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「怒る」ことの困難さについて

 人間の心を「部屋」に例えるなら、「喜び」や「悲しみ」といった感情のもとになる「刺激」は「その部屋に入ってくる客」だと思う。最初は空っぽの心という部屋に外界から「刺激」という客人が訪ねてくるというわけだ。感情はその客人をもとにして心で生成される。心理学的には正確ではないかもしれないが、ぼくはそういうイメージを持っている。

「怒り」は最も厄介な感情のうちの一つだ。こいつのもととなる刺激はいつもこちらの都合なんかおかまいなしに「やあ、久しぶり」といきなり土足で部屋にあがってくるし、あまり好きになれない。できれば部屋にはあげずに無視したいが、それでも、結局最後は押し切られて部屋に入れてしまう。そのまま生成された「怒り」に部屋をのっとられてしまった人のことを世間では「狂人」とよぶのだろうけれど。

 ところで、比喩ではない方の、ぼくが実際に生活している部屋の扉の一つは、今現在、その建て付け部から外れて閉まらなくなっている。ぼくが蹴り飛ばして壊したからだ。詳述は避けるが、ぼくが扉を蹴った理由は本当につまらないものだった。後輩の言動が気に入らなかったとか先輩に理不尽に怒られたとか知人に約束を破られたとかまあそういう類。そんな些細なことがきっかけでぼくは夜中に扉を蹴り、そして壊してしまった。木製扉の建て付け部が割れて元に戻らなくなってしまっていることに気づいたとき、ぼくは顔が真っ青になった。とんでもないことをしてしまった!こんなことなら枕をなぐっておけばよかった!

 しかし、まあ時間は巻き戻ることはない。今考えれば勢いよく扉を蹴ればこうなることは自明だったのだが、その時のぼくは冷静ではなかった。幸いなことにこれは取り返しのつかない過ちではない。余計な出費にはなってしまうが修理をすればそれで解決だ。

 だから、今ぼくが考えるべきことはきっと目の前のことではなくもっと先のことであり、「怒りとの付き合い方」なのだろうと思う。どうせこいつのもととなる刺激はこれからも部屋にやってくるのだから、生成された怒りと仲良くやる方法を考えておいたほうがいい。名作漫画「少女終末旅行」のテーマは「絶望と仲良く」だったがぼくは「怒り」とも仲良くしたい。

少女終末旅行(2)

出典:少女終末旅行(2)

 そういうわけで「怒り」について調べていくと「アンガーマネジメント」という言葉が見つかる。アンガーマネジメントとは、「怒りを予防して制御するための心理プログラム」のことらしい。不勉強でプログラムの中身については詳しくないが、どうやらこのプログラムを受けることで人は「怒りを予防して制御する」ことができるようになるようだ。なるほど。

怒りに支配されている人間は常に怒っているわけだから、人に好かれないし、孤立することでますます怒りに部屋を支配されていくようになるだろう。孤立した人間の部屋に新たな客が訪ねてくることはないからだ。かくいうぼく自身、怒りっぽい人間のことは苦手だ。自分が怒ることも滅多にない。意外だろうか。いまこういう文章を書いているものだからぼくのことを相当怒りっぽい人間なのかと思っている人もいるかもしれないが、まあリアルでの他人からの評価は「温厚」だと思う。そのはず。

 しかし、だからこそたまに生まれた怒りに部屋を荒らされてしまうこともある。そのため、怒りっぽい人間だけではなく、普段は怒らない人も、怒りを抑える方法を習得しておく必要がある。怒りを抑えることは社会生活を送る上で必須のスキルだ。それはそう。そうなのだけれど。

 一方で怒りってそんなに悪いものだろうかとも思う。アンガーマネジメントの文脈でも引用されているように、かのアリストテレスも「怒ることは誰にでもできる。ただ怒るのは簡単なことである。しかし適切な相手に、適切な程度に、適切な場合に、適切な目的で、適切な形で怒ることは容易ではない」と言っている。裏を返せば、その容易ではないことができるのであれば「怒る」ことも選択肢の一つに入るはずだ。

 日本は「空気」を重視する人が多いとよく言われる。ドイツのある哲学者は来日した際の経験から日本を「ソフトな独裁国家」と表現した。こうした風土ではなかなか「怒る」ことは難しいかもしれない。もちろん、無闇矢鱈に怒ってはいけないのだけれど、本当に怒るべき時にも怒れていない人が多いのではと思う。

本当に怒るべき時、それは例えば理不尽な目にあった時だ。大切なものを踏まれて唾を吐きかけられた時。そんな時にヘラヘラ笑っていたくない。本当は。誰もが。

 人間はそういう時に怒らないといけないのだが、正しく「怒る」ことは案外難しい。オタクやいじめられっ子が怒った時、その姿がどこか滑稽にみえるのは、正しく「怒る」ことに失敗しているからだ。いや本人が怒っているつもりなのはみればわかる。だが、「怒る」ことになれていない者の怒りは見る者にとってあまり脅威にはならない。本人は椅子や机を蹴り飛ばして満腔の怒りを表現しているつもりかもしれないが、第三者視点からみれば全然怖くない。その「ズレ」がおかしみを生む。

物や関係ない人にあたるのは最悪だ。それは単にはた迷惑だから最悪なのだというだけではなく、適切な対象に適切に怒れていないという意味で最悪なのだ。

 それでは、正しく怒るにはどうすればいいのか。「怒り」の手綱を握ればいい。部屋で増長した「怒り」に好き勝手に暴れさせるのではなく、その手綱を理性の力で握っていうことをきかせればいい。そうすれば、適切な相手に、適切な程度に、適切な場合に、適切な目的で、適切な形で怒ることができる。

 結論として今後も「怒り」と付き合っていくうえでぼくがするべきことは、ただそれを抑えるだけではなく適切に怒るためにその手綱を握る訓練をすることだ。その方法はアンガーマネジメントでもなんでもいいが、怒りの手綱を握って操るイメージを持っておくだけでも大分変わるのではないだろうか。
 少なくともこの記事を書いたぼくは、もう二度と物にあたることはない。

 ……とまあ色々書いたところで壊れた扉が元に戻るわけじゃないんだよなあ。誰か代わりに直してくれよ。

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