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親知らずとかの話

2年ほど前、親知らずを抜いた。

年末に奥歯がズキズキと痛み出し歯医者に行くと「親知らずのせいです」と言われた。ストレスや疲れなどがあると痛み出すものらしく、放っておくとまた痛むだろうとも言う。それならと抜くことにしたが、これがただの親知らずではなかった。

真っすぐ生えてさえいれば良かったものの、どうやら横から伸びている。そうなるとそのままは抜けず、歯を分解して少しずつ取り除くしかないと言う。

歯を、分解…?

この堅い歯をいかにも狭そうな口の奥の方で分解できるものなのか?

恐怖だ。

さらにレントゲンを見せながら歯医者は続ける。

「この歯茎の歯の脇に線が見えますでしょう。これが神経です。親知らずがこの神経のそばまで伸びています。万一親知らずを抜く際にこの神経が傷つくと大変です。ここでは難しいので口腔外科を紹介しますね」

恐怖でしかなかった。

私はこのことを一番信頼している友人に話した。そうすると彼女は
「私もそういう親知らず抜いたことあるよ!」
とあっけらかんと言うではないか。

「え、あの横から生えてて抜く前に砕かなきゃいけないやつなんだけど、それ?」
「そうそう、2本抜いたよ」

2本!

「抜いた後は腫れたけど、大丈夫だったよ~」

そうなのか。大丈夫なのか。

私は心が強くなった。彼女が2本も抜いて平気なのだから私も大丈夫なはずだ。良かった良かった。

紹介された口腔外科は新しく綺麗な病院で、受付の優しいお姉さんと待合室の穏やかな音楽に私は「うん大丈夫大丈夫」とさらに心が強くなった。
診察台に上っても、私は「大丈夫大丈夫」とまわりを観察していた。

やってきた歯科医は中肉中背の若くて物腰の柔らかい男性だった。

にこにことしながら「一応ね」と付け加えて手術前の承諾書を見せられると、私の様子は一変した。

めちゃくちゃ「神経が傷つく可能性やら麻酔がなんやら」と怖そうに書かれている。

そうだ、私は手術をするのだ。

神経が傷ついて一大事になるかもしれない手術をするのだ!

抑え込んでいた恐怖がグワッと溢れてわなわなした。
しかも承諾書を見せられてから、なんだか妙に待たされている。その間も私の恐怖は毎分倍増した。

神経どころか歯を砕く手が滑って口のなかがぐちゃぐちゃになる妄想で頭がいっぱいになった。そう思うとあの中肉中背で頼もしそうな男性医師の体躯すら恐怖に思えてくる。

結果、手術は案の定苦戦した。

私は恐怖でパニック気味だし、先生も衛生士さんもなんとか落ち着かせようと必死で逆に怖いし、開けていなくてはいけない口は強張ってたし、歯はなかなか砕けてくれなかった。先生が力をこめるたびに「どうか手を滑らせてくれるな」と神に祈った。地獄みたいな数十分だった。

もう二度と、抜きたくないと思った。


思えば、これに似た経験が以前にもあった。

つまり、誰かの体験談を聞いて自分にも当然できるものだと思っていたら全然だめだった、という経験が以前にもあった。

そのときは母だった。
あるとき職場の旅行で沖縄から帰ってきた母はこう言った。

「スキューバダイビングは本当に楽しかった。またやりたいわぁ。海のなかはすごく綺麗で別世界なのよ」

それを聞いた私は碧い海と珊瑚と美しい魚たちを思い浮かべて「いいなぁやってみたいなぁ」と思った。

その機会は社会人になってすぐに訪れた。同僚2人と沖縄旅行を計画し、当然のようにダイビングのオプションも申し込んだ。旅行のメインイベントである。3人ともわくわくしてその日を迎えた。

海に行くと沖縄らしいウエルカムでゆるいかんじのダイビングインストラクターのお姉さん方が待っていた。生粋の東北人の私たちも必死にウエルカムでゆるい雰囲気を作りながら「よろしくお願いします(いぇい)」と挨拶する。わいわいとウェットスーツに着替え写真を取り合うなどした。

レクチャーが始まった。

「海のなかでは口にボンベを咥えて、口で呼吸します。それから水圧で耳に圧がかかるので耳抜きもします。耳抜きのやり方はこうです…」

実はこのへんでもう私の頭は硬直した。口呼吸する。え、でもうっかり鼻で吸ったらどうなるんだ。耳抜き? 陸上でも普段しないことを水中でいきなり出来るというのか?

完全にフリーズした。耳抜きの練習をしたが、出来たのかどうか自信がない。横を見ると同僚の1人も顔が強張っていた。わかるよ。

「じゃあ水に入ってみよう!」

いよいよ水中に潜るときがきてしまった。私はまだ混乱している。同僚も目が泳いでいる。インストラクターの掛け声とともに足のつく浅瀬で潜ってみた。

潜ってすぐに直感した。
あ、無理だ。

ざばっとすぐに水から顔を上げ、「こわい!」と叫んだ。すぐ横で同僚が同じく「こわい!」と叫んで水から出てきた。

嘘だろう。怖い。怖すぎる。こんなに怖いって聞いてない!
口呼吸に集中するなんてそもそも無理だ。いつもきちんと鼻呼吸しているのだから、急に呼吸するなと言われても鼻だって困る。それに加えて耳抜きだ。耳抜きするのに鼻を押さえて力を入れて、それで口呼吸して、鼻も口も耳も大混乱である。

水から一瞬で出てきた私たち二人を見てインストラクターのお姉さんたちはさっと顔色を変えた。本日の仕事の困難さを悟ったらしい。

なんやかんやとなだめられたり、練習したり、励まされたりしてほんの少し海のなかを見るには見たが、結果として、二度とやりたくないと思った。


人の意見は、ときにまったく当てにならない。

この漫画面白いよと言われて読んでもピンとこなかったり、余裕だよ簡単だよと言われた仕事が全然出来なかったりする。

これは、発言したその人が信用できるかどうかという問題ではない。
能力や、感じ方や、価値観は人によって違うのだから、誰かの経験が私に当てはまらないのも当然のことなのだ。

でもどうしてか、口コミや体験談みたいなものを、絶対的な真実みたいに思ってしまうことがある。
他の人がつけた評価が物事の判断基準の上位に来ることがある。

一番気をつけなくていけないのは「そんなの無理だよ」とか「難しいよ」とか言うのを鵜呑みにすることだと思っている。

無理か、難しいかには、一般的な基準があるかもしれないけれど、私がそれに当てはまるかどうかは分からないのだから。

自分の人生は自分の物差しで見つめたい、としみじみと思う今日この頃です。

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