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「ナラティブ」とは何か

「ナラティブ」最近気になる言葉である。
社会構成主義の考え方が好きで、それを理論背景としているナラティブは今の時代に必要なものだと直感的に感じている。ただ、「ナラティブ」という言葉自体を捉えることがなかなか難しい。そこで、以下の書籍の文言に出会った。今のところ、一番しっくり来ている。

ナラティブは〚「語り」を通じた意味構成〛そのものを指し、「始まり」も「終わり」もない。そして、「語り」とは「対話」を通じて生じます。
この場合、「対話」とは、ひととひとの間でおこなわれるものだけではなく、そのひとの中で生じる「内的対話」も含みます。「内的対話」や「外的対話」を通じてその意味構成が協同作成され続け、協同作成のプロセスが意味構成を更新し続けるものが「ナラティブ」です。
「ナラティブ」のいわば「永久更新運動」をある時点で便宜的に停止したものと仮定して、そこに「始まり」と「終わり」という概念を持ち込むことによって語り変えられたものが「ストーリー」となります。そして、そんなふうにして、「ストーリー」を語ることそのものが「ナラティブ」にとっては既に「対話」であり、語ることそのものが意味構成こうしんの材料となって、「ナラティブ」自体の協同作成は進行し続けます。

なんとなく、「ストーリー」と「ナラティブ」の境界が世間では曖昧な気がしていた。また、現代の使われ方として「主観的なアプローチ」として、引用されている場面が多いようにも感じる。

昨今、主観的なことは思い込みや偏見が入り混じり、客観的なことが科学的なことであり望ましいことであるといった風潮も感じている。ただ、科学的であるとは、再現性があることではないか。そして、再現性とは、誰がいつどのような状況で実施しても同じ結果が出ることである。以下ポッドキャストからの引用。大変共感している。

実験の話。同じコインの裏側。もっというと、再現可能なことを科学とする。だれが実験しても同じ結果が出る、どこで実験しても同じ結果が出る、どのタイミングでやっても同じ結果が出るという再現可能性、こそが、科学であると定義したせいで、逆に言えば、今の物理っていうのは社会科学ではない方向にいこういこうという風に世界を拡げていっているという考え方がある。どういうことかっていうと、再現可能性をめちゃめちゃ求めるとどうなるかというと、一般性を持たせるようになるのね。例えば、簡単な例としては、ある気圧下である温度にしたら、例えば固体になる液体になるとかやったじゃん。気圧と温度との関係性とかで。2つの変数を指定して、気圧と温度って言ってるんだけど。例えば、気圧が枯れない世の中にいたとするじゃん。ということは、気圧に依存しない現象しか再現性が無い、観測できないから。もっと一般的に言うと温度だけで決まるやつだけを科学としようとなるわけ。だから今物理学とか科学だって言われているものって、極めて一般的に起こる事象だけしか物理としないとしてるだけになるわけ。本来は全てを対象と出来るはずなのに、今のメソッドで言うと対象が絞られてしまう。あくまで物理の哲学における理解が包括的でいない、単なる学者の限界値なだけで、境界線はまだまだわからない。

では、キャリアはどうか。人生にある出来事にどれだけ私たちは再現性を求められるのだろうか。

予測不可能なこと、起きた出来事に適応しなくてはいけないことの方が多いのではないか。そういった意味で、改めてナラティブについて検討する余地が十分にあると思う。