見出し画像

仕事の匂いにウンザリするという話。

先日このような記事を書きました。

https://note.com/furokun/n/n8af9c603edc0


一言で表してしまうと「いっぱいいっぱいになっちゃって、何も新しい情報を自分の中に入れる余裕が無いです」というものでした。

今回はその続きかもしれないです。

むっちゃネガティブな内容なので、それでもよいという方だけ読んでください。



のっけから申し訳ないけれど、相変わらず仕事は面倒くさくて。

いえ、こんなことを言うべきではないのは分かっていますし、わざわざこのようなことを書くこと自体、非常に意識の低く醜いザマであることはたしかなのですけれど。

ワクワク感みたいなものは、ここ最近は全く感じていないわけです。約10年近く前にこの会社に入社した頃のあの感覚はもはや無いのです。

なぜなのか。それは、自分の仕事に対する態度が変わってきたのか、会社が目指す方向性とそれから生まれる仕事の性質が変わってきたのか、はたまたその両方か。

まぁそうだとしても、それはそれで仕方ないと割り切るしかありません。環境は変わります。人間も変わります。それに適応していくように生きていくのですから。

目の前の仕事に注力しつつ、それでいて肩の力を入れすぎない程度にちょっとだけ距離を置いて、それらを作業的にこなしているという日々です。

そんな中でも、読書熱はまた少し上がってきていまして、現在も何冊か並行して読み進めているものがあります。そういった意味ですと、上で紹介した記事のように「何も情報を入れたくない」状態からは少し抜け出して、多少は状況は改善しているかもしれません。

ただ、それでも突然「ああ、やっぱりめんどいなぁ」と思ってしまうことがあります。

そう思う時というのが、決まって「仕事の匂い」がした時なのです。

「そもそも仕事って何?」ってことを考えてみると、端的に言い表せば「してほしい人のためにそれをやってお金を貰うこと」だと私は解釈するわけです。

たとえば、町をぷらっと歩いてみて、八百屋さんに立ち寄って、リンゴやミカンを買うとします。

お店側はお金が欲しいからフルーツを店頭に並べます。そして、それらが欲しいと言ってくれたお客さんにフルーツを渡す代わりに、お客さんからお金を貰うわけです。客側も、フルーツが欲しい人が店に来ます。そしてそのフルーツを貰う代わりに、お店の人にお金を渡すわけです。

ここではモノとお金の授受ですが、シンプルな利害関係の一致です。「俺は、お前の持ってるコレが欲しい」「ボクは、キミの持ってるアレが欲しい」「「じゃあ交換しよう」」という取引の成立です。

仕事の基本にはこれがあると考えます。突き詰めればそういうふうな構造になっていると思います。

それって、私が、胃が痛くなるような問い合わせを受けて、冷や汗流してデータの調査をして、その結果を問い合わせしてきた人に伝える、という作業も構造としては同じだと思います。

その場合は、モノではなく情報の授受。その人は「何でこうなっとんじゃコラ」という疑問(=情報)を私にぶつけて、それに対して私は「これはこういう仕様でございますので・・」という回答(=情報)を渡して、それらを交換しているわけです。

最終的にお互いが納得したかどうかは知りません。「何でこうなっとんじゃコラ」と私に言ってきた人が、私の回答を貰って「そうなんだ!了解しました。いつもありがとう!」って思ってくれる場合もあれば、「は?そんな答えでこっちが満足するわけねえだろボケが!」と思われる場合もあります。まあ前者はほぼ無いわな。

しかし、形式上であれ欲しがるものを渡すという時点で、それは授受が、取引が成立しているのです。

さらに、そういう積み重ねによって「この人はこういう情報を提供してくれる人なんだ」という期待を裏切らない状態が保証されたうえで、毎月のサラリーという形で、私は会社からお金を貰っていると言えます。

ここでは雇用関係という取引が成立していると考えます。やるべきことをやってくれると期待するから、会社は従業員を雇います。雇うということは、お金と労働力を交換しているのです。

最終的にはこうして「お金」が介在してくるので、私が日々やっているそういった交換作業も「仕事」と言えるのだと考えています。

ですから、その前提条件である「モノの授受」つまり「やってほしいことをやってくれる」という交換行為が成り立たなくなるのであれば、その時点で「仕事」としての最も基本的な機能は失うことになるでしょう。

たとえば、会社が期待した分の仕事を従業員がやらなかったり、あるいは従業員が上げた成果に応じた分だけの報酬が会社から得られなかったりする場合です。最初は小さいすれ違いかもしれませんが、いつかそれが決定打となってお互いの関係が壊れることも当然あり得ます。

会社は、コストや売上の面から期待以上の働きをしない従業員を人員整理の対象にするかもしれませんし、従業員も、正当な人事評価をしてくれないと考える会社に見切りをつけて転職していくこともあるでしょう。

両者の間に相応のバランスが無いと、良い関係でお互い持ちつ持たれつという状態でないと、やっぱどこかで無理が生じると思うのです。

・・あれ、何の話でしたっけ。ああ、仕事か。

で、本人や相手が最終的にその結果を望もうが望むまいが、さらに、受け取る側もそれに満足していようがいまいが、取引が成立した時点で、つまり「やってほしいことを(便宜上)やってくれた」ということで、お金が貰える。

それでこそ「仕事」になると私は思うわけです。

逆に言うと、仕事ってそれだけの役割でしかないと、私は考えていて。

だから、世間に言うところの「仕事」=「自己成長とか自己実現の手段」「社会のために役に立つこと」みたいな、そういう立派な理念や高尚な目的を持って仕事と向き合う人も居ると思いますが、少なくとも今の私にとってはそこまでのレベルに無いわけです。そんな志の高い思いで、私は仕事を捉えることは出来ていません。そしてそれは必須な態度であるとも思っていません。

もちろん、そういう真っすぐな眼差し、曇りのない瞳、原動力の正しい向き先、みたいなものを否定するわけではなくて。むしろそういう方面にエネルギーを注げることは素晴らしいと思うわけです。可能なら、そうやって前向きに捉えてバリバリと仕事をこなし、溌剌とした毎日を過ごしたいですし、実際そうできたら人生楽しいでしょう。

ただ、そうもできない時がある。常にそんな前向きな気持ちで居られない。今の私はそれです。そういう眩しい光に耐えられない。つい影を探してそこに逃げ込もうとしてしまいます。

日々の仕事をこなすだけで精いっぱい。

「今後どうやったらもっと善くなるだろうか」とか「将来的にはどういうスキルを身に着けて、どういうキャリアを築いていきたいか」とか「明るく楽しく誰とでも上手くやっていけるように自分を変えていこう」とか、そういうキラキラしたポジティブがどうにも受け入れられない状態なのです。

それで話は戻りますが、読書をしていて、本の世界にどっぷり浸かるところまでは良いですけど、その中でふと思うことがあるのです。

それは「えっ、これ自分の現実世界で起きたらどうすんだ」って思ったり、作中で「タメになること」や「善いこと」が書かれているところが妙に引っかかって、「何だか押しつけがましいな」と思ってしまうことです。

とりわけ末期症状だなぁと思うのが、読書以外にも何気ない日常風景でもそれを思うことがあります。

テレビやラジオなんかで、何かの映像作品だったり特殊な音源だったり番組企画だったりに触れて、なんとなく「これも誰かがやった仕事なんだよな」と感じてしまうんです。

たとえば。

テレビで効果音とかBGMを耳にしたりすると、

「番組の編集会議で『ここの部分はこの音使いましょうか』『いやここはそれじゃないでしょ、こっちでしょ。何考えてんの』みたいなやりとりがあったりしたのかな。

初めて担当した番組で相当熱が入って議論していたのに、最終的には番組責任者が『いや、そもそも他の番組でも使ってるこれでいいよ』という一言で決まったりしたのかな」

とか。

町を歩いていて何かのビルを見た時に、

「このビルを建てる際に、何社の業者が関わっていたのだろう。現場監督は、それらの業者を取りまとめたりして大変だったろうな。経験の浅い現場監督だったりしたら、実働部隊の人たちも相当苦労したろうな。

かたや、本社の幹部はそんな事情も肌で知るわけでもなく、さも自分たちだけで作ったみたいな顔をしていたりするのかもな」

とか。

電車内で中吊り広告を目にして、

「このポスターを作るために、スポンサーとか関係者と色々な話し合いとかを重ねて、そうして最終的にみんなが合意して『よし、このコピーにしましょう』とか『レイアウトはこれで行きましょう』という意見に決まったのかな。

でも実際には、入稿の直前になってあるいは一度刷り始めちゃってから、突然誰かから『やっぱさぁ、この配置はおかしいよ。あと、色もこれに変えてよ』という意見が出てきて、デザイナーも印刷工場の人も徹夜や休日返上でその対応をしていたりして。で、最終的な出来上がりに満足しているのは一部の人たちだけで、その他大勢の人は妥協していたりして」

とか。

そんなようなことを、フッと考えてしまいます。

正直言うと、これがもう、めちゃくちゃウンザリしていて

いえ、実際そうなのかもしれないですし、そうじゃないかもしれないんですけど、キラキラした現実と言いますか、そういうのが見ていられない。こんなにも当たり前に広がっている社会の一つ一つは誰かの仕事で出来ていて、その「頑張った結果」なんです、みたいなメッセージを勝手に受け取ってしまうのです。

つまるところ「誰かの仕事」的な匂いを感じてしまう、と。その仕事と自分を勝手にリンクさせてしまうのです。「ほら、みんな頑張ってるぞ。お前ならどうする?」みたいに。もうこれが辛くて。

ポジティブな気持ちの時にそれを受け取ったら「よし、俺も頑張るぞー!」みたいになれるのかもしれないですけど、残念ながらそうじゃないんです。

言葉が悪くて申し訳ないですけど、胃もたれしちゃう感じ。あまりにウンザリして「いやごめん見たくもないわ・・」とさえ思ってしまいます。勝手にそんなメッセージを作り出しているのは自分のほうなんですけど。

とにかく、もう全てにおいて仕事が関わってくるような気さえしていて、それは事実かもしれないですけど、勝手に自分の解釈でそう結びつけて、挙句の果てに自分で苦しんでいるんです。

最近のテレビCMとか見ていると、結構、転職を勧める風潮があったり、「みんな誇りをもって仕事しようぜ」的なメッセージを発するものがあったりしますよね。

いやそれはそれで前向きになれる人にとっては背中を押してくれる素晴らしいものであるのかもしれないですけど、でもそういうのを眺めていると、もう勘弁してくれと個人的に思ってしまうわけです。

正直、仕事なんて、そこまで自分の人生かけられるほどやりたくてやってるもんじゃないんだわ、と。やりがいはあればベターだが、毎回そんなものを感じていられるわけねえだろ、と。申し訳ないけど。

今日も明日も憂鬱だけど、生活のために、家族に不自由ない暮らしができるようにするために、そして自分が少しでも美味しいものを食べたり旅行に行ったりできるようにするために、ある程度仕方なく働いてるんだわ、と。

そのなかで、少しでも自分の得意なことや向いていそうなこと、やっていてそれほど苦ではないものを選ばせてもらっているけれど、基本的にやらなくていいならやりたくない。最終的に貰うお金のために、自分の生命を削るつもりはサラサラないです。

そんなふうな心境の現在の自分にとっては、「仕事とは・・?(←ここに入るのはきっと前向きな解釈)」みたいな等式を感じ取るたびに「ああ、もういいから」と辟易しています。

そこまで貪欲に「仕事」=「人生」=「ハッピーにしていこうぜ」と前向きにはなれない。この先どうなるか分からないけど、少なくとも今の私はそこまでのポジティブさは持てないわけです。

ですから開き直って恐縮ですけど、

もう嫌々やるのは仕方ない。

そもそも嫌だとかやりがいだとかそんなことはどうでもよくて。

仕事だからやる、お金のためにやる、それだけしかない。

でもやるからにはそれなりに良いパフォーマンスは上げたいと思う。

だからと言って私生活にまで食い込むほど仕事の領域を広げるつもりはない。

あくまで定時内で出来る限りの成果を上げたいと思います。

定時後や休みは知らん。

というスタンスでやらせていただくつもりです。誰に何の宣言してんだか分からないですけど。

クビにならない程度に成果を上げ、心が病まない程度に仕事と向き合う。今はちょっと仕事嫌だなのターンに入りつつあるので、意図的に距離をとって付き合っている感じです。

そんな最近の私の仕事との距離感でした。てか、誰がこの話を読んで一体何の役に立つと言うんだ?時間の無駄感すごい。お目汚し失礼いたしました。以上。おわり。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?