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「大人になってからも、友達って・・」の話。

ふと、テレビでとあるCMを眺めていて、思ったことがあります。

こちら。
https://www.youtube.com/watch?v=YBfqZJioJrc


気になったのは、子どもの声で「大人になってからも、友達ってできるんだね!」というセリフ。

アタマを空っぽにしてこれを聞くと「へー、そうなんだー。近所に話の合う人がいるとたしかに楽しそうだなー。このハウスメーカーに家を建ててもらったら良いんだなー」とか思うんですけど、よくよく考えると、少し違和感がありました。

別に企業CMにケチをつけるわけじゃないですけど、「子どもからしたら本当にそんなことを思うものかな・・」って思ってしまって。

つまりそれって逆に考えると、このセリフには「本当は大人になると『友達』はできない(もしくは、できにくい)はずなのに」という枕詞が隠れているように思うんです。

それを前提にしていないと「大人になってからも友達はできる」という論理にはならないはず。

そもそも「友達」って作ろうと思って作るものというより、何となく出会って話してみて「何だか気が合うなぁ」とか「コイツ面白いなぁ」とか「一緒に居て落ち着くなぁ」とかそういう割とポジティブな気持ちになって、気が付いたらいつも行動を共にしているとか一緒にご飯食べたり遊んだりしているような、自然とそういう間柄になっている。そういう関係を「友達」と呼ぶのではないかと、私は解釈をしています。

逆に「コイツのこと大嫌いなんだよな」「気が合わないから話していてもムカムカする」みたいな感情を持ちながら接する人を、あんまり友達とは呼べないような気がします。もちろん、世の中には色んな関係がありますからそういう「友達」も居る可能性はあるでしょうけど。メリットだとか打算とか人脈的なこともあるかもしれませんから。

そうすると、子どもにとっては「友達」についての定義なんてどうでもいいでしょうけど、学校とか何処かの集まりで出会って仲良くなった奴らを「友達」と見なしているはずで、その状況で「大人になるとそういう『友達』はできない(もしくはできにくい)」なんて視点は、恐らく持つケースはあまり多くないんじゃないかと思うわけです。

だって彼らは、作ろうと思って「友達」を作っていないんだから。

勝手にできてしまうわけです。だったら、大人であっても「勝手に『友達』はできる」と思っていても不思議は無いと思ってしまうのです。

ですから、このCMの子どもが話したセリフはきっとリアルな子どもの感想ではなくて、大人が大人のことを形容して作り上げられたものなんだろうなと。あるいは、本当に子どもがそう思ったのであれば親などの身近な大人を見ていて「友達って大人になるとできないものなんだなぁ」という先入観を植え付けられていたからなんだろうなと。そう思うわけです。

結局、何が言いたいかというと、

実際、その通りなんですよね。
そのCMの通りなんです。

友達なんて、もうこの歳になると、勝手にはできない。

何なら、年を重ねるごとに減っていってます。私の場合は。

たしかに以前は友達は居ました。

学生時代、どうやって友達になったか憶えていないですけど、ちょくちょく話すようになって、休みの日に約束して何処かへ行くようになって、一緒にご飯やお酒を飲んだりするようになって、それって多分もう「友達」なんだろうなと思います。

小学校、中学校、高校、大学、あと社会人。

時代時代で、それぞれ「友達」ができていたような気がします。

しかし、アラフォーに差し掛かった現在。
彼らの大半はどこかに消えてしまいました。

それは物理的に消滅したわけではなくて、関係として疎遠になってしまったということです。今や連絡先すら知らない。知っていたとしてもそれはすでに古く、最新の連絡先は手元に無いというケースも多い。というか携帯電話のアドレス帳にあるそのほとんどがこれに該当しています。

昔は、あんなに夜を明かして語り合ったり、深夜に集まって騒いで飲んだりしていたのに、もう今や連絡すら取れない。

そうなると彼らはたしかに「友達」であったかもしれないですけど今となってはそれは過去のものになっていて。今の私にとっては彼らのことを(少なくとも、彼らにとっては私のことを)「友達」と呼ぶことはできないものなんだろうなと思うのです。

そう考えると、実に寂しくなります。

学校に進学するたび、付き合う人が変わる。そのたびに、かつて付き合っていた人は離れていく。さらに社会に出れば、また付き合う人も変わり、もしくは仕事漬けになりそのような時間さえ取れなくなる。そして結婚して家庭を持つようにでもなれば、さらにそれまで付き合っていた人たちと距離が広がっていく。

そうやって人生の区切りを一つ一つ迎えて、新たな環境に身を置くようになっていく中で、ポロポロと一人また一人と、私の中で「友達」と呼べる存在が姿を消してしまっていくわけです。

しかし、そういう中でも、私には、変わらずに連絡をよこしてくれて不定期にでも会う機会を作ろうとしてくれる人たちも居ます。

すごく失礼なことを言うと、以前はその人たちのことを特に「友達」とも考えておらず、社交辞令的に接していた部分がありました。

具体的に言うと、以前働いていた会社の同僚や先輩たち(ここではKさん、Mさん、Tさん)です。

在職中、彼らは私と直接的に業務上のつながりは無かったにも関わらず、仕事終わりに時々飲みに行くような関係でした。当時の私は「まぁこれも付き合いだよなぁ」と思って飲みに付き合っていました。その当時勤めていた会社の課長や係長、直属の先輩と一緒に飲み会をするのと同じような扱いで、彼らと飲みに行くことも「仕事の一環」くらいに考えていました。

ですが、心身を病んで私がその会社を退職した後、そうでないことが分かりました。私をかわいがってくれていたと思っていた先輩や係長、課長からは、一切の連絡は無くなりました。辞めるときには「また一緒に飲もう」みたいなことを言っていたのに。飲みの誘いはおろか、連絡先すら今では分からなくなった人も多数です。

それもそのはず、彼らにとっては私は「会社内の部下の一人」であって、別に会社を離れてまで連絡を取りたいと思うような人間ではなかったためです。

しかしそんな中でも、今でも、前述の Kさん、Mさん、Tさんからは不定期に飲みのお誘いが来ます。

その酒席は、私を説教するわけでも、何か業務の情報収集をするわけでも、仕事のコミュニケーション円滑化のためでもありません。単に「一緒に飲みたいから」ということで連絡をよこしてくれます。私を、会社の人間としてではなく、一人の「友達」として扱ってくれているように感じます。

昔の自分を恥じました。

以前は「仕事の付き合い」と思っていましたが、どうやら彼らにとってはそうではなかった。それに今更ながら気づき、嬉しく感じたのでした。

さて、話は飛びますが、先日、小学生の息子が授業の一環で社会科見学に行くという日がありました。

毎朝、近所に住んでいる子たちと一緒に登校班で学校に通っている息子ですが、この日は、仲の良い友人と一緒に登校するとのこと。息子とその友人は、今ではクラスは違うものの、それでも仲良しです。ですから待ち合わせして一緒に行くことに決めたそうです。

朝、いつもはダラダラしてなかなか起きない息子が、時間通りにシャキッと目覚めて朝食もしっかり食べ終えて身支度を済ませ、ソワソワしていました。約束の時間まで待ちきれず、家の前まで出て、友人を待ちます。我が家に面した通りの先にある曲がり角から、ようやく彼の姿が見えました。

「来た!」「おう、〇〇(息子の名前)!」
「行こう!」「うん!」

言葉は少ないものの、二人で並んで登校していきました。二人とも、社会科見学ですから、いつものランドセルではなくリュックを背負って楽しそうに歩いていきました。それが、とても可愛く、何だか胸がギュッとなるような思いがしました。

彼らの姿を見ていたら、なんとも無性に「友達」について考えてみたくなって、今回の記事を書いた次第です。

よく「友達は大切にした方が良い」なんて言うけれど、それは、何もしないとどんどん疎遠になっていくという事実とそれに対する寂しさから生まれた言葉のように思います。

決して打算的な意図であったり何か自分にとってのメリットということを考えて「友達」を扱う目的で生まれた言葉ではないと思うのです。

もっとも「友達が居ればすべてOKで、すべて問題なし、友達サイコーだぜ、みんな絶対友達作った方がいいぜー」なんてことが言いたいわけでもないです。世の中には自らに良くない影響を及ぼすような、とても「友達」とは呼べないような人も居ますし、友達が居なくても人生を充実して過ごすことも恐らく可能です。

でも、人生という何十年かの時間を過ごす中で、彼らが果たす役割は大変に大きいと個人的には思います。その存在はもしかしたら居なくても良いかもしれないけど、そう呼べる存在が居るなら居るで、心強く、楽しい時間を過ごす機会は増えるような気がするのです。

「友達」と呼べるような、そんな関係を続けていきたいと思うのあれば、多少無理をしてでも、時間を作って会い、物理的に会うのが難しければ連絡は絶やさずにし、語らい、酒や飯を食らったりして、同じ時間を過ごす機会を持ち続けるべきなのでしょう。

どんなに忙しくても、生活や環境が変わったとしても、「友達」であり続けたいのであれば。

私は恐らくそれができなかった。今になってそのようなことを思うのです。だから、あのCMのように「大人になっても・・」なんてフレーズを耳にして、心のどこかでそういう願いを一抹の寂しさとともに持ってしまったりするんだろうなぁと思うわけです。恥ずい。おわり。


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