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『黒骨の騎士と運命の子Ⅰ カリバーンの乙女』(長編)

伝承

 世界の初めに一つの王国があった。全てを赦され全てを誇った神と精霊の国サヴェル・シウ・スール。しかし全ての精霊の王プレグライアが死すると、国は乱れ白の国と黒の国に分かれた。
そして白の国も黒の国もそれぞれが戦いにより分かれ、またその子どもたち……四つの国々もまた戦いを繰り返し一つ一つの国は小さくなっていった。
そうして、世界には八つの国が在った。

 ──『八つの国』(サヴェル・シウ・スールの子孫、精霊の子スリブランの予言と伝承)


八つの国

亡国、かつての四大王国の二つ

テリドア帝国
八つの国の西側の真ん中に存在しておりガイガー王朝三代目のグリシュナ皇帝が統べていた。五年前に内乱が起こって事実上解体され、現在は残った二大王国が北と西から領土を奪い合っている。首都はヴァンカッハ。
古くは黒の国から生まれたとされる。

ピグルーシュ王国
八つの国の西側の真ん中に位置し、アントロ王が統べていた。真北のテリドア帝国に支配されたのち、こちらも残った二大王国が領土を奪い合っている。首都はパスバハ。
古くは白の国から生まれたとされる。

二大王国

カリブラン
八つの国の西側、北方の海辺の国。サルモワ王が統べる。首都はウェンケル。テリドア帝国のさらに北に位置する。
テリドア帝国を北から攻め領地を拡大している。

ヴォナキア
極西の海辺の国。パンタラ王が統べる。首都はサンバリ。テリドア帝国の西に位置する。海を超えた先に妖精の森シルベルフがある。
テリドア帝国を西から攻め領地を拡大している。

小国

シュンブラヒム
八つの国の東側に位置する共和国。カンゼル元首が統べる。首都はナラピリ。亡きピグルーシュの北東、カイルギの北にある。

カイルギ
亡きピグルーシュの南東に位置する島国。アイレス王が統べる。首都はアンテレーズ。北にコンタタがある。
青く美しい南の海が有名で、海辺の町は貴族たちのリゾート地になっている。

コンタタ
民意で選ばれた王トイトラが統べる国。首都はグリムチア。亡きピグルーシュ王国の北東、アカヒノ王国の南西に位置する。
北に大砂漠があり、さらにその北は凍土が広がっている。

アカヒノ皇国
極東の島国。マオノ皇帝が統べる。首都はコト。
アカヒノと大陸のコンタタ王国の間には凍土と大砂漠が広がり、国とは呼べない集落の集まりがいくつも存在する。


人と呼ばれる四種族

背高族 トーラー/ハーヴン
こちらで言うヒューマン。肌の色に関係なく比較的背の高い個体が多いためこう呼ばれる。
種族の中では際立った力強さはないものの、魔法使いにもなれたり鍛治師にもなれたりと本人の意思で色々な職業に変われる。
寿命は六十年から八十年程度。
他の種族のどれとでも婚姻関係を結ぶことが出来、繁殖能力も高い。四種族の中で一番数が多い。
どの種族でもない、と言う意味で中途半端の意味を持つハーヴンと呼ばれることもあるが、その場合蔑称になる。
成人すると背丈は二メートルから百四十センチ程度。

竜人 ドラゴニーズ
竜を父に持ち、トーラーを母に持つ子どもたちとその子孫の総称。血の繋がりに限らない呼び方のため厳密には種族ではない。トーラーとドラゴニーズの間に生まれた子供やその子孫はハーヴドラゴニーズと呼ばれる。(ハーヴンが蔑称なのでこの呼ばれ方を好む者はいない)
頭部に竜のツノと体のどこかに鱗を持つ。女性はツノがない場合が多い。竜には火竜、水竜、土竜、風竜、光竜、闇竜の六種がおり、子どもは親の属性を継ぐ。
種族の中でも非常に長命で、その寿命は個体にもよるがエルフィンに匹敵する。(成人まではトーラーとさほど変わらず、二十年前後だが青年期から中年期までが非常に長い。)それに準じてか四種族の中でも数が少ない。
森で育てばエルフィン同様精霊の子として高慢に育つが、街中でトーラーに囲まれて育った場合はそう酷くならない。
トーラーより体が屈強で、男女共々背丈は百六十センチから二メートル以上。

妖精族 エルフィン
半妖精とも呼ばれる長命種族。トーラーと見目がほとんど変わらないが、首や手足が妙に長く耳の先が尖っている。魔法使いか狩人になることが多く、基本は森の中に住む。
千年を生きるとされ繁殖が稀。四種族の中では一番数が少ない。
精霊の子スリブランの子孫としての自負が高く、トーラーを下級種族として見がち。森で育ったドラゴニーズとは相性がいい。
背丈は高くても百八十センチ、低ければ百二十センチ程度。

小人族 テラムン
種族名の元となった言葉は“土の中の小人”と言う意味。鍛治師や建築家に特化した者たちで土と岩のある環境を好む。寿命は短く、長く生きても五十年程度。
テラムンとトーラーの間の子はトーラーに体格が近くなる。成人してもトーラーの子供より体が小さく、背丈は大きくても百二、三十センチ。


=====


予言

 全ての野山が氷に閉ざされる時、全ての丘に剣が突き立てられる時、運命の子は現れる。精霊を統べる王が現れる。その子どもは雪の深い黒の国より生まれ、恐ろしい氷の腹から生まれ出でる。
世界は闇を呼ぶ者によって雪の中に沈み、光を呼ぶ者によって炎の中から再び生まれ出る。
 心を研げ、子を隠せ。魔は人々の心にある。赤い鐘の音に備えよ。終末の時は近い。
 ──『終末と運命の子』(サヴェル・シウ・スールの子孫、精霊の子スリブランの予言と伝承)


プロローグ

 黒い鎧の騎士は走っていた。その懐に小さな乳飲み子を抱えて。鍛えられた太い手足を振り抜いて。雨のような矢を潜り、蛇のように走る炎を越えて、黒い騎士は走った。
走って、走って、黒い騎士は勢いのまま塀を駆け上がる。大砲の轟音とたくさんの悲鳴から小さな姫を守るために、彼は堀に張られた水に飛び込んだ。


1.黒骨の騎士と薬屋のクロエ

 今は亡きテリドア帝国の西、ヴォナキア王国の内陸、森に囲まれた小さな町ワスマにその酒場はあった。傭兵たちがギルドを組み、ヴォナキアの中を自由に行き来するために設けられた酒場兼宿屋の受付の前にゴツンと重い鉄甲の音が響いた。
焦茶色の重い革靴を履く男は目深くフード付きの黒いローブを羽織り、こめかみの辺り、布の下から青色の光沢を持つ槍のように鋭いツノを二本生やしていた。口元をローブと揃いの黒い布で覆い、肌の露出を避けた装い。腰に差した二本の剣はトーラーが持つには大きく重い。酒場に集っていたトーラーの男たちはその姿を見て「ドラゴニーズだ」と囁いた。
精霊たる竜を父に持ち、トーラーを母に持つ竜人のドラゴニーズ。四種族の中でも数の少ない彼らは滅多に人里にいないことからトーラーには珍しい客人だった。
ドラゴニーズの男は丸太のような太い腕、健康的な小麦色の指先でギルドの受付に組合員の証である竜頭を模した台座付きの首飾りを置いた。
「仕事が欲しい。短期間で出来る高額なものを」
受付をしていたトーラーの中年の男は己より頭一つ背の高いドラゴニーズを見て思わず首をすくめた。
「へえ、ちょいとお待ちなすって」
受付のオヤジは見慣れない竜人に怯えながら屈み、カウンターの下から依頼書を集めた分厚い冊子を取り出した。指先を舐めたオヤジがペラペラと紙をめくるのをドラゴニーズは親譲りの黄金の瞳でじっと見つめ待った。
その瞳のなんと美しいこと! この男が二メートルを超える巨躯でなければ道行く者全てが彼の宝石のような瞳に真っ先に気付き、そして見惚れたであろう。
「今日にでも出来るのは、隣町まで行く薬屋の護衛と……」
「幾らだ?」
「て、手取りは五万ギニルです」
「それでいい」
「へえ……。待ち合わせ場所は六番通りです」
受付のオヤジは冊子から外した依頼書と羽根ペンを差し出した。ドラゴニーズは依頼書の下半分にある二箇所の空欄にそれぞれサインをし、受付のオヤジは傍らにあったインク付きのスポンジに判子を押し付け点線で区切られた空欄の中央をトンと叩いた。
 依頼証明の半券を片手に竜人が酒場を出て行くと、受付のオヤジは書かれた名を読んだ。
「フォンザー……フォンザー!?」
オヤジの呟きは大きく、近くの傭兵たちにも聞こえた。傭兵たちは顔を見合わせざわざわと喋り出す。
「フォンザー? あいつが?」
「へえ、あいつが元テリドア帝国兵、黒騎士フォンザーなのか」


 八つの国のうち一つが一つを食い、六つとなった時代。この世界には未だ精霊が大地に住んでいた。妖精族(エルフィン)は妖精の子孫として。小人族(テラムン)は物作りの神々の子孫として。竜人族(ドラゴニーズ)は精霊たる竜の子孫として。背高族(トーラー)は様々な神の遠い子孫として存在していた。
 それぞれ種族はあれど大きくは森に住む者と街に住む者に分かれていた。街に住む者は城を築き国を城壁で囲い、その中で王族や貴族、商人や農民と役割を分けていった。
 国により精霊の王プレグライアを祖とする一神教、宇宙を創生した恒星の王を中心とする多神教と違いはあれど、神と精霊を崇め祀り、奇跡を行使する者たちはみな一様に魔法使いと呼ばれた。
魔法使いになるためには一神教の教会か多神教の寺社に赴く必要があり、しかし学ぶ気がある者なら種族と身分は関係なく受け入れられた。そのため魔法使いは信徒であり科学者であり、占い師であり医者であった。
星を読み暦を作り、精霊の声を聞き民に伝え、病を治し、悪霊や魔を退け、祓い清める。多くはこのようによい魔法使いたち……白魔法使いと呼ばれる者であったが、中には奇跡を操れることで驕り、その力で生き物を殺し他者を呪う恐ろしい魔法使い……黒魔法使いもいた。
 白魔法使いも黒魔法使いもそれぞれの王に仕え、または町中の医者としてあり、どこの国にも存在した。なればこそ、彼らは「魔法使いさん」と慕われ、「魔導士さま」と尊ばれ、「魔女」と恐れられた。


 ──五年前、四大王国のうちの一つ、テリドア帝国が同じく四大王国の一つピグルーシュ王国を支配下に置き五十年が過ぎた頃。運命の子ハルサラーナ姫はグリシュナ皇帝の十三人目の妾、ヴィルマーヤの腹から生まれた。
美しくも娼婦の身であったヴィルマーヤは王女を孕んだことを機に権力を欲し、王妃への道を駆け上る最中に予言を知った。己の腹に収まる小さな命が運命の子だと知った彼女は手放してなるものかと、己と腹の子に専属の騎士を充てがうようグリシュナ皇帝に乞うた。
そしてその役目に就いた騎士こそが、血も涙もない鬼(デーモン)の如き闇竜の子、テリドア帝国下級騎士フォンザー・ベルエフェだったのである。

 初めは耳を疑った。グリシュナ皇帝直々の呼び出しと聞き、どんな恐ろしい命令か、どんな血も凍る作戦かと思ったのに、皇帝が下級騎士であるフォンザー・ベルエフェに告げたのは元娼婦の妾ヴィルマーヤとその腹の子の護衛だった。
「余はお前の腕を見込んで命じておる」
「……身に余る光栄で御座います」
およそ五年と半年前、テリドア帝国の黒き岩の城には深い雪が降り積もっていた。冬の中でも特に寒い日だったと、フォンザーはよく覚えている。
分厚い革の黒の鎧にふかふかの絨毯のような毛足の長い青鈍色のマントを付けたグリシュナ皇帝は、玉座の上で間を置いて髪と揃いの短く整った黒い髭に覆われた口元で言葉を紡いだ。
「腹の子は余の血を継ぐ大切な跡取り。その者に何かあっては困る」
「は」
グリシュナ皇帝は腹の子を跡取り、つまり男だと言い切った。この時点で妾腹の子が予言にある救世の“娘”だと魔法使いから聞いていたにもかかわらず。グリシュナは……予言は間違いだと考えたかったのだろうか? 今では知る由もない。
「この後すぐにヴィルマーヤの元へ行くがよい。乳母と共に子を護り、常に目の届くところに置け」
「は。仰せのままに」
ツノに見合う黒い甲冑に紫のマントを身に付けた騎士フォンザーは膝をついたまま深く頭を下げ、命令をこなすべく玉の間から早々に立ち去った──。


「フォンザーさん!」
 傭兵ギルドの受付がある酒場から出て行ったフォンザーを追いかけ声をかける者があった。
「ミスター! フォンザー・ベルエフェ!」
トーラーの若い男だ。短髪は赤茶色で緑の瞳。いかにもなニンジン頭の若者はフォンザーの前に転がり込み泥に汚れる手も構わずその場に膝をついた。
「フォンザー・ベルエフェ、黒騎士さま! 俺を弟子にしてください!」
フォンザーは頭を下げた若者の横を素通りしようとした。しかし若者はフォンザーのよく鍛えられた長い脚にしがみつき甲高い声を出した。
「お願いしますミスター! フォンザー様!」
「お前のように愚かなトーラーはこれまで二十三人いた」
フォンザーは心地よい低い声でそう言い、宝石のように煌めく黄金の瞳で若者を見下ろした。
「“弟子にしろ”などとのたまう者はその内二十人いて、全員死んだ」
若者はゾッとするような冷たい視線に冷や汗を流し、息を飲んだ。
「ぎ、ギルドに入りたいんです!」
「なら受付のオヤジに言え」
「ウチの一族はみんな赤毛の痩せたニンジンだからってギルドに無視されるんです! 先に実力を示さないといけなくて!」
「なら軍に入れ。嫌でも鍛えられる」
「お願い!」
フォンザーは脚をくるりと一回転させ、鮮やかに若者のあばらを踏みつけた。どっしりと重いドラゴニーズの体重を胸にかけられた若者は息が出来ず声なき声で悲鳴を上げる。フォンザーは膝に肘を置いて若者の顔を覗き込んだ。
「確かに痩せたニンジンだな」
竜独特の煌めく瞳を見たトーラーの若者は一瞬時を忘れ、その瞳に見惚れた。
フォンザーはすぐに脚を退け若者を解放した。咳き込むトーラーの若人に振り向きもせず、フォンザーは黒いローブを翻し薬屋のある六番通りを目指した。


 ──テリドア帝国兵フォンザーにとって乳飲み子と言うのは泣き喚く猿に等しかった。腹を空かせ、湿ったオムツを取り替えろと叫ぶだけの生き物を、彼は奇異の目で見つめた。
 フォンザーはある日、普段なら共にいる乳母が高熱を出したためにハルサラーナ姫を一人であやさねばならなかった。何とか薄めた牛乳を飲ませ、オムツを取り替えたにもかかわらず乳飲み子は泣く一方で、おんぶ紐で鎧の上に赤ん坊を縛り付けられた彼はほとほと困っていた。
 そして城の従者の中から代わりの乳母が見つからずいよいよ対応に困ると、黒騎士はその姿で街の酒場を訪れた。市民たちは目を皿のようにして黙り、グリシュナ皇帝の娘と聞いて万が一にも失礼があってはならないと迂闊に手が出せなかった。しかしハルサラーナ姫がその日一番の大声で泣き叫ぶと、見るに見かねた市民たちは手を差し伸べた。
「おお、よちよち」
 結局酒場の女将に赤ん坊を預ける形になったが、黒騎士はやっと兜を脱いでビールとつまみを口にした。
「フォンザー!」
景気良く黒騎士の肩を叩く者がいた。その兵士は鳶色の髪と瞳をした壮年の男で、腰には長剣と小剣を差している。
「ゲオルク」
「わっはっは! 巨人も畏れるお前が子守とはな!」
「笑うな。あの氷のような女がろくに乳も吸わせんからこうなったんだ」
「ええ? 自分の赤ん坊に乳をやらないって?」
隣に腰掛けたゲオルクに一杯のウォッカを奢り、フォンザーは再びビールに口をつける。
「容姿が崩れるから嫌だと」
「ああ、乳が垂れるってか? もう若くもないのによく言う」
「若くないから、だろ」
「俺にはわからん話だ」
「おおよその男にはわからん」
ハルサラーナ姫は乳を飲み足りなかったのだろう。子を生んだばかりの町娘の乳を吸い大人しくなるとすっかり眠った。
「可愛いじゃあねえか。あの眉の吊り上がった妾から出てきたとは思えん」
「乳飲み子などどれも同じだ」
「そんなことはねえ。見ろ、このはちみつ色の髪を。つやつやしてる。俺の娘も幼い頃は大層美しい金髪だったが、いやはやこの色には負ける」
「どうでもいい」
「お前も子供を持ったらわかるさ」
「なら、一生わからないだろうな」
そんなことねえよ、とゲオルクは盃を片手に苦笑いをした──。


「あんたが巨人も恐れるテリドア帝国兵フォンザーとはねえ……」
「不満か」
「いいえとんでも。もっと恐ろしい顔の男を想像していたから、こんなにいい男だとは思わなかったんだよ」
「顔などほとんど隠れておろうに」
「醜男の目元じゃないことだけは確かさ」
 薬屋の女主人であるトーラーの老女はくすくすと笑った。彼女は六番通りの広い道に荷車を置いて高く香る紙袋を積み上げている最中で、フォンザーが薬屋かどうか尋ねるまでもなかった。
「荷はこれで全部か?」
「あと樽を三つ載せないといけなくて。でも精油だから重くてねえ。これからテコを出すところさ」
薬屋の視線の先にあった樽を見つけると、フォンザーは丸太のような太い二の腕で軽々と樽を持ち上げた。
「おんやまあ!」
自分では傾けるのも精一杯な大樽をあっという間に積み込んだフォンザーに、老女は驚きと喜びの表情を向けた。
「ありがとう。ギルドへ払ったお金とは別に前金が要るのよね? 少ないけど持っておいき」
子供に小遣いを与えるように薬屋はドラゴニーズの大きな手に五百ギニルの硬貨を二枚と、小ぶりな木製のクリームケースに収まった軟膏を握らせた。軟膏は市民に流通して間がなく未だ高価な物で、街にもよるが最低でも五千ギニルはするものだった。
「……手付け金としては少額だが、貴重な物だ。いいのか?」
「いいんだよ。この仕事が終わればまた作れるからねえ」
「……感謝する」
フォンザーは軟膏を大事に大事に胸のポケットへしまった。
「出発は?」
「すぐにでも出られるよ。あんたのお陰さね」

 薬屋と共にフォンザーが荷車に乗り込むと、また赤毛の若者が現れた。
「黒骨の騎士!」
「しつこい奴だ」
「おやぁ、ベンじゃないか。おっかさんは元気?」
「腰の具合は随分いいよ! それよりクロエ婆ちゃん、俺もついて行っていいかい!?」
「構わないよ」
「おい、人数を追加すると契約違反だぞ」
「あれ、そうなの? それならベン、悪いけどこの人に頼むから今日は諦めとくれ」
「頼むよ! ギルドの依頼の手伝いを一つでもしたら彼らの見る目も変わるはずなんだ!」
「契約違反をしている時点でギルドの邪魔者だと何故わからない? 痩せたニンジンどころか生んだ卵を飲み込むニワトリだ」
「見捨てないで!」
「ええいしつこい」
荷車にしがみついて離れないベンの胸ぐらをフォンザーが掴み上げると、薬屋のクロエは穏やかに竜人を制した。
「勘弁してやって。悪い子じゃないんだよ」
「仕事に熱心な馬鹿ほど困るものはない」
「ベンはあたしの妹の孫なんだ。ね、あたしが個人的に責任を持つから目を瞑ってやっておくれ」
お願い、とクロエが頼み込むとフォンザーは手を離した。
「俺が請け負ったのは薬屋の護衛だ。お前の面倒は見ないぞ」
「ありがとう!」
赤毛のベンは嬉々として荷車に乗り込み、フォンザーは大きく溜め息をついた。


 ──ある日、街へ靴を買いに行くからついて来いと言われ黒騎士フォンザーはまた乳飲み子の姫を胸にくくり付けヴィルマーヤと行動を共にした。乳母ももちろん一緒に。
しかし、帝国を出てすぐの道でぬかるんだ土に馬車が囚われるとヴィルマーヤは怒って馬車から降りて帰ると言い出した。元娼婦は足を汚したくないと言い放つと足場にするからフォンザーに屈めと命じる。乳飲み子を縛り付けたフォンザーはこの状態では屈めないと主君の妾の要求を拒んだ。
ヴィルマーヤは顔を真っ赤にして怒った。皇帝の妻よりそのチビが大事なのか、と確か彼女はそう言った。そしてハルサラーナ姫はその形相を大層怖がって泣き出した。黒騎士は溜め息をつき、乳母にハルサラーナ姫を預けるとヴィルマーヤのために馬車を降り泥の上で膝をついた。
最初からそうしろ、と妾は怒りながら黒騎士の背を踏みつけ戻っていった。ハルサラーナ姫は、乳母がどれだけあやしてもなかなか泣き止まなかった。
 その晩のこと。乳母はヴィルマーヤの常日頃の態度や世話をする子供が命を狙われているという極度の緊張からいよいよ体調を崩し、泣きながら使用人部屋に戻っていった。残された黒騎士は眠らず、赤ん坊の揺り籠に手をかけゆらゆらと動かす。
そしてふと、赤子の顔を見た。本当にふっと、気まぐれに。
カイルギの海よりも鮮やかで、深い、青い瞳がこちらを見ていた。その瞳にろうそくの揺らめきが映っている。
はちみつ色の髪の姫。姫は、黒騎士の目を見ると、にこりと笑った。
黒騎士フォンザーは一瞬、ほんの一瞬……胸が詰まった。
小さな姫はそれに満足したように瞼を下ろして、深い寝息を立てた。
ただそれだけのこと。でもそれが、その後の自分を全て変えてしまったのだと、フォンザーは思い出すたびに感じるのだった──。


「黒騎士が死んだ話を吟遊詩人から何遍も聞いたよ! その後、帝国が滅んで五年経つけどどうしてたんだい!? 奇跡のように蘇って、次は何を狩るんだい!?」
 ベンは昔から黒骨の騎士の詩(うた)に夢中だったらしく、荷車がヴォナキア王国の小さな町ワスマを離れて森の中に差し掛かっても口数は増える一方だった。フォンザーはもはや青年の口を遮る気も失せ、薬屋クロエの隣で時々山馬の背を鞭で打つばかりとなっていた。
「俺は巨人殺しの詩も大蜘蛛の退治も全部聞いたよ!」
「薬屋」
「ん?」
「この妹の孫はいつもこうか?」
「ベンは昔から英雄のお話が好きでねえ」
「俺は英雄とは程遠い」
「そう? あたしはあんたが詩に聞くような、命乞いをする敵兵の首を容赦なく撥ね飛ばす男とは思えなくて、驚いてるんだけどね」
「それは俺が一度死んだからだな」
「やっぱり奇跡で蘇ったんだな!?」
「ああ、うるさい」
フォンザーはまた溜め息をついた。
「でも、ほら、運命の子の話は可哀想に思ったよ。フォンザーは蘇ったけど、運命の子は結局死んでしまったそうじゃないか。墓はどうしたんだい? やっぱり、国の外へ? それとも帝国で葬儀を?」
フォンザーはベンの問いに答えなかった。今度はベンが溜め息をついた。
「可哀想に。まだ生まれて一年も経ってないのに死んじゃうなんて、あんまりだよ」

「パパー!」
 まだ一人で歩くのがやっとな娘が、はちみつ色の髪が、濡れている。
「パパーぁ!」
カイルギの海より鮮やかで青い色を溢しそうになりながら、女の子は泣いている。
「パパー!」
知らない森の深くで、暗闇で、一人でいるのが恐ろしい。小さな姫が泣き叫ぶたびにフォンザーの胸は潰れそうだった。

 ベンのせいでかつて見た悪夢を思い出し、フォンザーは再び溜め息をついた。


 ──テリドア帝国陥落のきっかけは、官僚同士の小さな喧嘩だったらしい。しかしその小さな諍いが波紋を広げ、元ピグルーシュ王国市民に伝わると内乱として規模を広げた。その内乱がカリブラン王国とヴォナキア王国に知られると、二つの国はピグルーシュ王国の仇を取るという建前で戦争の準備を進めた。内乱が内乱を呼び、グリシュナ皇帝の時代には国から民への締め付けはより厳しいものとなっていた。
 そして運命の子が生まれた。
運命の子が生まれたならば終末は近い。姫の出生は戦争を早めるには十分な理由だった。そして姫が生まれてから半年後。テリドア帝国はあの夜を迎える。

「先に行けフォンザー! やあああああっ!」
 キーンと高い金属の音がする。ゲオルクが狭い石の廊下で双剣を手に元同僚の反乱軍と剣を交えている。フォンザーが不穏な気配を感じて小さな姫を揺り籠から持ち上げた時には既に戦いが始まっていた。
フォンザーは赤子を腕に城内を走る。目の前に現れる反乱軍を押し除けながら玉の間へ向かうと、皇帝グリシュナは近衛とすり替わった反乱軍の兵士に追い詰められていた。
皇帝は駆けつけたフォンザーに気を取られた反乱軍の二人から武器を奪い取り、相手の首を掻っ切る。
「陛下!」
「大事ない」
駆け寄ったフォンザーの腕に抱かれた赤ん坊をグリシュナ皇帝は見下ろす。公務が忙しく、皇帝は息子の顔も娘の顔もろくに見たことがなかった。
「……これがハルサラーナか」
「は」
皇帝はハルサラーナの額を撫でた。その瞬間、皇帝は険しい顔から柔らかい表情になった。
「この髪……亡き母に似ている……」
首から血を流す反乱兵が皇帝の背後で立ち上がるのをフォンザーは酷くゆっくり感じた。
「っ……!」
フォンザーは皇帝を突き飛ばし彼と姫君の肉盾となるはずだった。しかし、
グリシュナ皇帝は騎士の表情からすぐに緊張を取り戻して振り向き、フォンザーを突き飛ばして反乱兵と刺し違えた。
「陛下!!」
反乱兵は今度こそ死に、胸を穿たれたグリシュナ皇帝はその場に膝をつく。
「陛下!!」
倒れた彼の背を支えた黒騎士をグリシュナは朦朧とした顔で見た。
「娘を……頼んだ」
それは皇帝の、一人の男としての、父としての最初で最後の献身だった。
「陛下! しっかりなさってください! すぐ手当を……」
「いたぞー!!」
新しく反乱兵が現れ、フォンザーはハルサラーナとグリシュナのどちらを助けるべきか悩んだ。
「くっ……」
フォンザーは姫を抱えて再び走り出した。彼の後ろではグリシュナが最後の力を振り絞り、剣を構えるところだった──。


 フォンザーが積み込みを終えた薬屋同士のささやかなお茶会を見守り、喧しいベンを連れ何事もなく戻ってくると日は傾き空は黄昏に染まっていた。
「今日はありがとうねえ、優しい帝国兵さん」
「元、帝国兵だ」
「宿を取ってないんなら俺んちに泊まってくれよ!」
「……絶対に嫌だ」
「そんな! 聞きたい話がたくさんあるのに!」
半日経って尚も甲高く喚くベンの顔に向かってフォンザーはビシッと指を差す。
「いいか、トリ頭に話すことなど何もない。ギルドへ入りたいならその馬鹿さ加減を何とかするか、諦めろ」
「そんな……そんなぁ」
ベンは心の底から落ち込んだ声を出した。フォンザーはフンと鼻を鳴らし、踵を返して酒場へと足を向けた。

 フォンザーが酒場に顔を出すと吟遊詩人が今まさにリュートを片手に謳っている最中であった。甘い声に聞き入る民衆を邪魔しないようにとフォンザーは静かに受付のオヤジの元へ向かった。
「依頼を終えた。報酬を」
「しっ、今いいところだから!」
フォンザーはすぐ金が支払われればオヤジに酒でも頼むのにと思いながら溜め息をついた。
「──ああ、美しくも氷のような女は今まさに殺されようとしていた……。そして天を裂く稲妻の如き悲鳴で喉を震わせた」
白肌に金髪の吟遊詩人が謳っているのはテリドア帝国が斃れた時の出来事、その中でも運命の子を孕んだ妾ヴィルマーヤが死ぬ物語であった。
「──おお、天はもう落ちたのか! 女は虚しく横たわり深紅のベルベットは更に赤く、より黒く染まる……。嘆く者は居ないのか? 氷のようであろうとも、女はこの身が震えるほど美しくあるのに!」
興味もなく腕を組んで詩が終わるのを待っていたフォンザーだが、ヴィルマーヤの絶命から場面が移ると顔色を変えた。
「──赤子は空から落とされた! 槍の如き屋根から……高き城の塀から! 真っ逆さまに! 可哀想に! 小さなお姫様……。肌は白く輝き、頬は薔薇色の小さな姫」
まるで見ていたかようにトーラーの吟遊詩人は詳細を謳った。
フォンザーは黄金の瞳で吟遊詩人を睨む。ハルサラーナ姫は確かに城の高い場所から落とされた。それはフォンザー自身が行ったことで、しかし姫を敵の手から逃がすための咄嗟の判断であった。フォンザーは部外者にあの時の詳細を話したことはない。つまり、この吟遊詩人は何者かからあの状況の仔細を聞いたのだ。
(あの男、テリドアに知り合いがいそうだな……)
フォンザーは詩が終わる前に受付のオヤジの顎を掴み自分の方へ向かせた。
「報酬を払え」
竜の瞳が妖しく輝くと、受付のオヤジは恍惚の表情を浮かべ大人しく指示に従った。
「いいかオヤジ。お前はここへ俺が来たことなど覚えていないし、俺のことなど何も知らない。お前がこれから話す者ももちろん俺のことは覚えていない。依頼書ももう要らないから俺に渡す。そうだな?」
「へい」
一人のドラゴニーズは名が書かれた依頼書と金を受け取って静かに酒場から姿を消した。そして、誰に知られることもなく闇へと消えていった。

 その晩。暢気に眠りこけていた吟遊詩人は突然逆さ吊りにされ、鳩尾を殴られたものだから鶏のように鳴いた。すぐその喉から声を奪った男はゆっくりと闇の中から姿を現した。フードを被った男は、ドラゴニーズではなくトーラーで、魔法使いのようだった。
「吟遊詩人よ、日暮れに謳ったあの詩はどこから聞いた話なのかね? 君は素直に情報の出所を答えるだけでよい。君はまさに、あの巨人も畏れるテリドアの黒騎士フォンザーからハルサラーナ姫の末路を聞いたのか、素直に答えるだけでよい」
吟遊詩人はあまりの恐怖に震え、首を激しく横に振った。
「それは質問に対する答えか? ん?」
声を返された吟遊詩人は震えながらも魔法使いの問いに応えた。
「ち、違う! フォンザーではない……フォンザーではない元帝国兵から聞いた!」
「ほう。誰だね?」
「それは……言えない! 詳細を言えば殺されてしまう!」
「言わなければ私に殺されるぞ」
「やめて! やめてくれ! 違うんだ、本当に彼のことは知らない! ただテリドア帝国が落ちた時のことをよく知ってる、真実を言うから詩にしてくれと頼まれて!」
「それは誰だ?」
「知らない!!」
「では死ね」
「助けて!!」
魔法使いが容赦なく杖を振り下ろす。しかし魔法が発動することはなく、魔法使いは頭から一直線に体をすっぱり斬られて真っ二つ。肉の塊へと変貌し、ベッドの脇に倒れた。
「ヒィイ……!!」
月明かりの下黒く光る血溜まりの向こう、闇の中に何かがいる。しかし吟遊詩人は相手の姿をその目に捉えることが出来なかった。そこにはただ闇が佇んでいた。
「吟遊詩人」
「ヒッ」
心地よい低音が吟遊詩人の耳に響いた。
「城の塔から落とされたハルサラーナ姫のことを誰から聞いた?」
「いっ……言えない」
「いいか吟遊詩人。お前にその話をした帝国兵らしき男は、お前を餌にこの魔法使いのようなテリドア反乱軍の刺客や黒騎士フォンザーその者を釣ろうとしている」
ヒュン、と鋭い風の音がして吟遊詩人を吊り上げていた縄が切られる。潰れたカエルのような声を上げて吟遊詩人はベッドの上に落ちた。
「今宵のように襲われたくなければ、その詩はレパートリーから外すんだな」
「そ、そうだな。そうするよ」
「相手を知らないと言ったな。どんな様相だった? 見た目や、感じたものだけでいい。特徴を言え」
「え、ええと彼は……ああ、爽やかな薬草の香りをしていた。紅茶のような……ミントのような」
吟遊詩人はベッドの上で体を起こして足首にまとわりつく縄を外した。
「他には?」
「黒いローブを深く被っていたから顔はわからない。でも……ああ、光る腕輪を着けていた。緑色の宝石のついた腕輪だ」
「他には」
「あとはよく分からない。気付いたら彼は消えていたし、でも聞いた話は不思議と耳に残っていた。本当だ! 嘘じゃない!」
「……そうか」
闇はそのまま静かになった。吟遊詩人は転がった魔法使いの杖を拾い、恐る恐る声がした場所を突いたがそこにはただ部屋の壁があるだけだった。


2.黒骨の騎士と泉の乙女

 ヴォナキア王国、森の小さな町ワスマからそう遠くない森小屋の周りには切り倒した丸太が何本も転がり、その表面にはキノコがたくさん生えていた。森小屋は屋根から壁まで蔦に覆われ、遠目には生い茂る樹々に隠れて小屋とは気付きにくい。黒骨の騎士フォンザーは夜通し歩いたその足で小屋へ真っ直ぐ向かうと、三回ノックをして扉を開けた。
 髪ははちみつ色。滑らかな白い肌に頬は薔薇色。瞳はカイルギの南の海より鮮やかで青い。唇は桃色の花のつぼみ。紅葉のような小さな手の娘は目一杯に腕を広げ、帰ってきたドラゴニーズを出迎えた。
「お父さん(パードレ)!」
フォンザーは膝をつき、丸太の如き太い腕で駆け寄った小さな姫を優しく抱き締めた。
「姫、お父上は私ではなくさる尊きお方だと何度も申し上げたでしょう」
「でも、キャラバンの人に聞いたの。一緒にいた最後の夜に。その子の一番近くにいて、一番その子を撫でて、優しく抱きしめてくれる人がその子のお父さん(パードレ)やお母さん(マードレ)なのよって。だからフォンザがわたしのパードレなの。そうなの」
黒骨の騎士に春の目覚めのような花の微笑みを向けるこの娘こそ、失われたテリドア帝国の十三人目の妾ヴィルマーヤが生んだハルサラーナ姫であった。小さな姫は厚手の水色のドレスを着て足元を革のブーツと白い下履きでしっかりと覆っている。
「パードレ、昨日は帰って来なかったから心配したの。パードレが怪我をして、怖くて寂しくて泣いていたらどうしようって、わたし思ったの」
「申し訳ございません。仕事が夜までかかってしまったのです」
フォンザーとハルサラーナ姫が話していると近付いてくる者がいる。白銀の髪、エメラルドの如き緑の瞳、美しい白い肌。エルフィンの血筋を感じさせるトーラーの女性は、旅の装いながらも上品な白いドレスと白いローブを着ていた。魔法使いの中でも自然に寄り添い、精霊を重んじる彼らは白魔導士、または白魔法使いと呼ばれる。
フォンザーは彼女を見上げ、姫に視線を戻すと懐のポケットに手を入れた。
「姫、こちらを」
「なあに?」
木製のクリームケースを受け取ったハルサラーナ姫は首を傾げる。
「軟膏です。仕事の報酬に貰ったものなので、姫に差し上げます」
「なんこう?」
姫の問いにはフォンザーではなく白魔法使いが答える。
「小さな切り傷や肌荒れに効く薬です。たくさんの薬草から精油を作らねばならないので、作るのが難しく高い物なのです」
「むずかしいお薬なの? どうやって使うの? クレリア」
クレリアと呼ばれた女魔法使いは膝をついてクリームケースを受け取ると蓋を開き、少量を取ってハルサラーナ姫の紅葉のような小さな手に塗り込む。
「こうして肌によく塗り込むのです」
「そう!」
ハルサラーナ姫はすぐに真似してクレリアの手に軟膏を塗った。
「こう?」
「そうです」
「パードレにも塗ってあげる!」
「お気持ちだけで十分です、姫。クレリアも申し上げた通り高価で貴重な物なので、大切にお使いください」
「でもパードレの手には、たくさんたくさん切り傷があるわ」
普段からよく見られているということを改めて知り、言葉に詰まってしまったフォンザーは渋々革の手袋を外して節のある大きな手を差し出した。ハルサラーナ姫は満開の花のように微笑んで、軟膏を健康的な小麦色の肌に塗り込んだ。
「きっとパードレの手は世界で一番大きいわ。なんこうも、いっぱいいるわ。ねえクレリア、わたしにもなんこうは作れる?」
「姫さまがたくさんの勉強をなさって、精油の作り方を学べば作れますよ」
「じゃあもっと勉強する!」
ハルサラーナは蓋をしたクリームケースをクレリアが差し出した麻の小袋に入れ、自分の小さなカバンに大切に仕舞った。姫がカバンを背負うとフォンザーは小さな体を軽々と抱き上げた。
「姫、次の町へ行きましょう」
「次はどんな町なの?」
「今まで見た中では二番目に大きな町だと思います」
「本当!?」
明るい表情をしているハルサラーナ姫に見せないよう、フォンザーはクレリアに険しい顔を見せ目配せで敵が迫っていることを示す。
「では、すぐに荷物をまとめます」
「サラーナ姫、姫は私と先に参りましょう」
「うん。クレリア、ディミトラとアレッキオを早く呼んできてね」
「畏まりました」

 フォンザーは小さな姫にも明るいベージュのローブを着せてフードを被らせ、マフラー状のおんぶ紐を使って彼女を胸の前にくくりつける。その上から己の黒いローブを小さな背中にかけて森の中を静かに進み始めた。
「あ!」
ハルサラーナは後方から追いついたクレリアと、テラムンの中年女性とトーラーの若い男に気付いてフォンザーの肩から頭を覗かせた。
「パードレ、みんな来たわ!」
姫より先に気付いていたもののフォンザーは彼女の発言で足を止め来た道を振り向く。白いローブのクレリアは身の丈ほどの木の杖を持ち、テラムンの中では比較的背の高い中年女性は全身に茶色い革の鎧をしっかり着込んで。トーラーの若い男は弓矢を背負い茶色の革と新緑色に染められた布の軽い鎧に、深い緑の狩人帽に鳥の羽を差していた。
「大股で進むから追いつくのが大変だよ」
そう口にしたのは狩人の姿をしたトーラーの男、アレッキオ。
「急ぐのだから当然だ。本来なら昨晩のうちに町を出たかったんだがな」
「そんなにひっ迫した状況だったのかい?」
テラムンの女性、ディミトラは大きなフォンザーを精いっぱい見上げる。
「そう思ったが、昨晩中に事は片付いた」
「おっかね」
「だが相手が魔法使いだったし、吟遊詩人からは妙なことを耳にした。早々に町を後にするには十分なほどにな」
「後で詳しく聞きましょう」
「ああ」
 今こそ連携が取れているものの、ハルサラーナ姫の従者たちは全員が集まり打ち解けるまでには時間がかかった。事は五年前、テリドア帝国が陥落した時に遡る。


 ──反乱軍を掻い潜り堀に身を投じた後、戦火に囲まれた黒騎士フォンザーは最後の城壁を乗り越える前に力尽きようとしていた。傷は深く血が多く流れ、意識はおぼろげ。それでも小さな姫を、赤ん坊を死守せんと胴鎧を外し小さな体をマントで包み、二つの鋼の間に隠した。
(これで、何とか……)
もう長くないことはわかっていた。そして、ハルサラーナ姫が運命の子だと知ってグリシュナ皇帝の手から逃そうと以前奇襲をかけてきた白魔法使いと、弓士、軽業士の三人が必ず姫を助けに来ることも……フォンザーはわかっていた。
意識が完全に闇へ落ちる前、黒騎士はこちらに駆け寄る白いローブの女性を見つけた。
(もう大丈夫だ……)
フォンザーの体から力が抜け、彼は鎧をガチャリと鳴らして固い地面に倒れ込んだ。
 テリドア帝国の陥落と共に、夜は深まっていった。

 二度と目覚めるはずのない黒騎士は木漏れ日に囁かれ瞼を持ち上げた。
「…………」
全身に刻まれた傷を感じつつもフォンザーは首を動かして辺りを見回した。すると横たわる彼の隣に、はちみつ色の髪をぽやぽやと生やした小さなハルサラーナ姫がすやすやとよく眠っていた。
「あなたの隣へ寝かさないと酷く泣くのです」
黒騎士が声のした方へパッと顔を向けるとクレリアが白いローブ姿で立っていた。
「おはようございます黒骨の騎士フォンザー。暴君グリシュナの城は完全に落ちましたよ」
「……なぜ俺は生きている?」
「姫さまが生かしたからです」
「何?」
「姫さまを思うなら、無理をしないで」
体を起こしかけたフォンザーをクレリアは片手で制する。
「世界に還るはずの命を、姫さまはすんでのところで引き留めたのです。そのお力によって。まだ魔法が何かも知らないのに」
「何を言ってる?」
「言ったままのことを」
クレリアが近付くとフォンザーは身構えた。
「このまま起き上がるなら包帯を取り替えましょう。しかし、そのあとはよく休んで。今のあなたはハルサラーナ姫によって引き留められているだけ。無理をすると次こそ本当に死にますし、姫さまの命もあなたに引きずられて危うくなるのです。姫さまを危険にさらすことはあなたにとって不本意なはず」
フォンザーは包帯の下から黄金の瞳で白魔法使いを睨んだが、傍らに眠る乳飲み子を見つめるとゆっくり体を起こした。
「聞き分けがよくて助かります」
クレリアはそばにある真新しい包帯を手に取った。

 フォンザーは夢を見た。はちみつ色の髪の子が泣いている。暗い森の奥で、たった一人で。
「パパーぁ!」
まだ歩くのもやっとな、喃語を終えたばかりの少女が泣いている。カイルギの南の海より鮮やかな青色が、涙と共に溢れそうだ。
「パパー!」
何故、自分は胸が潰れるような思いに駆られるのだろう? 何故、こんなに苦しいのだろう?
「パパー!」

 フォンザーは飛び起きた。激しく打つ鼓動と髪を濡らすほどの汗が不快だった。気付けば、傍らには包帯を洗う白魔法使いがいた。
「……酷くうなされていました。悪夢を?」
フォンザーは答えず、近くにあったタオルで顔と短い黒髪を拭いた。タオルからはほんのり薬草の香りがしている。きっと魔法使いが消毒に使ったのだろう。大きく息を吐いて気を落ち着かせると、彼はゆっくり立ち上がる。
「まだ怪我は治っていませんよ」
クレリアの声を無視してフォンザーは半裸に包帯を巻いた姿で森小屋の外へ出た。

 森の空気は澄んでいた。フォンザーはドラゴニーズだったが、街中でトーラーに囲まれて育ち森での生活を知らなかった。
 テリドア帝国の中には数人ドラゴニーズがいて、皆グリシュナ皇帝の祖父や、さらにその祖父たちに代々仕えていた。ドラゴニーズたちは、共通の父母を持たずとも自ずと集まりお互いを兄弟と呼んだ。歳がずっと離れれば親子のようにも振る舞った。
フォンザーにも師と呼べる年上のドラゴニーズがいた。その男はフォンザーが生まれた時すでに六百歳を越えていて、これから老いる頃合いだった。
フォンザーは師である彼に力の使い方と制御法、皇帝の膝元につけるような話術と武術を教わった。寡黙なフォンザーに話術は伴わなかったものの、弟子たるフォンザーは水を飲むように武術を吸い込んでいった。
 フォンザーは森を知らない。けれど、やはり竜の力は森と相性がいいのだろう。フォンザーは深く息を吸い、吐いた。目を閉じ耳をすませばぷちぷちと、土の下で種が芽吹く音が聞こえる。
「体を冷やしますよ」
白魔法使いが黒いローブを手に背後に立っていた。目を瞑ったままフォンザーはそれを感じ取り、しかし何も言わなかった。
「竜の子が見る夢は予知夢の場合も多いのです。悪い夢を見たなら、これからは私たちに共有してください。姫さまに関することなら尚のこと」
「……いいか」
フォンザーは白魔法使いに振り向いた。エルフィンの血を感じさせるエメラルドの瞳がこちらを見ている。
「俺は姫に仕える気はあっても、お前たちと馴れ合う気はない」
フォンザーは哀しげなクレリアを睨みつけて森小屋に戻っていった──。


「しっ」
 森の中を順調に進んでいたら白魔法使いクレリアとハルサラーナ姫が同時に反応し、周りの足を引き留めた。
「パードレ、降ろして」
「しかし」
「はやくはやく」
姫に促されるまま黒骨の騎士フォンザーはしゃがみ、マフラー状のおんぶ紐を外す。
「どうしたんだい二人して?」
「誰か、泣いてるの」
「うん?」
「女性の声ですが、聞こえませんか?」
軽業士のディミトラと狩人のアレッキオは首を横に振った。ドラゴニーズのフォンザーはじっと耳を澄ませて、森の奥に意識を向ける。
「……かすかだが、聞こえる」
「私と姫さまとフォンザーだけが聞こえるという事は、生き物ではありませんね」
「精霊さま?」
「その可能性が高いです。参りましょう」
「俺としては早々に人混みに紛れたいのだが……」
「パードレ、あの人とっても悲しそうよ」
「……仕方ない」
ハルサラーナ姫はクレリアと見つめ合って頷くとフォンザーの手を引いた。
「こっち!」
駆け出したハルサラーナ姫に手を引かれ屈んだまま森の深くへ踏み入るフォンザー。その後を三人の従者は早足で追いかけた。

 泣き声の主はすぐに見つかった。森の奥には泉があり、その淵に腰掛けて両手で顔を覆う半裸の乙女の姿があった。濡れた栗色の髪に日の光が当たって金の輪が浮かび上がっている。
「おおっと」
アレッキオは刺激の強さに思わず目を逸らした。フォンザーは走るまま乙女に駆け寄ろうとしたハルサラーナ姫を引き留め、腕に抱えるとゆっくり乙女に近付く。
「精霊さま精霊さま、どうして泣くの? 何が悲しいの?」
ハルサラーナ姫の問いかけに乙女は手をどけて顔を上げた。新緑の若い芽のような緑の瞳が姫に向けられる。
「ああ、運命の子! 私たちの小さな姫……イェル・アル・サリーナ(聖なる場所へ導く者)……どうか私の嘆きを聞いて」
「聞くわ、精霊さま。どうしたの? 何がそんなに、喉が枯れるほど悲しいの?」
泉の乙女はまたわっと泣き出した。フォンザーの腕の中にいるまま乙女に近付いたハルサラーナ姫は泉の精の滑らかな肩をそっと撫でた。
「私は、大切な物をなくしてしまったの。イェル・アル・サリーナ……。とても大切な物を」
「何をなくしたの?」
泉の乙女は再び顔を上げて小さな姫を見つめた。
「大いなる方から授かった聖剣を、人の子に盗まれてしまったのです。とても大切な物なのに……」
「せいけん?」
はちみつ色の髪の姫はすぐに想像が及ばず南の海より鮮やかな青い瞳でフォンザーを見上げた。
「神や精霊により聖なる力を与えられた剣のことです。つまり、魔法の剣です」
「そう……。まほうの物だから、なくなって困ってるのね」
「そうです。イェル・アル・サリーナ……」
「パードレ、魔法の剣の探し方を知ってる?」
「……乙女の代わりに探しに行くのですか?」
「うん。だって、精霊さまは私がパードレとはぐれた時、迷子になった時たすけてくれたの。だから今度はわたしが精霊さまをたすけるの」
 三年前、ハルサラーナ姫は森の深くで反乱軍に追われた際フォンザーたちとはぐれてしまった。絶望的な状況だったが、彼女は持ち前の精霊に愛される性質を遺憾なく発揮し従者たちの元へ戻ってきた。
「お願いパードレ。精霊さまをたすけるの。一緒に探して」
「……それが姫の願いならば」
 姫は満足そうに微笑んで泉の乙女に振り向いた。
「大丈夫、みんなで探すわ。みんなで」
「ああ、ありがとう運命の子……」

 白魔法使いクレリアと竜の子フォンザーがいたため泉の乙女は素直な態度を示し、探すべき聖剣の形を水を使って表し一行に見せる。その剣はクウィロン(棒鍔)の形がUの字で独特で、フォンザーたちはすぐに剣の形を覚えた。
「私はこの剣を授かり、これよりシルベルフへ帰るつもりでした。しかし誰かに盗まれ……誰かはわかりません、その場を見ていませんから」
泉の乙女の話にアレッキオもディミトラも頷いている。泉の乙女は二人にも聞こえるよう人の言葉を使ってくれた。
「なら人の子とは限らない」
「残念ながら人の子なのです。足跡が、背の高い者の足でした。竜の子でもありません。土の子でもないのです。そして私たちの子はそんなことをしません」
「消去法で行くとトーラーだと言うことか」
「同じトーラーの身としてお詫び申し上げます。精霊さま」
泉の乙女は首を横に振った。
「あれは大いなる柱の御技……一度見てしまえば惹かれるのは当然です」
「まぁ見た目はカッコいいけど、そこは個人の好みに寄るような」
「そう言うことではないのですアレッキオ。聖剣は神々や精霊の力そのもの。突然現れた美女に誘惑されるようなものです」
「え、それ俺たちが探さない方がいいんじゃあ……?」
「お前が手放したくないなどと口にしたら俺が責任を持って顔を張り飛ばす」
「やめてくれ。顔の形が変わる」
「精霊さま。その聖剣は私どもが手にして大丈夫なものですか? 持ちあげられぬと言うことはございませんか?」
泉の乙女はまだ濡れている瞳でクレリアをぽかんと見つめた。乙女はそして、ああと溜め息を漏らした。
「……選ばれし者の手でしか剣は輝きません」
「やはり……」
「クレリアクレリア、解説しておくれ。只人にはさっぱりだよ」
「ええ。つまり、聖剣には正当な持ち手が存在する。その者以外にはその場から動かす力がないのです」
「えっ!? でも本当の持ち主以外に盗まれたんだろう!?」
「その辺りは調べなければわかりません。ともかく、持って行かれるはずのないものが持ち出された。精霊さまもまさかこんな事態になるとは思わず途方に暮れていらっしゃるのです」
「ああ、本当に困った事態なんだね!」
「何てこと。お可哀想にねえ……」
ハルサラーナ姫は小さなローブ姿でまたフォンザーを見上げた。
「パードレ、どうしたら剣を持ち上げられると思う?」
「……この場合、無理に持ち上げず見つけた場所へ泉の乙女を呼び出すのがよいかと」
「剣を見つけたら精霊さまを呼ぶのね! それならわたしにも出来る!」
「そうですね、一番近い水辺に精霊さまをお呼びするのがよいと思われます。いかがでしょう?」
「ええ、そのようにしてください。運命の子、夜の子。そして私たちの子」
「畏まりました。見つけ次第お知らせ致します。しばしのご辛抱を」
泉の乙女はようやく表情を和らげ、清流に咲く花のように微笑んだ。

「ああ、いい女だった……」
「やめろ、姫の前だぞ」
「本当に美人だった……」
 アレッキオは町へ差しかかる頃噛み締めるようにそんなことを呟いた。
「口説くって考えまでいかなかったのが惜しい」
「精霊は口説くものじゃない。それに人の子なら口説かれる側だぞ」
「そうなんだよなぁ〜惜しい」
「いい加減にしろ」
フォンザーが太い腕を振る素振りを見せるとアレッキオはぴょんと跳んでフォンザーから距離を取った。
「わかった!」
「お前の口と尻の軽さはどうにかならんのか」
「身軽って言って欲しいね」
「言ってろ」

 一行は橋を越え町の中へ踏み入る。大通りは店が賑わい人通りも多い。フォンザーはハルサラーナ姫が潰されないよう、クレリアに手を引かれていた彼女を持ち上げると己の首に跨らせた。
「パードレの肩車!」
姫は明るい声を出して大いに喜んだ。
「眺めがよくて羨ましいねえ」
テラムンのディミトラは眩しそうに姫を見上げる。
「左肩なら空いてるぞ」
「ふっ。気持ちは嬉しいけど、遠慮しとくよ」
町の様子を探るためフォンザーが視線を動かすと、遠くにトーラーたちから頭一つ飛び出たドラゴニーズの姿が見えお互い目が合う。相手は白い肌、赤い髪にオレンジゴールドの瞳で、ヘラジカのような大きく幅の広いベージュのツノを持っていた。お互いに軽く手を挙げると、相手のドラゴニーズは己の右方向を指差し歩いて行った。
「誰かいた?」
「赤い髪の兄弟がいた。飯屋か酒場に案内してくれそうだ」
「こういう時、ドラゴニーズの絆の強さは助かるねえ」
「そうだねえ。あたしもまさかドラゴニーズが独自に築いてる情報網があるとは知らなかったよ」
「竜は山の一つ二つ越えて当然だからな。国を越えた繋がりがないと厳しい」


 ──ドラゴニーズが国の繋がりよりも血の繋がりを重視することは世間に知れ渡って久しい。しかしその詳細を知る者は他種族にはなかなかおらず、ディミトラやアレッキオも「そう言うものだ」としか捉えていなかった。
 五年前、ハルサラーナ姫とようやく旅の連れ合いとなった従者三人は赤子の姫よりも黒骨の騎士に手を焼いていた。
「ちょっと、今日も一人で食事かい」
 ディミトラが声をかけたから足を止めたものの、まだ鎧下の内に着る薄い下着に黒いローブを引っ掛けただけのフォンザーは彼女を金の瞳で見下ろして宿の部屋から出て行く。深傷が癒えたかも怪しい背中を見送り、ディミトラは溜め息をついた。
「もう三週間だってのにまだあれかい? 拗ねた子供じゃないんだから」
ディミトラの愚痴を流し聞きながらアレッキオは借り物のリュートを調律がてら作曲をしている。傍らにいる乳飲み子への語り聞かせも兼ねて。
「帝国人ってのは四方を別の国に囲まれてるから態度が頑ななのさ」
「だとしてもだよ。あたしたちは姫さまを中心とした連れ合いだよ? いつまでもあの態度でいられると思ってんのかね」
「さあ、そこはどうだか」
ポロロン、とアレッキオはリュートを鳴らす。
「あたし、ちょっとついて行くよ」
「やめときなよ。俺の美声になびかない奴だぜ?」
「だからこそだよ」
ディミトラは小さな背で塔の如き大きな背を追いかけた。

 黒騎士はクレリアが用意した黒いローブで頭を隠してはいるものの、槍のように鋭い黒いツノは遠目からでもよく分かる。
その黒騎士は人混みを掻き分けながらどこかへ真っ直ぐ向かって行く。
(初めて来る町だろうに迷わずに進むね)
黒騎士フォンザーはやがてある酒場の戸をくぐった。ディミトラは物陰に隠れるようにして彼の姿を目で追う。すると他のドラゴニーズの男が二人、まるで黒騎士を待っていたかのように大きく腕を広げ「兄弟!」と呼びかけるところだった。
(ドラゴニーズ同士で待ち合わせでもしてたってのかい? でもそんな暇は……なかったよね。町には着いたばかりだし……)
ディミトラはフォンザーとドラゴニーズたちの近くへ寄り、適当にビールを頼んだ。耳を傾けていると三人が何か話しているが、竜語を使っているためディミトラには意味が分からなかった。
(お手上げだ。クレリアなら多少は聞き取れたんだろうけど……)
彼らの身振り手振りを観察していると、どうも何かの場所について教え合っているようだった。黒騎士は二人の話に頷いて、また自分も何か話している。
ある程度情報交換が済むと竜人たちは酒を頼みだした。ビールを片手に三人は公用語で冗談を言い合い、ディミトラは普段自分たちに厳しい表情しか見せないフォンザーが自然と微笑んでいるのを見て胸の中にもやりとした影が立ち上るのを感じた。
 つまみ程度ではあったもののフォンザーは竜人二人に食事を奢ってもらい、その後彼はその足で傭兵ギルドのある別の酒場へ向かった。ディミトラはギルドへ入って行ったフォンザーを見届けてから踵を返し、アレッキオと姫の待つ宿へと戻った。

「ふぅん」
 買い物へ出ていたクレリアも戻って来ていて丁度いいからとディミトラは見たままを二人に話した。
「同族とあたしたちで態度が違いすぎだ。あたしたち本当に信用されてないんだよ」
「帝国人なんてそんなもんだろ?」
「ヴォナキアの同族には頼るのにかい?」
「それは……ええと」
「……ドラゴニーズはエルフィンと同様半精霊と呼ばれる種族です。種族独自の情報網や流通があるのでしょう。不思議なことではありません。私が育ったエルフィンの村も一緒でしたから」
「だとしても、あんたはあたしとすぐ仲良くなったろう!?」
「私の場合は困っていたところを貴女に親切にして頂いたからですし、黒骨の騎士とは事情が違います」
ディミトラが再び口を開こうとした時、廊下にゴツンゴツンと重い足音が響いた。その足音は真っ直ぐこの部屋に向かって来て、三人が身構える前に扉は開かれた。戸を潜ってきたのは今では馴染み深い、鉄甲付きの革靴に露出を避けた厚手の暗い色の服、その上に黒いフード付きのローブを羽織り口元も布で覆った姿のフォンザーだった。
目を丸くしている従者三人を目視するとフォンザーは握っていた麻袋を白魔法使いの前に差し出す。
「これは?」
「姫のおしめの替えだ。預ける」
「わざわざ買って来てくれたのですか?」
「仕事の報酬だ」
短く言い放つとフォンザーは姫が寝ている揺り籠のそばへ行き、傍らに腰掛けると片膝を立てた上に腕を置き目を瞑った。フォンザーはこの頃、よくこうした体勢で眠っていた。
元帝国兵黒騎士がそうして静かになると従者たちは顔を見合わせた。クレリアが麻袋を開くと布のおしめとは別に小さな袋があり、その中身はギニル硬貨と小さいながらもよく磨かれた美しい宝石だった。
「……この短時間で随分稼いで来たね」
クレリアはチラリとフォンザーを見やった。静かに眠る竜人は相変わらず何を考えているのかわからない。
「姫の生活費でしょう。大切に使わなくては」
「まあ、そうだね」
「宝石は売ってパッと酒盛りしようよ!」
クレリアとディミトラの両名に睨まれると、アレッキオは亀のように首を竦めた。

 フォンザーのその態度はしばらく続いた。いつの間にか加入していた傭兵ギルドで日銭を稼いでは報酬のおまけに姫に関する必要物資を得て、釣りと言わんばかりに硬貨を小袋に詰め白魔法使いに預けた。しかし従者たちとは決して自らの財布と食事は共有せず、町にドラゴニーズがいれば真っ先に彼らを頼った。
 ハルサラーナ姫がまだハイハイも覚えていないある日、ディミトラは宿を出て行くフォンザーの後について行った。しかし今度は堂々と。フォンザーは彼女を一瞥したが何も言わずにその町にいたドラゴニーズの元を訪れた。
「兄弟!」
「兄弟」
 酒場に着いたフォンザーは茶髪のドラゴニーズと抱擁しあった。
「よく来たな」
「しばらく世話になる」
「ああ。ゆっくりしていってくれ」
壮年のドラゴニーズはそばに立つディミトラに微笑んでから二人を席へ促すとレモン水を注文する。
「ここはビールよりレモン水の方が美味くてね」
「そうか」
「それで、その後はどう?」
竜人たちは竜語で話し始めた。フォンザーが何か事情を説明し、相手が静かに頷く。次は相手が何か話しながらレモン水を口にし、フォンザーが頷く。
ディミトラは聞き取れないながらも、彼らの表情や身振りから会話のおおよそを推測した。
フォンザーは帝国の崩壊と共に追われ、同族を頼りながら移動していること。まだ乳飲み子の姫を抱え、彼女には他にも従者がいること。そして次にどこを目指せばいいか、しばらくどこへ隠れるかを考えていることだった。
茶髪のドラゴニーズはテーブルの物を使い今いる町と次に目指すべき方角を示し、兵士の多い表街道の村は避け裏街道から山を越え寒村を目指すよう勧める。
(なるほど、行く先々でこう言うやり取りをしてるんだね)
二人は情報交換を終えるとディミトラに視線を向けた。
「で、彼女が曲芸師のテラムンなんだな」
「そうだ」
「おっと、あたしらのことも知ってんのかい」
「もちろん。兄弟の話なら近隣の同族ですぐ共有するからな。それで、我々の“おしめ様”は?」
「さすがにまだ連れて歩ける歳じゃない」
「そうか。残念。はちみつ色の髪を見たかったんだが」
「そんなことまで知ってんのかいあんた」
「もちろん。我々は寿命が長いからな。トーラーが中心になってる国の発展も衰退も見守る羽目になる。彼らの情報に頼ると話が雑なうえ多すぎてね。必要なところが入って来ない。だから兄弟のみの情報に絞ってやり取りしてるのさ。誰がどの山や川辺に住んでるか、どこへ引っ越した、家族は何人とかね」
「へえ」
「国王が変わって国を追われる兄弟なんてザラにいる。そういう時は誰それを頼るといいとか、山二つ先に安全な隠れ家があるよとかそういう話をしておくんだ」
「……国を追われた同族の話なんてその国で出来るのかい?」
茶髪の男はディミトラにニッと口の端を上げてみせた。
「そのために国に頼らない情報網を持ってる」
「ははぁ、なるほどね」
「兄弟本人に会ったことはなくても俺たちはお互いを知ってる。容姿も人柄も、どう移動したか何が必要かも。困っている兄弟を助けるのは当たり前だし助けてもらった兄弟は次に別の兄弟を助ける。俺たちはそうやって生きて来たんだ」
ディミトラはようやく合点がいった。フォンザーは自分たちへの信用とは別で、姫が危険な目にあったら自分がいなくても“兄弟”に助けてもらえるよう彼らと細かな情報を共有していたのだ。
「だから君たちは俺たちドラゴニーズを見かけたら迷いなく頼っていい。我々にとってもおしめ様は大切だからな」
「そう言うことなら遠慮しないよ。ただ、」
「ただ?」
「……そう言う話はこの男の口から聞きたかったね」
「はっはっは! 口下手なのは噂通りだな兄弟!」
バンバンと景気よく背中を叩かれたフォンザーはしれっとした顔でレモン水を飲み干した。

 残りの二人にもこの話をした方がいいとディミトラに促されたフォンザーは帝国を追われてから一月半経ったこの日、やっと従者たちと夕食を共にした。
「俺は名と顔が知られているしこの体格では目立つ。追われているのはもっぱら俺と姫だから、俺や姫の食事は毒が盛られていると考えていい」
「だから頑なに食事を分けてたのか」
「他に理由があるか?」
「子供みたいに拗ねてるんだと思ってたんだよ」
「百歳にも満たないお前たちに言われたくないな」
「あっ、そう言うことを」
意味深に目を細めたフォンザーを見てクレリアは何かに気付き彼の顔をじっと見つめた。
「何だ」
「……むしろ、勘違いされる状況を狙ったのではないですか?」
フォンザーは目を伏せ肩を竦めた。それは肯定以外の何物でもなかった。
「やはり」
「じゃあ何だい? あたしがあんたの行動から信用されてないって早とちりして、二人にあいつはダメだって相談するところまで考えて狙ったってのかい?」
「気付かれてしまったのなら狙いようがないな」
「あんたって奴は!」
ディミトラは大いに呆れた。
「冷静に考えて姫の世話はお前たちがして、俺は別行動の方が効率がいいからな。俺は陽動と遊撃だ」
「参ったね。こりゃ根っからの軍人だ」
「二百年帝国に仕えたのだ。見くびられては困る」
「二百年!!」
「あんた幾つだい!?」
「二百二十だ」
「おったまげた! それでその見目の若さかい!? あたしなんてまだ小娘じゃないか!」
「だから、百にも満たないお前たちに子供扱いされるのは筋違いだと言っている」
「なんてこった」
白魔法使いクレリアは動かぬ表情でフォンザーをじっと見つめ続けていた。
「何だ、白魔法使い」
「今もまだ別行動が出来るならそうすべきだと?」
「当然だ」
「ではやはり、あなたには早々に情報を共有すべきですね。……運命の子の予言について」
「何?」

 翌朝、日が昇る頃。宿で働く使用人たちは慌ただしく動き始める。その騒がしい時間を狙いクレリアは仲間と共に黒骨の騎士を前に椅子に腰掛けていた。
「この騒がしさで話が出来るか?」
「ご心配なさらず」
白魔法使いは立ち上がると身の丈ほどもある杖を戸へ向け、エルフィン語を小さく唱える。安宿の扉に錠などないのにカチリと鍵が閉まったような音がして、周りは静寂に包まれた。
「ほう、さすがは魔法使いと言ったところか」
「では黒骨の騎士、フォンザー・ベルエフェ。これからする話は他言無用です」
「そうだろうな」
クレリアは静かに椅子へ腰を下ろした。
「“全ての野山が氷に閉ざされる時、全ての丘に剣が突き立てられる時、運命の子は現れる。精霊を統べる王が現れる。その子どもは雪の深い黒の国より生まれ、恐ろしい氷の腹から生まれ出でる。世界は闇を呼ぶ者によって雪の中に沈み、光を呼ぶ者によって炎の中から再び生まれ出る。心を研げ、子を隠せ。魔は人々の心にある。赤い鐘の音に備えよ。終末の時は近い。”……これが精霊の子スリブランによる予言の一つです」
「おい、まさか予言を全部頭に入れてるのか?」
「一節覚えるまで夕食を抜かれました」
「軍人かお前は」
「修行が厳しいのはどこでも同じでしょう」
「いや、まあ。……それで?」
「大衆に広く知られているのはこれだけですが、エルフィンの間で伝えられているものにはこの続きが存在します。では残りを」
クレリアは調子を整えるためンッと喉を鳴らす。
「“運命の子に従う者がある。一つ目は白い花に蔓が巻く頃生まれ、我の血に連なり我の言葉をよく識る者。運命の子のため初めに大地を踏みしめる者。”……これは私のことです。春と夏の間に生まれ、妖精の子であるエルフィンの血を受け継ぎ、彼の教えを理解する事が出来る。つまり、エルフィンに育てられエルフィン語を習得した魔法使いを指します」
「予言の部分だけでは漠然としていてお前かどうか怪しい」
「予言と言うのは総じてそう言うものですよ黒骨の騎士。予言をする者は未来を見る。しかし未来とはたった一つ過程が違うだけで大きく変わります。ブレる、前提で言葉を組まないと様々に響くのです」
「何とでも言える」
「当たる部分も当たらぬ部分も含めて予言なのですよ。続けます。……“二つ目はやじりのような剣を操る者。白い花の蔓と共に次に大地を踏みしめる者。旅立つ時、その者は握りしめた宝を放り出す”」
クレリアの視線を受けたディミトラが頷く。
「あたしのことさ。やじりのような剣ってのは曲芸で使うナイフのこと。ナイフ投げだからね、あたしは」
「握りしめた宝は?」
「うちの団は盗みもしてたのさ。宝を捨てるってのは、つまり足抜けするってことだね」
「元盗賊か」
「殺人はしないよ。団長は殺しが嫌いだったからね。こっそり合鍵を作って、こっそり頂くのさ。あたしは団長の教えで錠前破りをしてた」
「ほう」
ディミトラはクレリアに視線を振る。クレリアは頷いてアレッキオを見てから、フォンザーに視線を戻した。
「“三つ目は弦(つる)を爪弾く腕を二つ持つ者。鷹の如き瞳で赤い果実を射抜き、神々に届く声を持つ。やじりを投げる者と共に矢を放ち、かの者もまた大地を踏みしめる”」
「俺のこと! いやぁ精霊直々に美声だって褒められるの俺くらいなんじゃなーい?」
「弦を爪弾く腕が二つ。つまり、弓と楽器を操る者という意味です。アレッキオはたまたま酒場で出会した私たちが逃げ出す際助けてくださり、そのまま連れ合いになりました」
そこまで聞き、フォンザーは次が読めた。
「……四人目がいるのか」
「はい。あなたのことです」
「……予言は何と?」
「“四つ目は、黒骨より出で、運命の子に最も傅き、運命の子を最も愛する者。運命の子もまた黒骨より出でし者を深く愛する。その者は大地が黄昏に向かう前に炎に囲まれ鱗を失う。弦を爪弾く者のあと、大地を踏みしめる”」
言葉を切ったクレリアと静かに聞き入ったフォンザーはじっと見つめ合った。
「大地が黄昏に向かう。つまり収穫の時期を迎える秋より前の晩夏。一月半前のあの日、あなたはあの場で黒い骨のように燻る建材に囲まれ力尽きていました。鱗は、鎧のことでしょう。そして鱗と言う表現から、トーラーではないことが分かります。竜の子であり姫に忠誠を誓ったのはあなただけです」
「言い切るには早い」
「他に誰がいるのですか? 姫さまを己の子のように腕に抱く者が他にいるのでしょうか? いいえ」
他の誰でもないとクレリアは念を押して首を横に振った。
「何より、力尽きかけたあなたを救ったのはまだ魔法も知らぬ姫さまです。その強い思いに愛以外の、何がありましょう?」
フォンザーは視線を下げた。
「……姫を最も愛する者など陛下以外に誰がおろう」
「あの暴君が娘を愛してたってのかい?」
「違いない。俺は、陛下が姫の金の髪を優しく撫でるのを見た。姫君の祖母に似ていると目を細めたのを間近で見た。この目で」
フォンザーは三人の前で初めて、哀しげに眉根に皺を寄せ固く目を閉じた。
「他に、誰がおろう」
三人はフォンザーの様子をじっと見守った。そう思えることこそ、姫を深く思いやり深く愛しているからこそ、そう思うのだと感じ取っていた。黒骨の騎士はややあって瞼を開く。
「……陛下が生き延びて戻ってくる可能性もある」
「まあ、あり得なくはないけど」
「生きてたら国の復興に行くだろうよ。皇帝が旅の連れ合いになるもんか」
「その辺りは予言の解釈に寄るだろう。漠然としているのだからな」
「グリシュナに鱗があれば別ですが、あなたの希望的観測と予言はすれ違うと思いますよ」
フォンザーは視線を落としてまた静かになってしまった。
「これで、あなたが黒骨の騎士と呼ばれること、姫さまから離れてはいけない理由が分かりましたね?」
「……予言に乗るのは癪だが」
騎士は傍らに眠る幼い姫君に振り向いた。
「この命はとうに姫に捧げている」
その忠誠を確かに聞いた。そう言わんばかりに赤子のハルサラーナは柔らかな微笑みを浮かべた──。


 赤い髪のドラゴニーズについて行くとそこは大衆食堂だった。槍のように鋭い黒いツノを持つフォンザーが屈んで入り口を潜ると、近くのトーラーからおおっと声が上がった。
「黒いツノだ。珍しい」
「いらっしゃい。よく来たねえ」
「兄弟!」
周りに会釈をし、声がした方に振り向くと赤い髪のドラゴニーズが手を挙げていた。その者に近付くと相手は立ち上がってフォンザーとがっしり腕を掴み合う。
「兄弟」
こんにちは、と言うニュアンスでフォンザーはそう口にした。赤髪のドラゴニーズはフォンザーの肩に乗る小さな姫の正体を一目で見抜き、人懐こい笑顔を見せた。
「ご機嫌よう、小さな白ずきんさま」
「ごきげんよう、はじめまして!」
「はじめまして。さ、お席にどうぞ」
 一行がゆっくり出来るようにと赤髪のドラゴニーズ、クリストフは食堂の壁際のテーブルに招いてくれた。クリストフの隣にフォンザーが座り、その隣にハルサラーナ姫。その隣にクレリアが並んで全員で円卓を囲む。
「噂に聞いてはいたんだけど実際見かけると感動するよ」
「はちみつ姫の話かい?」
「ああ、兄弟が可愛い白ずきんを連れて歩いてるってね」
クリストフは遠回しな言い方で、黒骨の騎士と運命の子が旅をしている話が相変わらずドラゴニーズの間で持ちきりになっていると伝える。
「二つ隣の町だが、セントラルブランにも兄弟がいる。そちらへ行くなら頼るといい」
「ありがとう。それで兄弟、君は? ここに住んで長いのか?」
「ああ。ウチはお爺の代からだからざっと五百年」
「うへ、さすがドラゴニーズ」
「トーラーは俺たちの十分の一くらいだもんなぁ、寿命が」
「テラムンのあたしたちはもっと短いよ」
「確かに。でもここはソン・サザリーム。テラムンも俺たちもトーラーも関係なく住んでる。酷く仲違いもしないよ」
「そのようだな」
食堂に集うトーラーたちがフォンザーを怖がらなかった様子から、彼らが上手く隣人としてやっているのだろうとは感じ取れた。
「兄弟、妙な話を聞いたのだが相談に乗ってくれないだろうか?」
「構わないよ」
フォンザーは仲間が朝食をとる間、竜語を使いクリストフと話を始める。どうにも魔法使いらしき者に元帝国兵である自分と姫が追われていると。
クリストフは話を聞いて腕を組み、うーんと首を傾げる。
「おっかない話はここらじゃ聞かないからなぁ……」
「相手が魔法使いだと人混みにいても森にいても追いかけられる。隠れられるところがあれば紹介してもらいたい。あと、他の兄弟にもこの話を伝えて欲しい」
「いいとも。隠れ家はないけど……この町にいるならまずウチに寄るといい。母は老体だが健在だし、君たちの顔を見たら喜ぶよ。なんなら泊まっていって」
「助かる」
「なんの。困った時はお互い様さ」
話を終えるとフォンザーはハルサラーナ姫に振り向く。
「サラーナ様、この町にいる間はクリストフの家に泊めていただけるようです」
「本当!? ありがとうクリストフさん!」
「白ずきんさんが来たらウチのみーんなが喜びますよ」
「ドラゴニーズの家なら安心だ。テーブルはでかいし、ベッドは広い!」
「ああ、かまども鍋も大きいね」
「ありがとうございますミスター・クリストフ」
「兄弟のためならいつでも。ウチは五番通りのすぐにあるから先に行ってておくれ。俺は仕事へ行くから」
「ありがとう兄弟」

 ヴォナキア王国の内陸の町、ソン・サザリーム。その五番通りに目的の家はあった。三角屋根の白い漆喰の大きな二階建ての家は、トーラーなら三階建てに出来ただろう。
「おっきなおうち!」
ハルサラーナ姫は玄関先で喜んだ。フォンザーがノッカーを打ちしばらく待つと、扉が開き老婦人が顔を出す。
「はいはいどなた……? あら! あらあら! まあまあいらっしゃい!」
クリストフの母親は訪れた闇竜の子の顔を見るとぱっと表情を明るくした。
「旅の者です。クリストフ殿に紹介を受けて来まして」
「ええ、そうでしょう。さあさあ中にお入りなさい。すぐお茶を淹れますからね」
 クリストフの母、エマの案内で一行は広く大きな家の居間に案内された。ハルサラーナ姫は大きな大きなソファに喜んで、荷物も下ろさないままソファに飛び込んだ。
「大きい!」
「姫、はしたないですよ」
「パードレも飛び込むといいわ!」
「駄目です」
フォンザーに引き戻されハルサラーナ姫はぷぅとほっぺを膨らませた。エマが淹れたミルクティーを飲み、一行はほっと胸を撫で下ろした。
「これ美味しい」
「ほんとにねえ」
「茶葉以外にも何か入っていますね。これは……シナモン?」
「ええ、そうですよ。うちはいつもシナモンを入れるの」
「おいしいわ!」
「そう? 良かった」
 お茶を終え、クレリアとハルサラーナとディミトラはエマに案内され泊まる部屋を決め入浴の準備を進める。
「ここのところ川辺で洗うことしか出来なかったので、サラーナ様に湯浴みをさせてあげたいのです」
「ええ、ええ。長旅でお疲れですものね。ゆっくり入ってちょうだい」
残された男性二人は別の部屋をもらい、その間どうするかと居間で顔を見合わせる。
「酒場に行きたい」
「昼から飲むな」
「サラーナ様に合わせてると酒が飲めねえの!」
「その甘い声が酒焼けしても知らんぞ」
「“爪弾く者”の喉と回復力を舐めてもらっちゃ困るね」
 男たちが軽口を叩き合っていると、居間に通ずる玄関の扉が雑に開けられる。
「おかあさーんただい……あらやだ!」
扉をお尻で押して入って来たのは白い肌、朝焼けのごとき豊かな長髪、太陽のようなオレンジゴールドの瞳。髪と揃いのまつ毛が瞳を華やかに飾り立てる。胸と腰は程よく豊かでウエストは引き締まっている。四肢はすらりと長い。女性ゆえにツノこそないものの、その体躯からして明らかに竜の子だった。彼女は黒いツノを持つフォンザーを見るとたっぷり持った買い物の袋を下ろして手櫛で髪を整えた。
「い、いらっしゃい!」
ドラゴニーズの年頃の娘は異邦の男を見て頬を染めた。
「クリストフの奴……こんな美人の妹がいるなんて!」
アレッキオがすぐさまナンパをしそうだったのでフォンザーはすかさず彼の背中の肉をつねった。
「いっっって!」
「お邪魔しています」
「初めまして。ごめんなさい何にも構ってない格好で……。あっすぐ片付けます!」
「手伝います」
「大丈夫よ!」
食材をしまったドラゴニーズの女性は慌てて上の部屋へ行き、「お母さんお客さんが来てるなら言って!」と叫んでいた。

 女性たちはキッチンへ食材を持ち寄り献立の相談を始めてしまったので、暇になった男性たちは街中を歩くことにした。フォンザーは薪割りでもしようとしたのだが、さすがドラゴニーズの一族。その辺りの力仕事は男性たちが普段から片付けてしまっていた。
「暇だな」
「俺はご婦人たちと忙しくしたいんだけど〜!」
「お前の場合騒ぎに発展しかねんからやめろ」
「そうは言っても常に幼な子と一緒じゃ限度があるだろ! な、ちょっとだけ」
フォンザーはアレッキオの顔を見て溜め息と共に首を振った。仕方ないな、という態度にアレッキオは笑顔になる。
「やった! さすが懐の広い奴」
「俺の気が変わらないうちに行け」
「おおとも! 琥珀色の酒と麗しい乙女が俺を待つー♪」
舞台さながらに美声を出しながらアレッキオは先程の大衆食堂へ戻って行った。フォンザーはその場でやや考え、暇なら稼いでおこうとギルドの受付を探しに足を動かした。

 町の大通りのうち三番通りにギルド用の宿屋があると教えてもらったフォンザーは、入り口の大きさと既に見えていた中の様子に大変驚いた。
「兄弟!」
「おお、兄弟! おいみんな!」
ドラゴニーズと言うのは一つの街に一家族がいればいい方なのに、ギルドにはなんとクリストフ以外のドラゴニーズが五、六人いたのだ。それも見る限りツノの形と色がバラバラ。つまり、それぞれ別の家族だった。
青いツノや金色のツノの兄弟たちと握手を交わしながらフォンザーはカウンターの近くまで進む。
「兄弟。ああ、どうも。道理でトーラーが俺に怯えない訳だ」
「兄弟が来てくれて嬉しいよ! 宿を取りに?」
「いや、クリストフの家に既に案内してもらった」
「おお、そうかそうか。クリスのおっかさんの料理は美味いぞ」
「本当か? 楽しみにしておこう」
さらにカウンターの奥から出て来たのはドラゴニーズの中年男性で、フォンザーは驚いた、と両腕を広げた。
「おお、異邦の甥子よ!」
「ギルドマスターも同族とは恐れ入った」
「これでも全員じゃないぞ?」
「おいおい……」
心底驚きながらカウンターの椅子に腰掛けるとフォンザーはあっという間に親戚に囲まれた。彼らは遠慮なく竜語で話し始める。
「だがその見事な黒いツノはさすがに初めてだ! 今までどこに?」
「しーっ、ほら、噂話のあいつだろう? お前」
「ああ、はちみつ姫の!」
「そうだ」
「大変だが尊い使命だ。頑張れよ!」
「ありがとう。それで、滞在期間がわからんが仕事があれば欲しい。……残っていればだが」
「あっはっは! 遠慮するな甥子! 色々あるぞ〜」
受付に立つ青いツノに紫の髪の男は大きな冊子を取り出す。トーラーなら男でも持ち上げるのがやっとな大きさだ。
「大きいな。いや、丁度いい」
「トーラーが住むより先に我々がここにいたからな。ギルドはついでだ、ついで」
「ほう」
ここは古くは森で、長らく竜やドラゴニーズの住処だった。彼らの村が先にあり後から人が増え町となり、傭兵ギルドが加わったのだと同族たちは教えてくれた。
「なら安心して話せる。実は……」
フォンザーはクリストフにそうしたように魔法使いらしき元帝国兵に追われている話を持ち出した。
「なんせ相手がわからんから不気味でな」
「同じ国にいたなら相手を知ってるんじゃないか?」
「いや、皇帝直属の部下で息のかかった兵士と言うと絞っても百人はいる。俺なんぞ下級騎士だったし、皇帝の側近の顔は知らん」
「ああ、国が広いし軍が絡むとそうなるのか……」
「不気味な魔法使いを見つけたら捕まえておけばいいんだな?」
「そうしてくれると助かるが、無理はしなくていい」
「何、俺たちのことなら心配しなくていい。兄弟が危険な目に遭ってるなら尚更だ」
「ありがとう」
ドラゴニーズの若者たちはガシッとフォンザーの肩を掴むと「それで?」と声を落とした。
「ん?」
「もうミレーヌには会ったのか?」
「ええと……」
「クリスの妹!」
「ああ、会った。ミレーヌと言うのか。名前も美しいな」
ドラゴニーズたちは色めき立つ。
「そうだろ! な、どうだ? いい子だろ?」
「うーん……」
「おいおい彼女を前にして“悩む”はナシだぜ!?」
「使命があるからな」
「終わったらだ、終わったら!」
「ええ? 一体いつの話になるんだか」
「俺たちはトーラーより長く生きる。余暇や余生は考えておいた方がいいぞ」
フォンザーはまだ幼いハルサラーナ姫を思った。これから先、彼女がどれだけ長生きをしようともフォンザーは見送る側には違いない。トーラーの体に魔法が染み込んで長生きできたとしても、精霊の子はもっとずっと長く生きる。
「この町に戻ってくるなら歓迎するよ、兄弟」
「……兄弟の気持ちは嬉しいが、先の分からない約束は出来ない」
「真面目だな」
「ああ、安心してはちみつ姫を任せられるよ」
「数年はその姫を養っていかんといけんのだ」
「なら、今日から短期の仕事を積もう」
ギルドの受付は竜語で書かれた依頼を三つ提示してきた。
「……この町独自のものか?」
「いや、外からも受けてる。俺たちにしか出来ない仕事だ。どれからやる?」
「肩慣らしに軽めの物を」
「ならこれだ」
ギルドマスターは一枚の依頼書を差し出した。

 フォンザーは日暮れに革財布たっぷりのギニルと野菜の束を持って戻ってきて、先に帰って来ていたアレッキオ始め旅の仲間とカンテ一家は目を丸くした。
「何だそれ! どうした!?」
「今日一日分の報酬だ。水臭いぞクリス。他にも兄弟がいるなら何故教えてくれなかった?」
「え? ああ、そうか。すまん、俺たちはもう三世代目だしこれが普通で……」
「まあそうなのだろうが」
荷物を降ろしフォンザーは片付けをカンテ一家に手伝ってもらいながら、クリストフの父親レオンスとも握手を交わす。レオンスはクリストフとミレーヌの父親らしくヘラジカのような大きなツノと赤い髪、太陽のようなオレンジゴールドの瞳をしていた。
「お邪魔します、伯父上」
「何日でもゆっくりしていってくれ」
「ありがとうございます」
 夕食の席に着いたフォンザーからこの町のドラゴニーズの多さを聞くと旅の仲間は目を皿のようにした。
「そんなにいるのか!」
「軽く数えても十世帯は固い」
「世帯で数えるともう少しいる。血族で数えるなら初めは闇以外の五つ、その後トーラーを交えながらお互いの家に嫁いでいるからこの町にいる兄弟はみんな親戚だ」
「だそうだ」
「いやぁドラゴニーズの町だなぁ!」
「土地の霊力が強いとは思いましたが、古くから竜の住む地だったのですね」
「ここはソン・サルザリームだからな」
「ああ」
フォンザーは土地の古い名を聞いて納得した。
「何だって?」
「サルザリームは竜語。エルフィン語に直すとアル・サリームだ」
エルフィン語、妖精の子が使う古語に訳されクレリアが反応する。
「アル・サリーム、聖なる地。姫さまの名の由来でもある言葉ですね」
「わたしの名前とおなじなの?」
「はい。新しい土地、聖なる土地という古い言葉で良い場所と言う意味なのです」
「この土地はよい場所に住む息子、と言う名前なのです。姫はよい場所へ導く者、と言うお名前です」
「ふうん!」
深い意味はわからずとも褒められていると感じたハルサラーナ姫は薔薇色の頬を持ち上げる。
「そっか。ドラゴニーズの町ならフォンザーは遠慮しなくていいし、竜が守る土地なら魔法も強いし安全だ。しばらく泊めてもらう?」
「いや」
フォンザーは表情を曇らせる。
「今回は魔法の強い土地だからこそ気が抜けん」
旅の一行はフォンザーが足早くワスマを離れた意味を察し、ハルサラーナ姫も難しいことは分からなくても己の騎士が何か困っていることを感じた。気分を切り替えるようにフォンザーは視線をレオンスに向ける。
「だがこれだけ兄弟が多いなら心強い。俺が調べ物をする間、姫を頼みたい」
「もちろん。我らがはちみつ姫のためなら」
「それならギルドに泊まった方がいい。あそこは結界も強い」
「安全を考えるならそうなのだが……」
フォンザーはハルサラーナ姫と顔を見合わせる。
「クリストフさんのおうちにはなんにち泊まっていいの?」
「……何日泊まりたいですか?」
小さな姫は俯き、南の海のごとき青い色が陰る。
「本当は、ずっといたい。でもわたしはシルベルフの森へ行かないといけないから……。精霊さまが待ってるから行かなきゃ。でも、ミセス・カンテがクッキーの作り方を教えてくれるって」
フォンザーがレオンス、エマ夫婦の顔を見ると彼らは笑顔を見せた。
「好きなだけ泊まっていいのよサラーナちゃん」
「ほんと? 明日も泊まっていい?」
「ええ、ええ。いいですよ」
ハルサラーナ姫は明るさを取り戻してフォンザーを見上げた。
「では少なくとも出発は明後日にしましょう」
「ありがとうパードレ!」
姫はフォンザーに抱きついた。黒骨の騎士フォンザーは、小さな背中を優しく撫でた。

 カイルギの海より鮮やかな青の瞳が瞼の内に仕舞われると、フォンザーは絵本を閉じゆっくり寝床から離れ……クレリアに後を任せて居間へと戻った。
「眠った?」
アレッキオの問いにフォンザーは静かに頷く。暖炉の傍らで盃を傾けていたカンテ一家の大黒柱レオンスは二人をチラリと見た。
「あの年で長旅は辛かろう」
「無論、出来るなら安全な町や村に匿っておきたいのですが……」
「今はダメなんだ。姫さまも言ってたけど彼女はシルベルフの森へ行って妖精たちに挨拶をしなくては」
「ううむ……」
「この町のようなトーラーもテラムンも我々も住める土地があれば、姫をそこへお連れしたいところです」
「ここへ住めばいい。使命を果たしたら」
「……そうしたいのは山々なのですが」
「難しいか」
「はい」
三人の間に重い沈黙が流れる。その空気は湯浴みを終えたミレーヌによって打ち破られた。
「あっと……お話し中?」
「いや、大丈夫です」
「そう! クレリアは?」
「二階に。サラーナ様は寝たところです」
「そう。それなら声をかけてくるわ」
二階に上がっていくミレーヌの背をフォンザーはじっと見つめた。
「フォンザー。お前さん、決めた女(ひと)は?」
「いません」
「うちの娘はまだ六十だ。父親としては相手を考えてやらなきゃならんのだが……」
「私は使命があるので」
「うむ、そうだな……。だが、相手が決まらなかったら本当に戻っておいで。娘ともども歓迎するよ」
「ありがとうございます」
目の前で見合いを勧められているフォンザーを見てアレッキオは口を尖らせる。
「ここにもいい男がいるんだけどなぁ〜」
「なるべく同種族に子供を勧めたいのはトーラーも一緒だろう」
「俺は美女なら種族は問わない」
「お前は本当に……全く。まあいい、見張りは頼んだぞ」
「はいはい、いってらっしゃい」
「こんな時間にどこへ?」
キョトンとするレオンス相手にアレッキオはニンマリとした。
「フォンザーは夜の方が活動しやすいんだ」

 黒骨の騎士フォンザーはソン・サザリームのすぐそば、深い夜の森を進み霊力の強い場所へ赴く。彼は片膝をついて腿に両手を置き、静かにあるものを待った。遠くからざら、ざら、と草が擦れる音がして蛍たちが集まり出す。そして辺りは月明かりに照らされたように明るくなり、フォンザーの目の前に虹色に輝く鱗を持つ水竜が現れる。
「我が兄弟たる夜の子、深き雪国の子よ。名は」
「ファヴイールと申します。清流の化身、我が伯父上」
美しい水霊は揺らめく水面の瞳でフォンザー……闇竜の子ファヴイールを見つめた。
「我ら兄弟の子、我ら精霊を導く者の守護者。そなたと姫に穢れた闇の者の手が迫っておる」
「存じております。しかし、今は手立ても手掛かりもなく……」
「畏れずともよい。その者はそなたと同じ夜に、否、闇の淀みに属する者。そして我が兄弟の子ならば、ファヴイールよ。夜の子たるそなたは何も臆する必要はない」
「は」
「……夜の子よ、深く眠ったのはいかほど前だ?」
フォンザーは水竜の問いにすぐ答えられなかった。アレッキオたちを騙せても水竜には本調子でないことを見抜かれていた。
「夜の子にも眠りは必要である」
「……姫を思うとなかなか眠れず」
「ならばより、よく眠るべきだ。夜の子よ。よく休み、戦いに備えるがよい」
「は……」
「そなたらがこの森、我らの領域におる間は何人にも手出しはさせぬ。戻って休むがよい」
「……清流たる御方、我が伯父上に多大なる感謝を」
「よい。よくお休み、夜の子」
水竜は体を輝く水に変えて夜の森に散って行った。フォンザーは溜め息をつき立ち上がる。
「……伯父上のお言葉に甘えて寝るか」


 朝陽に囁かれ瞼を持ち上げると、南の海の青色が彼を見ていた。肩に流れるままのはちみつ色の髪が、陽に照らされて金砂のように輝いている。フォンザーはその青い瞳を見ると安心出来た。小さな瞳の内に世界へ還ってしまった母を感じた。そして小さな紅葉の手が伸びてフォンザーの頭を撫で、彼はハッと頭を上げた。
「……何時ですか?」
「八時よ」
しまった、と慌てて体を起こしたフォンザーの膝にハルサラーナ姫は頭を置いた。
「パードレ、今日はよく眠ってるからみんなが起こさないであげようねって。また寝ていいのよ」
「そうはいきません」
「でもパードレ、いつも早起きでしょう? ディミトラよりクレリアより早起きでしょう?」
ハルサラーナ姫はベッドによじ登るとフォンザーの脇に小さな体を収めた。
「普段みんなよりたくさん仕事をしてるから、たまにはお寝坊させましょうってクレリアが」
フォンザーは誤魔化せていると思っていたが、仲間には睡眠不足を見抜かれていたらしい。彼は目頭を押さえて溜め息をついた。
「……あのね!」
「はい」
「パードレ、昨日お野菜をいっぱいもらったでしょう? ミセス・カンテが堅いクッキーにしてくれるって。乾いて堅いクッキーなら、お腹も膨れるし持ち歩けるから大丈夫よねって」
「そうですか。ではよく礼を言わなくては」
「うん! パードレ、起きたらシャワー浴びて、朝ごはん食べて」
「はい」
「下で待ってる!」
ハルサラーナはベッドから飛び降りて階段を降りていった。「パードレ起きたよー、クレリアー」と可愛らしい声が響く中、フォンザーは久方ぶりの爽やかな朝にうんと大きな伸びをした。

 湯浴みをし、居間へ顔を出すとハルサラーナがエマに教わりながら茹でた野菜をすり鉢で一生懸命潰していた。
「おはようございます」
「おはようございますフォンザーさん!」
キッチンにいたクレリアとミレーヌが顔を出し朝食はこちらで、とキッチン横の小さなテーブルにフォンザーを誘う。
「おはようございます。……ディミトラとアレッキオは?」
「路銀を稼ぐついでに探し物の情報を仕入れに出ました」
「アレッキオが俺より先に仕事を? 雪でも降るんじゃないか?」
「あら、アレッキオさんは普段お寝坊さんなんですか?」
「奴は腕は確かでも、寝酒の合間に稼ぐ奴ですよ」
「まあ!」
ミレーヌはふふっと笑った。今日の彼女は豊かな赤髪を三つ編みでまとめ上げ、馬の尾のように一つに流している。その姿を美しい、とフォンザーは思った。
「フォンザー」
「何だ」
「珍しく鼻の下が伸びていますよ」
「んっ」
フォンザーは口元を隠して咳払いをした。クレリアの発言を受け、ミレーヌも頬を染めた。
「……すみません」
「いえいえ! こちらこそ!」
ミレーヌは照れ隠しに母エマとハルサラーナの手伝いへ動いた。クレリアは男女二人の様子を見てニンマリと笑った。

 ハルサラーナ姫曰く今日はお外のお仕事禁止! とのことでフォンザーは野菜クッキーの手伝いや洗濯物の持ち運びなど家の中でできることをし、昼餉のあとハルサラーナを寝かしつけた。追手を撒く日々の中、こう穏やかな日は珍しい。だからこそ、フォンザーは小さな姫が己の手から零れ落ちてしまわないかと不安になるのだった。
「フォンザー」
クレリアが姫の眠る寝室に顔を出す。
「あとは私が」
「ああ、頼む」
隣を通ろうとしたフォンザーをクレリアは引き留める。
「それと」
「ん?」
「今日一日くらいは姫さまの命を死守してください」
白魔法使いのクレリアがそばにいるなら己が一人外へ出ても大丈夫だと考えていたフォンザーは目を丸くする。
「……お前まで」
「姫さまを思うなら無理をしないでと、最初に申し上げたはずです」
クレリアに真っ直ぐ見つめられ、フォンザーはばつが悪くなり彼女の顔から目を逸らす。
「もう死に引き摺られることはなくてもそれだけ睡眠を削って私たちの倍以上働いていたら体を壊します。従者はあなた一人ではないのですよ」
「……暇すぎるのも困る」
「駄目です」
普段ハルサラーナに言いつけることをフォンザーはクレリアから言われ、ポリポリと頭を掻いた。
「暇なら姫さまとの時間を大切に過ごすか、アレッキオのように酒でも飲んで来なさい。仕事は駄目です」
「参ったな……」
「ともかく、今日一日くらいは仕事をしないでください。いいですね?」
「……わかった」
クレリアは満足したように微笑んだ。

「兄弟! もう一杯だもう一杯!」
 フォンザーは時間の使い方に悩んだ結果、同族たちと酒場で盃を傾けることにした。ウォッカ入りのグラスを次々に空けていくフォンザーを見てドラゴニーズたちは喜びの声を上げる。
「噂には聞いていたが本当に酒に強いんだな! 何杯いけるんだ!?」
「俺はそろそろ辛い……」
「無理するなブレラキー。あとで悪酔いするぞ」
「ここの酒は旨いな」
「この森は水霊たるお爺さまがいるからな。水には困らん」
「ふむ、なるほど」

 同族に良いように酒を勧められたフォンザーは束の間の酔いを楽しみながら酒場を出た。ふわふわする頭で腕を組み、フォンザーはのんびり町を歩く。
「ご機嫌よう竜の子」
目の前にその魔法使いはいた。いや、正しくは目の前にはいない。しかしフォンザーの視界には黒いローブ、目元はフードに隠れていてニンマリした口元。怪しく光る緑の石の腕輪をし、腰に細身の剣を提げている男の幻影が映っていた。
フォンザーは体内の魔力を回転させすぐに酔いを覚まし、目の前の魔法使いを見た。
「……魔法剣士か。初めて見た」
「貴方は私を知りませんが、私は貴方をよく知っています。テリドア帝国、黒騎士(シュヴァルツ・ナイト)フォンザー・ベルエフェ卿」
「ほう」
「グリシュナ皇帝が遺した姫君はどちらに?」
「何のことだ」
「とぼけずとも大丈夫です。私は陛下の命でハルサラーナ姫を守護する者の一人です」
フォンザーは黄金の瞳で魔法剣士を睨む。
「私に貴方の瞳は効きません。でも実際目の前にすると足がすくみますね。本物の竜の瞳だ、恐ろしい」
そう言う男の口元は笑ったままだ。
「教えてください。ハルサラーナ姫はどちらに?」
「姫はあの夜死んだ」
「いやいや、その方向で私を説得するのは無理です。なんせ私はハルサラーナ姫が生きている気配を感じ取っていますので」
「ほう……確信があるのか?」
「ええ、それはもうハッキリと」
ハッタリの口調ではないと感じ、フォンザーは目を細めた。
「トーラーにしてはなかなかだ」
「お褒めに預かりどうも」
一行に姫の居場所を明かさないドラゴニーズを見て魔法剣士は両手を上げる。
「まあ、信用されないのは重々承知の上ですが、もうちょっと手心を加えてもらっても……。私はグリシュナ陛下の側近で貴方とは別の任務を請け負っています」
ただ睨みつけるフォンザーに魔法剣士はやれやれと首を振る。
「頼みますよ闇の竜の子。せっかく貴方本人が私の網に引っかかったのにこれでは時間を浪費するだけだ」
「網?」
「私の残滓と言いましょうか。道ゆく者に話をして私の印象を残す、その者は別の者に私の話をする。そうして広がった噂に探している者が引っ掛かると術が発動してこうして話が出来るのですが、貴方にはすぐ効かなかったようです。さすが竜の子。魔法に対する耐性が高い。貴方が酔わなければこうして話すこともなかったでしょうし、居場所もわからなかったでしょう」
魔法剣士はニンマリした口元のままローブの下からフォンザーをチラリと見た。
「大きな町ですね。どこだろう? 国旗が見えないので国がどこだか……ああでも市民のこの服装はヴォナキアですね。山が見えるから中央の方かな? 比較的近くて助かります」
周りを見渡した魔法剣士はまたフォンザーに向き直る。
「姫は?」
「……しつこい男だ」
「答えてくれるまで帰りません」
「なら一生ここに立っている」
「そうはいきませんよ。周りの人がどうしたのだろうと貴方に駆け寄ったら嫌でも視界に入る。そうしたら私の」
「なるほど、俺の視界を使っているのか」
フォンザーは瞼を下ろした。瞼が日の光に透けて赤く見えるが、彼はすぐさま暗闇で自分の思考を閉じる。
「おおっと、そうきましたか。うーん、だから竜の子を追うのは嫌だって言ったんですよ。おまけに闇の竜の子だし、自分が隠れたり何かを隠すのは得意中の得意だ。面倒です」
魔法剣士の人当たりのよさそうな口調が一瞬、無機質なものに変わる。冷たい石のような男の一面が垣間見えた。
真っ暗闇のなか、二人は思念のみで相手を認識している。
「強情ですね」
「お前もな」
「同じ闇使い同士、もう少し友好的だと嬉しいのですが」
「同じ? 闇の力で生き物を殺すお前が夜を父に持つ俺と同類だと?」
暗闇の中フォンザーは瞼を上げた。黄金の瞳が宝石のように煌めき、怒りをにじませながら燃え上がる。
「驕るな。トーラー如きが」
「おっと怖い」
ニンマリしたまま魔法剣士は剣を抜いた。フォンザーの姿が暗闇のなかバキバキと音を立てて変形し、黒い鱗を持つ巨大な竜の姿に変わっていく。魔法剣士が次の言葉を発する前にフォンザーの幻影は吠えた。魔法剣士は迫る竜の呪詛から逃れるため急いで意識を切り離す。
 黒いローブの魔法剣士は、元テリドア帝国領地、ヴォナキアの属州となった西の森で体を起こした。
「ハー、ヤダヤダこれだから純正のドラゴニーズは。人寄りのハーヴドラゴニーズと違って容赦がねえ。本当に面倒くさいったらない……」
急いで魔法陣を解く彼の口元は変わらずニンマリしたままだった。

「クレリア!」
 帰ってきて早々に緊迫した声を出すフォンザーに白魔法使いは駆け寄る。
「どうしました」
「解呪してくれ。足跡をつけられた」
「あなたが? 珍しい」
フォンザーは玄関に入らずクレリアを伴って庭先に移動。クレリアは手持ちの道具の中から白く細長い布と聖水の入った小瓶を取り出し、聖水を布に振り撒きそれを杖に巻きつける。
「場所は?」
「頭の中だ。耳と目」
「また厄介なところに」
フォンザーは土の上に座り、白魔法使いは瓶に残った聖水をフォンザーの頭にかけ、杖を当てて呪文を唱え始める。
「我、白き花の蔓を取り、苔の生えるを聴きし者。擦り付いた血の澱み、煤の月を振り払い……」
騒がしさに気付いた旅の仲間とカンテ一家は庭先に集まる。
「パパ!?」
異常事態に気付いて駆け寄ったハルサラーナ姫は、先に戻ってきていたアレッキオとディミトラに引き留められ不安さを隠しきれぬままディミトラの腕の中に収まる。
「大丈夫だ、そこにいなさい」
フォンザーはハルサラーナの姿を視界に捉えないよう目を伏せたまま彼女を宥めた。
「フォンザーが術をかけられるなんて珍しいじゃないか」
「本当にね。いつもなら呪いをかけられるのは俺なのに」
「自覚してるなら酒と女に気をつけな」
「耳が痛いや」
呪文を終えたクレリアが杖で地面を叩き、フォンザーの周りに風が柔らかく吹き抜ける。
「終わりました」
「ありがとう。姫、申し訳ございません。私が油断をした為に追手が」
「パパは大丈夫なの!?」
「追跡の呪いですから私自身は平気です」
「よかった!」
ハルサラーナはフォンザーに抱き付く。
「それならここには長居できないね」
「すまん。すぐ行けるか?」
「いつでも。荷物をまとめよう」
「もう出て行くんですか!? そんな……」
「すみません。ご迷惑をおかけして」
「迷惑だなんて……」
「姫さま、支度しましょう」
「うん……」
 慌てて支度を始めた一行をエマとミレーヌは進んで手伝ってくれる。
「サラーナちゃん、これを」
エマは飾り紐をいくつか少女に手渡す。
「その歳なら髪の毛くらい飾りたいでしょう?」
「エマおばあちゃん……!」
ぎゅっと抱き付いた小さな姫をエマは優しく撫でる。
「またいらっしゃい。待ってるわ」
「ありがとう、ミセス・カンテ」
ハルサラーナはスカートの裾をつまんで膝を落とした。彼女はこの歳でも既に立派な姫君なのだと、エマは感じ取った。
「ご機嫌ようお姫様」
「ご機嫌よう」
一行の荷物のほとんどを背負ったフォンザーは名残り惜しくミレーヌの顔を見る。彼女もまたフォンザーの顔を見つめた。
「……あなたの太陽の瞳と朝焼けの髪を美しく思います」
予想だにしなかった言葉にミレーヌは目を丸くして、涙の滲む瞳で微笑んだ。
「私も、あなたの金の瞳が綺麗で好き」
「またお会いしたい」
「私も」
二人はただ見つめ合い、お互いの両手を握り合った。
「フォンザー、行きましょう」
「わかった。エマさん、ミレーヌさん。我々に良くしてくれて本当にありがとう。あなた方を含めて私と話をした人たちは全員白魔法使いに解呪をしてもらってください。追跡の呪いがついています」
「必ず伝えるわ。大丈夫。行って」
「すみません」
「またいつの日か!」
 後ろ髪を引かれながらハルサラーナ姫と従者はソン・サザリームを後にする。追手から、闇の者から逃れるために。
エマとミレーヌは彼らの背を見送り手を合わせ精霊に祈った。
「どうか、彼らの旅路が幸多くありますように」


3.黒骨の騎士と幽霊騒ぎ

 外はダラダラと雨が降り続いている。黒骨の騎士フォンザーはどんよりとした空を見上げ溜め息をついた。振り向けばはちみつ色の髪の小さな姫が、同じ大きな布張りのテントの中、支柱の近くで高く積まれたクッションや枕で囲まれたベッドの上に赤い顔をして眠っていた。

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