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何を受け継いでいきたいのか

考えるに至った2つの実体験をまず共有。

高校の授業を見学した際、高校生と「進路は決まってるの?」という会話をした。
「決まってない。自分は良い大学に行けないと思うから、進学する気もないけど、働く気もない。何も考えていない。」
「どうして、良い大学に行けないと思うの?」
「お母さんがそう言ってたから。お前は馬鹿だからって。」

新卒入社した会社の新人研修。自分の配属先は営業だったが、当日は工場実習。着替えて現場に向かう途中、現場で働く社員だと思われる人に話しかけられる。
「おう、お前見ない顔だな。新人か?」
「はい!そうです!これからよろしくお願いします!」
「勿体無いな、お前。こんな会社に入って。この会社、ブラックだぜ。」

この2つに共通して私が思う事は、〝お母さん“と“現場の先輩“はそんなことを言って何の得があるのだろうかということだ。不快感と憤りを感じる。

考えなしに本音を吐露しただけかもしれないし、受け取り方の問題だったかもしれない。ただ、前途ある者に対して吐く言葉だったのだろうか。同じ共同体の一員だと考えた時に、対象の自己肯定感を低めること、不安や疑心を煽ることに総合的に何の得があるのだろうか。

そりゃあ、本音を吐露したい時もあろう。人間だもの。ただ、時と対象と対照の今後の自分との関係性、対象の持つ可能性を考えて自らの行動を選択したい者である。

世界をどのように捉えるかは、観測者が決める者であり、不当に歪めたり、可能性を奪うことはあってなはならない。いわんや、無意識に実行しているのだとしたら、なお、タチが悪い。

良いものだけを引き継いでいければ、世界はもう少し平和である。自分がどうしたいのかも重要だが、世界に何を引き継いでいきたいのか。