」と言っている人がいたので嬉しくなって「わかるー」と言いながら読んでいるものを覗き込んだら漫画で、少しがっかりした。

別に漫画がダメなわけではない。漫画だって本だし、世界に誇れる日本の文化だ。でも、言葉の使い方として何かが違うような、違和感を持ってしまう。


なぜ創作(小説を書くこと)ではなく、批評を書き始めたのかという質問に対する答えがおもしろい。

自分の言い度(た)い事が批評の形式を自然ととったのだ
批評と創作とどちらをやったらいいかを決定するものは、言い度い言葉がどちらの形式をとって流れ出すか、まず言い度い事を言ってみる外(ほか)はない。

青春時代の濫読を経て、自分の言いたいことを形にしようとしたとき、それは小説ではなく批評の形になったということ。


文章の随所に哲学的な要素が散りばめられている。小林秀雄という人はかなり哲学の素養がある人なのだろうと思いながら読み進めていたら、最後に収録されていたのが田中美知太郎という哲学者との対談だったので、あぁやっぱりなと思った。

哲学を少しかじった程度の私でも分かるくらいに、哲学の香りがする文章だった。

私はプラトンとアリストテレスくらいしかまともに勉強していない。しかも勉強した時点では抽象的な概念が多すぎて、しっかり理解できたとは言い難い。でも、時間をおいてまったく異なる本の中でその思想に触れると、すぐに分かる。知っている、と思う。もっといろいろな思想を勉強して、”知っている”という感覚を増やしていけたらいいと思う。

海外の学問だけではなくて、国内の、たとえば江戸時代に流行した儒学についても興味が湧いた。伊藤仁斎とか、荻生徂徠とか。

まだまだ知らないことがたくさんある。本を読めば読むほど「知らない」ということを知るので、どんどん知りたいことが増えていく。知りたいと思ったことを知り尽くすことは、自分の人生の残り時間ではもう無理だろう。

もっと早くスタートを切っていればという後悔もなくはないが、結果は大して変わらない気もする。早くスタートすればその分だけ、多くの「知らないこと」や「知りたいこと」が増えて、やっぱり一生のうちに手に負える量ではないだろう。

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