「あなたは将来〇〇になるかも!?」の話。
たとえばですけど、「このような特徴の人は将来〇〇になりそうな可能性があります!」みたいな情報があるとします。
これらって、一見すごく大切な価値観と言いますか、学校教育とかでは恐らく「こういう人になりましょう」みたいな教えとして重視されたりするんじゃないかと言いますか。
これを所謂「お手本」みたいな感じで扱われるように思います。「みなさん、こういう人になりましょう」みたいな。(もちろん絶対ではないですけど、一部そういうイメージがあります)
このイメージって、きっとポジティブですよね。
仮にこれらの特徴の人が「大企業に就職しやすい人」とか「昇進して高収入になりやすい人」として紹介されていたとしても、なんとなく納得しそうじゃないですか。
でも、これって実は、適応障害になりやすい人の特徴、として列挙されていたものなんです。
これ、なんかおかしいなと思ってしまいました。
一般的に「こうあるべき」「美徳」「理想だ」「立派だ」とされている特徴が、実は心を病んでしまうような破滅的なルートを辿る(可能性がある)ということですよね。
真面目に頑張ること
細かいことに気が付くこと
何でも自分でやり切ること
自分より他者に貢献すること
これ全て、自分の首を絞めてしまう結果になる(可能性がある)と。
なんか悲しいですよね。あくまで可能性ですけど。
少し自分の話をすると、約10年前に私は精神を病んだことがあって、その当時はそこまで重い症状ではなかったですけど、会社にももちろん行けなくなりましたし朝起きることもできなくなっていました。
自分では言いにくいですけど、実際、上に挙げた特徴のほとんどに当てはまっていたように思います。結果、潰れてしまったんですよね。
じゃあ、その特徴を全て否定すべきかというと、それはそれで物事は成り立たなくなるとも思っています。ですから、その特徴を全て否定すべきだとは思っていなくて。
がんばらなくていいとか、自分でやらなくてなんでも丸投げすればいい、ってことが言いたいわけじゃないです。
結局はそれらの特徴を持っていたとしても、いかに自分のストレスの受け取り方を変えられるかとか、他の力に変えられるようにした方が大事です、みたいな、そういうことなんだろうなと勝手に解釈してます。
で、本題はそこではなくて。
私としては、どうしても上記のそれらの特徴を変えられないとしても、そのことを他人に強要したいとは思わないです。それなのに、そうしてしまっている。
どういうことかと言いますと、自分の子供に対しても「そういう特徴」を要求してしまっている部分が、自分の中にあるんじゃないかと思っているのです。
たとえば、うちの息子は、あまり言いたくないですけど、結構だらしなくて鈍感で。そして楽しいことがあるとTPOをわきまえずにギャーギャーとデカい声で騒いだりします。
それを見ると親としては「しっかりしなさい」とか「もっと静かにしなさい」とかそういうことがまず頭に先行してしまって、そして実際にそういうふうに声をかけてしまうんです。
でもそれって、自分が上に挙げた7つの特徴を子供にも強要していると言えるんじゃないかなと。
もちろん、そうするべき(そうあるべき)か否かというのは、時と場合によります。
毎回宿題をやらなくて先生を困らせるとか、毎回教科書を忘れて隣の席の子を困らせるとか、そういう他人に迷惑をかける「だらしなさ」でも良いというわけじゃなくて。そこはある程度しっかりしていてほしい。元気なのは良いことだけれど、暴れすぎて何か物を壊したり、誰かに危害を加えたり不快に思わせるようなことは、良くない。
ですが、何でもかんでも、人生の先輩としての親の目というフィルターを通して、先回りしてアレコレ口出ししてしまうのは、なんか違うような気がしたのです。
このままでは、私のような人間をもう一人(我が家は子供が二人居るので、そういう意味だと二人)作り上げようとしているんじゃないかと。
それでいいのか?
と自分に問うと、やっぱりそれは望んでいないわけです。
息子には息子の良さがある。それは当然。
だけど、その良さではなく私が「良くない」と判断している箇所は、果たして本当にそうなのか。
子どもに対して、どこの誰か分からない、恐らく私が私の中で勝手に作り出した「他人」に対して気を遣わせて生きるような、そんなことを望んではいないです。
私は、彼が持つ「彼らしさ」を潰そうとしているように思えて、ハッとしました。「それは私の物差しであって、彼の物差しではない」と。社会常識とか人として大切なことと同列に扱って、私は「本当は誰にも気にしていないようなこと」まで彼の価値観にインプットをしようとしてはいないか。
そうすると、もう少し、こういった見方も出来やしないかと思うのです。
私はネガティブなようなので、どうしてもそういう方面で考えてしまいます。
ですが、そういうネガティブな目線からポジティブを見ることで、違った見え方になる気がします。もっと多面的に、と言いますか。
「頑張る」だとか「気を遣う」だとか「何でも自分で出来る」だとかそういうことに大切な価値があるというのは前提として、それだけじゃない。それだけが正しいわけじゃない。そして、その反対も、正しいわけじゃない。
むしろ、正しいとか間違っているとか、そういう問題でもない。単にそういう価値観が一つあるだけの話。違う価値観は他にもゴロゴロある。
あくまでそれは一面的なもののようにも思うんです。だって「がんばる」とか「気が利く」「他人に優しくする」はそれ自体は素敵なことですから、それは否定できない。
大切なのは、その価値観をどう自分に当てはめるか。本当は合わないのに、無理してそれを最良のものとして大切に扱ってやしないか。
そして、その価値観の裏側にある機微みたいなものをいかに感じ取って立体的に把握できるか。たとえば「がんばる」だけじゃないその裏面にあるセーフティバーみたいなもの。ちょっと分かりにくいですけど。完全に信じすぎちゃいけなくて、ストッパーみたいなのが無いと危険な思想。
これはきっとすべての人に当てはまるわけじゃなくて、私のように、くそ真面目で(それでいて純粋な真面目じゃなくて、ひねくれた偏った真面目さ)、つまんないことでクヨクヨ悩んでしまう人にとっては、頭に置いておいた方が良い考え方のように思うのです。そうでないと、自分を苦しめることになりかねないですから。
そして、そういう人が親になると、「そういう人」を量産しがちなので、気を付けないといけない。もちろん自戒を込めてです。
息子の話に戻しますと。
敏感すぎて人の顔色ばかり窺うより、鈍感でドーンと構えていた方が絶対に生きやすい。楽しいことがあったなら、変に我慢なんてしないで、目一杯感情表現した方が絶対に楽しい。
彼が彼らしいということだけで、本当は素晴らしいと思うんです。それを私の勝手な物差しで狭めてはいけない。彼の将来を、意図しようと意図するまいと、勝手に私が決めてはいけない。
ここ最近、仕事も上手くいかなくてそしてそれが家庭内にも影響が出てしまっているように感じて色々嫌だったんですけど、ちょっと光が見えてきました。
キーワードは「どうでもいい」です。
それだけで良いかと思うようになってきました。
もっと気楽に考えていい。どうせ他人。他人の人生まで自分の人生として背負い込む必要なんて無い。
子供であってもそれは同じで。そろそろ彼らの人生の舵取りは任せてみてもいいかもしれないと考えています。もっとも、幼い子供に対しては保護する責任はあるので、親として見守りという機能まで捨ててはいけないと思いますが。
ということで、きっとまた悩むことがあるでしょうし、上手くいかないことでウダウダすることも多いんでしょうけど、そういう些細な希望と言いますか、少しだけつかんだ光みたいなものは、頭の片隅に置いておきたいなと思うのです。
言わばこの記事は主に自分にとっての道標的なものです。忘れた頃や忘れそうになった時に「ああそうだった、こんな考え方があった」と思い出すために残しておくもの。
結局、一番大切なのは自分ですから。それを苦しめることからどんどん逃げていいんじゃないかと最近は思います。人生は短い。別に何かあったわけじゃないですけど。だったらもっと人生の主導権を握って動かしていきたいなと。そんなふうに思ったりするのです。おわり。
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