Looking for belonging の話。
精神的に参っているのか、やる気が出ません。
幸い、今は仕事が忙しくない時期なので、昔のことを思い返したり、先のことを考えてどうしていきたいのか想像したりしています。
あ、もしかしたら今この瞬間に向き合えていないから、そして幸か不幸か忙しくないからそうしないで居られる余裕があるから、何だかやる気が無いのかもしれないです。
ただ、今やるべきことはそれなりにこなしているつもりなので、ガツガツと取り組むことはせず、このゆとりある時間に少しの間だけ浸っていたいと思います。
そういうわけで昔のことを思ってみます。
そう頻繁にはしないんですけど。
私はいつも音楽を聴くと、昔を思い出します。その当時に聞いていた曲を耳にすると、たちまちイメージが呼び起こされます。だからできる限り、その時に聞いていた曲を大事に覚えておくか書き留めておいて、何かあったらすぐに思い出せるようにしています。
今は便利な時代なので、ネットに繋がればサブスクの音楽サービスにアクセスして、自分だけのプレイリストを作っておくことができます。もしくは、サブスクに存在しない曲なら、動画サイトの視聴ページをブックマークしておくこともできます。
そうやって、昔を思い出します。
先日、思い出したのは、大学時代のことでした。
私は関東出身ですが、大学は関西地方にあるところに進学し、一人で慣れない土地で暮らし始めました。最初こそ不安はあったものの、すぐにその町が気に入り、友人もでき、あっという間に4年間は過ぎていきました。
その当時に聴いていた曲を聴けば、今でもあの緑豊かなキャンパスと、小寂れた食堂と、薄暗い講堂と、馬鹿なことばかりしていた友人たちのことが、楽しかった思い出がたちまち頭の中に広がります。懐かしくて懐かしくて、それでいてすごく寂しい気持ちになります。
その当時はたしかに楽しかったですし、まぁ辛いこともありましたけど、私はその大学に進学して本当に良かったと思っています。実を言うと、本当は東京のとある大学を目指していたのですが夢叶わずで、滑り止めとして受けたその大学に進学したのです。それでも、本当に行って良かった。嬉しいことも苦しいことも素敵な経験をたくさんさせてもらえた。私はあの4年間をかけがえのない大切な時間だと思っています。
ただ、当時の音楽を聴いて懐かしさに浸りながらも、どこか寂しい気持ちになるのです。
それは、私にとって、すでにあの頃過ごした町は無くなってしまっているからなのだと思うのです。
それは物理的な意味ではなく、今でも私の住んだアパートもあるし、大学の校舎もあるし、当時よく行っていた公園や図書館やお店もあるし、何なら町としては変わっていない(多少時代の変化はあるものの)です。そのはずなのに、当時と全く違う点としては「私がそこに居ない」ということなのです。そして、それは「当時私が過ごしていた頃の友人」もその場所に居ないということでもあります。
つまり、すでに今、その町に「私の居場所」は無いのです。
だから、寂しい。
そしてもう一つ寂しさを感じる原因は、私自身がその当時から成長はしているのだろうかと不安に思う気持ちです。「あの当時から自分はまるで成長していない。むしろ退化しているのではないか」という焦りのような落胆のような、まるで取り残されてしまったような気持ちを持ってしまうのです。
もちろん、その当時やってきたアレコレのおかげで、結果的にそれが今に繋がっていることは理解しています。あの当時、悩みながらも進路を決めて就職活動をして、行きたい会社にも入社できた。それから何社か会社を転々としたけれども、それなりにやりたい仕事にも就くことができた。
けれど、ふと今の自分の立場を思い返してみると、今こうして居る自分の環境や境遇は、大学進学時に抱いていた夢や目標とはまるで異なるものになってしまったことに気付きます。そのことが何だか後ろめたいような気持ちにさせて、あの当時キラキラした気持ちで大学生になった自分に対して申し訳なくも思うのです。
いえ、上で「やりたい仕事に就くことができた」なんて書きましたが、少し話を盛りました。すみません。実際には常にそのような充実感たっぷりというわけではなくて、今も、会社のやり方に納得できなくて正直気持ちとしては低空飛行しているような状態だったりします。だからなおさら「なんだか、ごめん・・」と後ろめたい気持ちになるのです。
ああ、私は、あの当時から何も変わっていないどころか、前向きな気持ちを失っているという点ではやはり退化しているのかもしれないと思うのです。
居場所。
以前の私は、あのアパートで、大学で、クラスで、サークルで、バイト先で、友達との集まりの中で、たしかにその「居場所」があったはずで。そこから色んな経験をして成長をしていったように思います。いえ、実際のところは分かりませんけど、その実感があろうが無かろうが、自らで自らの人生を決めて突き進んでいる爽快感に似た感情はありました。
今は?
私には、会社にも勤めることができて、毎月安定してお給料を貰えて生活の心配もそこまで大きくは無くて、あと何十年かの住宅ローン返済計画は控えているものの一応は自分の名義の一軒家を持ち、そして何より、幸いにも、自分の命よりも大切だと思えるような家族にも恵まれました。
そのはずのに、どうして、あの頃のような「居場所」を感じられずにいるのだろうと思うのです。家族だって会社だって、今の自分にも居場所はあるはずなのに、たしかに自分で決断して選択して手に入れてきたはずなのに、どうしようもなく不安に思ってしまうのです。
今回の記事では、その不安をどうこうしたいということが書きたいわけではありません。ただ、恐らく、昔を懐かしんだり感傷に浸ってしまうような、そういう弱った精神状態にあるのだなということを自覚しておきたいというだけなのだと思います。
そのうえでもう少し語らせてください。
思うに、あの頃と今とで決定的に異なるのは「自分だけの人生かどうか」という点なのでしょう。
大学生当時は、どのようなアクションを起こそうともそれによってどのような結果が表れようとも、自分の人生でそれを受け止めるだけです。友人が居たとしても、彼らは一時の愚痴を聞いてくれたり励ましてくれるような存在かもしれませんが、彼らと自分の人生は違うのです。自分の人生は自分で背負っていくしかないのです。
しかし今では、会社に勤め、そこで仕事をします。よほどのハイパースキルを持った人や孤高の職人のような人でなければ、たいていは他人と一緒に協力して作業を行う必要があって、自分の仕事といえども自分一人で完遂することはまずありません。
自分の担当作業は、会社のビジネスや社会の大きな経済活動の中では、その一つにすぎません。けれども、確実に誰かの生活に影響を与えるものになっています。それは自分が提供する側だけではなく、享受する側としても同様に作用します。つまり、自分一人の人生ではなく誰かの人生に関わってしまっているということです。
また、家族を持つことは、まさにそれが顕著です。妻や子供、その人生はもちろん彼らのものではありますけど、生活費を稼ぐという点や、家族として接する時間を持つという点においては、確実に他人の人生とともに歩んでいると言えます。
温かい気持ちを持ったり相手の気持ちを尊重したりして接することで家族は安心しますが、反対に、自分の機嫌が悪ければ家庭内の雰囲気も悪くなることだってあります。子供も、大きくなるにつれて自我を持つようになるので、人と人との意見の相違だって生まれます。他人と一緒に生活するということは、そのような他人とのコミュニケーションが不可欠であって、自分も相手に、そして相手も自分に影響をお互いに与えながら生きていくことだと思います。
要は、自分一人で勝手に行動してその結果を負うだけではなくなっているというわけです。何か自分がミスったとしてもその全責任が取れないわけです。
学生時代はどんなに失敗しても親や周りに迷惑をかけることはあっても、基本的には自分一人の尻をぬぐえば済む話です。(犯罪を犯して加害者になるとかだとまた話は別ですけど)
他方で、社会人では常に何か自分以外の人生と関わり合っていく場面が非常に多いわけで、私見ですが、おそらくその状況こそ「居場所」を感じにくくなっている原因があるように思うのです。
というのも、いくら居場所を勝ち得たとしても、たまたま手にすることができたものであったとしても、いつその場所を失うか分からないわけです。失った責任を負うのは、たしかに自分だけれども、それによって他人に迷惑をかける可能性だってある。もっと言えば、せっかく得た居場所であっても、他人によってそれが奪われるということも考えられるわけです。
これは本当に自分の居場所なのか、と。誰かのおかげで成り立っている実に不安定な居場所に過ぎないんじゃないのか、と。その事実に気付かざるを得ないわけです。
ただ、もしかしたら、そういった不安定さの中で生きることこそ、もしかしたら大人として生きていくことなのかもしれないなと思ったりもします。
心の居場所は自分で作るしかないし、もっと言えば、それがいつ消えて無くなったり、誰かに奪われたり脅かされたりしたとしても、大人は、またゼロからそれを作り上げたりどこかから探したりし続けていく必要があるのかもしれない。何だかそのように思うのです。
たくさん書いて、ちょっとスッキリしました。ありがとう、昔の自分。そしてまたしばらくさようなら、昔の自分。少し元気が出てきたので、また私は今の自分と向き合っていくことにします。
これをお読みになった方にはこんな駄文に付き合わせてしまってすみません。失礼しました。居場所を探し続ける旅は終わらないですね。おしまい。