見出し画像

頭痛薬も「慣れ」は避けたいという話。

たまに、頭がすごく痛くなります。

あっ、いや、何か悩ましくて「どうしたものかな…」と頭を抱えるということではなくて、純粋に、身体の反応として痛みがあるといったものです。頭全体がズキンズキンと痛んで仕方なくなる感じです。

もしかしたら、ストレスなど精神的なものに起因するのかもしれません。「ちょっと面倒だな」と思う仕事やイベントが差し迫ってきていたりすると、よくその痛みはやって来ます。しかしその場合、その原因と思しきタスクが消化された後も、頭痛自体は残ったままです。

肉体的疲労の可能性もあります。長時間同じ姿勢だったり、気を張っていたりするために、肩凝りや腰痛が生じて、そこから来ていることも考えられます。ただこの場合でも、幾ら身体をほぐしたとしても、その痛みは消えることはほとんど無いのです。

そうなると頼るのが、解熱鎮痛剤、頭痛薬、つまり薬になります。

私は薬学の知識など無いため、基本的には市販薬を買ってきて服用するという対処をとります。飲み合わせや用法容量なども専門的なところはよく分かりませんので、とにかく薬局で売っているものを試して効くかどうかを確認するのです。まあ大体錠剤タイプのものを服用して、それでしばらく様子を見ると治ってくる、というケースが多いです。

ちなみに、イブプロフェンとか、アセトアミノフェンとか、ロキソプロフェンとか、過去に色々試しましたが、結局効くなと実感したのは、ロキソプロフェン(ロキソニン)だけでした。

そのたびに「薬ってこんな小さいのに、人間の身体に対して効果がテキメンに現れるのスゴい」とか思ってしまいます。

しかしながら、効果が素早く現れてくれるのは本当にありがたい一方で、これに頼りすぎる怖さといったものも感じているのです。

それは「慣れてしまうこと」です。

よく耳にする「耐性」というものは、市販の解熱鎮痛剤には当てはまらないようではあります。

ただ、薬の成分とか作用としてはそうかもしれないですけれど、感覚的に、精神的に、「これを飲めば大丈夫なんだ」という、過剰な依存状態みたいなものに陥ってしまわないか不安なのです。

と同時に、これって薬だけではないようなぁとも思います。


例えば身近に居る人に対して、「この人ならこれくらい言っても大丈夫だろう」という慣れを覚えてしまっていることって、あると思うのです。少なくとも私はあります。意識的ではないにせよ、気が付いたらそういう言動をとってしまっていることがあるのです。

私の場合、他人に対してあまり心を開けないと言いますか、基本的に他人というものを信用していないので顔色を伺いながら生きている一方で、家族とか身近な人たちに対しては、その反動なのか、かなり心を許してしまっているように感じます。

無遠慮。礼儀知らず。傲慢さ。

そういったものは「慣れ」から生じているように思うわけです。

ですから、せっかく傍に居てくれる人たちに対して、まず敬意と言いますか、そういう感謝とか尊敬とか、「何よりもまずは、居てくれてありがとう」の気持ちを持たないといけないと思いました。

月並みな話だとは思いますが、私にはそのような初歩的なことすら守れないことがあります。近くに居てくれることが当たり前、ではないのです。それに慣れてしまっていると、いつか相手を傷つけてしまいそうですし、いつか自分も痛い目に遭うようにも思いますから。

「慣れ」それはもしかすると「依存」に繋がるものかもしれません。分かってくれる、理解してくれる、きっと自分を救ってくれる、そう期待しすぎることで、その反面、軽視することにもなっていて、自分と他者がベッタリと一体化しているように感じます。もしかしたらそれすら気付いていない可能性もあります。

まるで最初からその傍に居るのが当たり前であるかのように、常に不可分な存在。

けれど、本当は、違います。自分は自分ですし、相手は相手です。人間であろうと物であろうと、幾ら通じ合っているように見えても、全く別の存在です。人であろうと物であろうと、自分と他者という点で、別々なのです。


少し、話は飛躍しているかもしれませんが、身近にそれを手繰り寄せた上で、例を挙げてみます。

私はシステム開発の仕事に従事していますが、ソフトウェアを設計する際の原則として「疎結合」という考え方があります。

これは、簡単に言ってしまうと、たとえば A という部品と B という部品の結びつきを少なくするというものです(厳密には部品とは表現は異なりますが、説明のために簡略化・一般化させています、ご了承ください)。

一見「部品を分けるなんて当たり前のことだろう」というように思えますが、全体の処理の都合を考えると、現実には、A と B とで相互に密接に関連するような作りにしてしまったり、そもそもそれらを別の部品にすることも考慮しなかったりすることも少なくないのです。

なぜなら、その方が作りやすいからです。何でも手近に揃う場所に情報を配置することは、処理に無駄が無く性能も悪くはないので、作る上では効率が良いのです。

しかし、たしかに作る分には良いですが、それを直したりする場合や、何か問題が起こった場合には、途端に面倒くさい事態になります。

なぜなら、部品間で密接に絡んでいる状態では、機能を改修しましょうとなった際に、まずどこをどう直せば良いのかすぐには判断がつきません。

最初に作った人でしたら、すぐに見当がつくかもしれませんが、後から保守を担当した人にとっては、まず全体像を把握しないといけません。それは不具合が起きた際も同様で、どの処理にどう影響があるのか、その全てを一度洗ってみなければ、手を入れることが難しくなります。

なんとなく「ここだろう」と決めて直すことは可能かもしれませんが、調査が不十分ですと、後になって「副作用」的に全然違う機能に影響が出る場合も少なくないのです。

そのような事態を防ぐために「疎結合」で設計・開発するという手法が用いられます。たとえば一つの機能を一つの部品内で完結させます。そうすることで、何か問題が起こったり機能を改善させたい場合には、基本的にはその部品だけに手を入れれば良くなります。部品一つ一つが独立して機能しているためです。

もちろん、そのように設計することで冗長的になったり回りくどくなったり無駄な部分も出てくることがあります。そのため、必ずしも全てそのような設計にする必要は無いですし、トレードオフの側面はありますが、一つの設計思想としてそのようなものがあります。

つまり、これは、出来る限りお互いに「依存しない」という考え方なのです。


結論を強引にまとめますと。

同じように、頭痛薬もソフトウェアも人間関係も、どのようなものでも出来る限り「依存」は避けたいわけです。近づきすぎることで、同化しすぎることで、一見上手くいっているように見えても、いつか問題が起きた時に、互いに破綻し合うような関係になりかねません。

そういったわけで、薬に慣れすぎないためにも、多少我慢できるくらいの痛みならば、薬に頼らずに過ごしてみようとか、そんなことを思ったりするわけです。

医学的な知識など全く無い私ですが、市販薬の注意事項やネットに溢れる情報には一応目は通していますので、副作用とか長期間服用することのリスクなどには多少は注意は払っているつもりです。そういった意味でも「頼りすぎ」は良くないのでしょう。

身体と、あと心とよく相談して、今自分が何をすべきなのか決めるべきなのでしょうね。

…ああ、とは言えやっぱり頭痛いので、薬飲もうかな。。いや、まだ耐えられるかな。。でも無理かも。。そんな狭間を行ったり来たりです。おしまい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?