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正義と正義がぶつかり合っても何も解決しないどころかむしろわだかまりを残すという話。

先日、新しくオープンしたという道の駅に遊びに行ってきました。

しかしオープンしたばかりということもあり、施設内は大変な混雑ぶりでした。駐車場に到着するまでも渋滞。お土産を買うことのできる物産の店舗も行列。レストランに入るまでも長蛇の列。

ヘトヘトになりながらやっとの思いでご飯を食べました。あまりに混み合っておりお土産を買うことは諦めましたが、帰る前に「せめて食後のデザートでも・・」と思い、家族でカフェに立ち寄りました。

カフェの中もなかなかの混みっぷり。ただ、イートインの席には比較的余裕がありました。妻が会計をしている間に、子供たちを連れてテラス席を目指します。

混み合った店内で他のお客さんの間を縫って歩いている間、突然、こんな声が聞こえてきました。


「ぶつかったんだけど!?」


その声のほうを向くと、初老くらいに見える白髪の男性が不機嫌そうにこっちを見ていました。彼は自分の足を指さしています。私にはぶつかった感触は無かったので、恐らく私が手をつないでいた6歳の娘が、彼の足か何かにぶつかったのでしょう。

娘に「あの人にぶつかっちゃった?」と訊くと、コクンと頷きます。

そして私は一方的にまず「ごめんなさい、気づかなかったです。すみませんでした」とその男性に言い、頭を下げました。彼の言い分も聞きませんでした。その男性の表情は見ませんでした。

そうして逃げるように子供の手を引いて私はそのテラス席に向かい、テーブルについて、購入した商品を妻が持ってきてくれるのを待っていました。

ですが、待っている間、何だか黒い感情が自分の中に渦巻いていくのを感じました。

「あんなに混雑した店内で人と人の距離も近いのに、しかもこんな小さい子がちょっと足にぶつかっただけで、あれほど声を荒げて怒るってどうなん?」


と。

合流した妻にその話をすると「そうだね。その人は大人げないね。あんなに混んでいたんだし。そもそもその人はどうして欲しかったんだろう。子供に謝ってほしかったのかな」と賛同してくれました。

妻と話をしたことで、少し私の胸はすきました。

しかし、その日の夜になって一人考えていると、一度済んだはずの問題がまた頭をもたげます。

「腹立つなぁ。でも何故こんなに腹が立つんだろう。
 そもそも、私の行動は正しかったんだろうか」


よくよく思い出してみます。

私はその時、すぐに「ごめんなさい」と頭を下げてその場を後にしました。

なぜなら、私は自覚が無かったとしても子供が「当たった」と言っているのであれば、過失はこちらにある。そしてあれだけ混み合った中で「本当にぶつかったんですか?どれくらいの強さでぶつかりましたか?」という確認はできないと思ったからでした。人も大勢居ましたし、子供も安全な場所に連れて行かなければならず焦っていました。

だから、私が謝ることでその場が収まればいいだろうと考えたのです。

それはある意味、仕方が無いと言いますか、言い訳になりますけど、ああするしかその時の私にはできなかったのです。

でも、その結果、私の中には黒い感情が渦巻きます。

・混雑した店内
・幼い子供を連れていて周りが見えなかった
・子供がぶつかったかもしれない

こんな状況にも関わらず、ぶつかられたほうは、
それを許容できない器の狭さ


分かっている状況だけをまとめて論理を組み立てていくと、まるで私に正義があって「それくらい許すべきでしょ」という気持ちで居ました。

しかし普通に考えれば、やっぱりそれはおかしい。
この論理は私の事情しか考慮に入れていません。

もし仮に、そのぶつかった年配の男性は、見た目は丈夫そうであっても実は何か身体的に脆弱だったり、あるいは娘がぶつかった強さが凄まじいものであったとしたら、「痛い」と感じ、不機嫌にもなるでしょう。声を荒げて抗議するのは仕方ないかもしれません。

つまり、私は客観的な事実に基づいて行動をしていなかったのです。と言いますか、その時に判明している情報があまりに少なすぎたのです。

「本当に私の子供からぶつかったのか」
「ぶつかったのは体の何処か」
「どのくらいの強さでぶつかったか」
「その結果、ケガは無かったか」
「何を求めているのか(謝罪か、慰謝料か)」


もはや、今となってはそれを確かめるすべがありません。

本来なら、混み合った店内とか関係なく、その男性とコミュニケーションをとってそのようなことを確認すべきでした。私はそれを怠ったのです。そのために私はモヤモヤしていたのだと知りました。

「早く場を収めよう」そのように思って、ひとまず謝ってそそくさとその場を後にしてしまった私自身に対し、今更ながら嫌悪感を覚えてしまいます。その男性がどう感じて、どういうことを望んでいたか分からないけれど、それを知ろうともせずに勝負から降りた自分に、腹が立っていたのかもしれません。

「正しいこと」とは何でしょう。

当然のことですが、それは人によって違うのだろうと思います。私の正義。その人の正義。けれども、その正義同士をぶつけあっても恐らく何も解決は出来なくて。そしてそれはどちらかが我慢して正義を引っ込めれば済む話というわけでもなくて。

だからと言って「人それぞれの正義があって、それでいいんだ」とか、そういう耳障りの良いことが言いたいわけでもないのです。

理性的な我々に出来ることと言えば、きっと、このようなことくらいしか無いのかなと思います。

今どのような問題が起きているかを客観的に整理すること。
それを解決するために何ができるかを考えること。
それらのことを関係者で共有して認識を合わせていくこと。


一見、それって当たり前のことですし、何の面白味もない、大して画期的な方法でもないですけど、多分ちゃんと出来ているケースは少ないような気がします。

でも、そうしないと、恐らく未来は無いように思いました。大きな未来じゃなくても、自分が自分のために背負う未来と言いますか。単に、胸を張って堂々と歩いて行ける、そういう未来のために出来る話。

少なくとも、私はやっぱりどこか納得していないんです。その時の状況から逃げてしまったから。私に対してもその男性に対しても向き合うことをせず、解決するための手段を投げてしまったのです。当たり前にやるべきことをやれなかったのです。

今回のことを思い出して書き綴ってみると、改めて何だか、大人げないのは自分のほうだなぁと思えてきます。申し訳ないことをしました。いつもより短いですが、どうしても書いておきたくて。以上です。おわり。

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