子供は1人です。それがなにか?
誰にだって、そこを踏まれると即座に爆発する地雷みたいな言葉が、一つはあると思う。
二人目は? 早く産んだ方がいいよ。
私はこれを言われると、爆発する。
相手が誰であろうと「うるさい! 黙れ!」と心で叫んで、できることなら即座にそのひととは縁を切る。
大抵そういう発言をするのは年配の女性で、たしかにむかしはそういう価値観だったんですよね、あなたのために言ってあげてるってかんじで悪気なんてないんですよね、と相手の立場に立って発言の意図を考えよう……という理性的思考をすべて焼き払うくらいの苛烈な業火が私を包む。
そのくらい、我慢ならない。
私には子供が1人いる。
二人目は望んではいるけど、いない。
二人目不妊というものになるらしい。
もともと体が丈夫ではないほうだった私は、出産で見事に体調を崩した。
出口の見えないトンネルみたいな日々を過ごし、でもいつかトンネルは抜けるし、また子供を授かるものと思っていたけれど、いまだトンネルの終わりは見えず、子供はこない。
期待とガッカリを何度も、何度も、何度も、繰り返して、なんかもう悟りの境地を開きかけちゃってるかも、なんて平常心気取ってるところに、件の一言である。
ちょっと前まで釈迦の気分であったのに、カッと般若が顔を出す。
こんなことを言うと
「あなただけがつらいんじゃないのに、不幸ぶっちゃって嫌ね」
「デリケートすぎるんじゃない?」
という声が出そうだが、地雷は地雷なのだ。
私にはどうしようもできない。
まして親戚のおばちゃんに言われるならある程度の防御もとれるのだが、これが道を歩いていて急に言われたりするもんだから厄介なのだ。
こんなパターンもある。
まだ乳児のころの我が子を連れてスーパーを歩いていたら、人の良さそうな女性が「あら~可愛いわね」などと言って近づいて来るやいなや、「母乳なの?」と問いただしてきた。
『母乳奉行』である。
その瞬間スーパーにいたはずの私は急にお白洲に引っ立てられて「あなたの育児は、母乳か否か」と裁きを受けるはめになるのだ。「ぼ、母乳です」と答えると無事に無罪放免されるが、「ミルクです」と言った日にはどこに投獄されるか知れない。
子供が1人だからといって、ミルクで育てているからといって、たしなめられたり、裁かれたりする。
こんな不条理、あっていいんですか?
でも、一方で思うこともある。
もしも私がとっても健康で、すんなり二人目の子供をもっていたら、『いまの私みたいなひと』に思いをはせられただろうか。
できなかったかも、って。
以前の職場にいた男性のことだ。
彼は同僚に「子供もう一人つくらないの?」と言われ(いま思うとこの発言もどうかと思う)、
「いやぁ、妻が出産の時すごい貧血になったのがつらかったらしくて、もう一人産むのは無理って言ってて」
と返していた。
近くで聞いていた私は
「奥様、体が弱いんだな。でも貧血程度で? 子供好きじゃないのかな」
と思っていた。
いまとなれば、過去の私自身も含めてこの場にいる全員をグチャグチャに丸めて捨ててやりたいくらいバカな話だ。
出産で貧血になる。
それは「つらかったらしくて」なんてやわなものじゃない。
「かろうじて死ななかった」レベルの話だ。
九死に一生を得たばかりの人間に向かって「じゃあそれ、もう1回ね☆」って言ってるようなもんなんだ。
そういうことが、私も、彼らも、わかっていなかった。
当事者になって、さらにスムーズにいかない苦労を経験して、はじめてわかる。気がつく。
そう思うと、異なる背景のひとが相互に理解し合うって、本当にむずかしい。
さらにね、別の問題もある。
こんなこともあった。
それはまだ我が子が産まれて間もないころ、里帰りしていた私のところに私がちいさいときから知っている近所のおばちゃんが2人でお祝いに来てくれた。我が子を囲んでわいわいしているとおばちゃんの1人が急に怖い顔をした。
「子供は最低3人は産まないとないよ。だからポンポンと間を空けないで産みなさい」
ポカン、である。
さ、さんにん…? つい先日一人目を産んだばかりなんだけど。
「まぁ生せなければ仕方ないけどね」
ともう一人が柔らかに言ってくれた。このおばちゃんは子供が1人きりだ。しかしそれを遮ってまた言う。
「いや、3人、産まねばならないよ!」
圧である。私が苦笑いすれば(このときは苦くも笑う余裕があった)、なにを笑ってるんだという顔で睨まれる。あの優しかったおばちゃんの突然の豹変に困惑していると、もう一人のおばちゃんが控えめに言った。
「…あんた、子供1人もいないじゃない」
え?
次の瞬間言われたおばちゃんはそれこそ般若の形相になった。
「だからよ! 私はだめだったけど、産めるひとは産まねばないのっ! ね! 3人産まないとないよっ!」
その迫力に押されて終いにはもう一人も「そうだね、3人産んだ方がいい」と議論がまとまってしまった。
『子供は3人は産む』は、いまは別に『普通』じゃないと思う。
でもそれが絶対的な『普通』として君臨した時代に、子供が1人だったおばちゃんや、1人も産まなかったおばちゃんの苦労は、『生きづらい』なんてものじゃなくて、もはや地獄みたいなものだったろう。
その自らがいた地獄の淵に、目の前の若い娘を立たせてはいけない。
そんな切迫した想いが、おばちゃんを必死な忠告に駆り立てるのかもしれない。
私はこのとき、マイノリティであったひとが、普通から外れる恐怖のために、マジョリティを支持することもあるのだと知った。
でも。
あの場にいた3人ともに訪れなかった『子供を3人産むという普通』は、本当に『普通』のことなのだろうか。どこの誰にとっての『普通』なんだろう。
『普通』には実体があるようで、ない。その不確かであやふやな『普通』から外れてしまわないように、恐れて生きている。
近年、有名人がセクシャルマイノリティであることを公表するのを多く目にするようになって、はじめて聞くような単語に「そういうのもあるの?」と思ったりしていた。セクシャルマイノリティは私が思ってる以上に細分化されていて、ひとつひとつ見ていくと「なるほど」と違いが分かるけど、言われるまではそういう区分があることも意識していなかった。
そうやって区分が増えて名前がつけれらるのって、いいことだなって思う。目に見えるし、認識できるから。
私たちがすべての物事の当事者になってすべてをちゃんと理解するのは無理だ。だからせめて、頭でだけでもわかってればいいと思う。
それに私の、
『一人子供を産んだら出産自体は順調だったにもかかわらず産後の体調不調が数年に及び、二人目を望む気持ちはあるけれども体調はまだまだ優れず、この体調で無理に出産すれば「…死!」みたいな恐怖があるのでとにかく体調の回復に尽力しています、子供は授かるに越したことはないけどそんな事情で無理はしないでいいと思っています』
という状態にもし名前がつけられるのであれば、それは、名前がないよりもずっといい。って思う。
名前があるってことは、私以外に少なくとも一人は、同じ悩みを持つひとがいるってことだから。
一人きりより、ずっといい。
そんなふうにひとつひとつすくい上げて名前をつけていったら、「こんなに多くちゃ、もうなにが普通かわかんないね!」って状態になるんじゃないかな。
なにが普通かわからない。
ってゆうか、普通なんてない。
『普通』が権力を持ったり、脅威になったり、誰かを傷つける武器になるのは、もうなくなってしまえばいいな。
子供がいてもいなくても、1人でも2人でも10人でも、母乳でもミルクでも、私たちは私たちなりに頑張って納得しようとして生きているから、だから、どうか、裁いたりしないで、比べたりしないで、見守っていてほしい。
私もきっとそうでありたいと、思ってる。
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