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「心の底から」の話。

このところ、ネガティブな記事が続いています。

何だろうなぁ。

せっかくなら、そう思うこと自体も少し深掘りして書いてみようと思います。



さて、「心の底から●●する」という言葉があります。

はて、近頃「心の底から」何かするようなことってあるかなと考えてみると、何だか無いような気がするんです。

毎日毎日、仕事をして、家のことをやったりして、子供を叱ったりして、子供の可愛さにフッと心が緩んだりして、つい甘やかしたりして、たまに美味しいご飯を食べたりして、どこかに旅行にも行ったりして。

それは、何気ない日常だけれど、とても愛おしい、大切な幸せな時間であることは分かっています。

分かっているんですけど、じゃあそれらのことを全力で、望んで、それこそ「心の底から」やっているのかと言うと、ちょっと違う気がするのです。

何か、外的な要因によって、行動している。内側から湧き起こる何かに突き動かされているものではない。そんな気がするのです。

仕事をするのも、2%くらいは楽しい瞬間はあるけれども、残りの98%は面倒だったりやりたくもないようなことだったりするわけで、それらを「心の底から」やりたくてやっているとは、ちょっと言えない。仕方なく、やっている。

家のことや、家族と一緒に過ごす時間だって、全てが全て自分の納得できるような形で過ごせているかというと微妙なところです。子供は可愛いし、何物にも代えがたい存在であることはたしかです。

妻も、私の人生において唯一無二のパートナーで、大切な存在。この家も自分から選んで買って、今の生活に大きな不満は無い。むしろ、この暮らしが尊いものであって、それを幸せと呼ばないで何を幸せと呼ぶのかとも思います。

ですが、じゃあ、そこにあるものたちが、そこに流れる時間の中で、この自分が「心の底から」何か望んで行動して、その世界と繋がっているのかというと、やっぱり自信が無くなっちゃうのです。

父親失格、夫失格、もしかしたら人間失格かもしれません。けれども、こんなことは言いにくいですが、私の「心」を考えた時に、何だか心の底から楽しんでいるような感じがしないのです。

それは「心に嘘をついている」とかそういうことともちょっと違う感じがします。仕事は楽しい(こともある)し、家族のことは大好きで、今の生活は幸せ。それはそうなんですけど、何だか、自分の心がそこに無いような、そんなふうな思いを抱くことがあるんです。

たとえが適切か分かりませんが、少し書いてみます。

先日、職場で、飲み会のお誘いがありました。

私は、今の勤め先で働くようになってから、飲み会というものに参加することがほとんど無くて。別に飲み会自体は嫌いではないのですが、所属する部署内で公式でそういう催しが無いのです。もちろん仲の良い人たち同士では仕事終わりにやっているのでしょうけれど、私にはそのような間柄の人は職場に居ませんし、何より、仕事が終わればすぐに帰るようにしています。今や、在宅で仕事をする日がほとんどですので、さらにそういう機会もありません。

そういった中で、久々にそういった公の飲み会のお誘いがあったわけです。

その時、「まぁ都合が合えば参加しようかな」と思った一方で、「待てよ、飲み会に行ったところで、自分は何の話をするんだ」と思ってしまったんですよね。

それまで、別に意識することもなく、飲み会に行ったらご飯を食べてお酒を飲んで他愛もない会話をして、そうやって過ごしていました。

でもこの「他愛もない会話をして」の部分が、何だか、普段の自分が凝縮されたものであったんじゃないかと今になって思うのです。

つまり、普段自分がどのようなことを考えて、どのような行動をして、どのような出来事に遭遇してその時のことをストックして、自分なりに解釈をして・・というストーリーが「他愛もない会話」につながるものではないかと。

そして、今の私には、率直に言って、その「他愛もない会話」が出来る自信がありません。飲み会に行っても、何を話していいか分からない。

上で書いたように、

毎日毎日、仕事をして、家のことをやったりして、子供を叱ったりして、子供の可愛さにフッと心が緩んだりして、つい甘やかしたりして、たまに美味しいご飯を食べたりして、どこかに旅行にも行ったりして。

という日々の中で、自分の心にストックされるようなことが、もしかしたら何も無いんじゃないかと思ってしまったのです。

毎日、嫌なことも楽しいことも、頭に来るようなことも嬉しいことも、そういう出来事はたくさんたくさん自分を通り過ぎていく。

でも、本当に文字通り「通り過ぎる」だけで、結局は、何も自分の中には残っていないんじゃないかと。

「最近、どうよ?」

もし、そんなふうに誰かから飲み会の席で訊かれたとき、やっぱり私には何も答えることは出来ない。

もちろん、当たり障りの無いことなら言えますよ。

でもそれって、本当に自分の「心の底から」思っていることではなくて、たしかに色んな出来事が通り過ぎて、その中で多少なりとも思考をして行動したはずなのに、結果的に自分の中にほんの少しだけ残っていた上澄みみたいなものをペロッとすくって、仕方なく吐き出した言葉に過ぎないように思うのです。

何してたっけ。

何をして楽しんでいたっけ。

何に夢中になっていたっけ。


そういうことが、何だかポッカリ抜け落ちてしまって、ただ時間だけが過ぎてしまっているような。そんなふうなことを思ってしまいました。

今まではそのようなことなんてあまり思わなかったのに、どうしてそう思うようになってしまったのか。

それは、身近に、ガチで「心の底から」生きている人が居るからだと気付きました。

それは、子供、です。

我が家には小学生と保育園生の子供が居ますが、特に小学生の息子(小3)は、本気で毎日を生きているなぁと見ていて感じるのです。

喜ぶのも、落胆するのも、笑うのも、怒るのも、泣くのも。

何をするのにも全力。何か外の世界によって自分の行動を決めるのではなくて、常に自分の中から出てくるエネルギーによって行動している。それこそ「心の底から」それらをやっているように見えるのです。

大人がやるような、いえ、まさに私のような方法を採ってはいないのです。

何かの出来事があっても、頭と心を分離させて対処したり、楽しんでいる一方で何かに怯えたり危機に備えたりして、心で全力で体験しようとしないような。何かをするのは、何かのため。手段と目的がついて回る。常に、リスクやメリットを考えて、行動をする。そんな方法。

ですが、彼らには、そんなふうな素振りが一切無いのです。

何かを全力で楽しみ、何かに夢中になる。

何の準備もせず、何の損得勘定も考えず、ただただ自分が面白いと思ったことをやり、ただただ嫌だと思うことを全力で拒絶する。

感情むき出しで、今を生きる感じ。


そういう人生の使い方を、いつのまにやら私は忘れてしまったような、そんな気がしてすごく寂しくなりました。

疲れたな。

早くやらなきゃ。

こういう準備をしておこう。

気を付けないと。

気が付くとそんなことばかり考えている。

そりゃ、ネガティブにもなるわけです。普段私が考えていることや、やっていることって、はっきり言ってつまんないもん。自分でもそう思っているのに、何故か身体がそうしてしまうのです。

多分だけど、私は子供たちのことが羨ましくて仕方ないんです。勝手に大人になって、勝手に大人ぶってるだけのくせにね。

もうちょっとこう、何だろうな、頭で考えない練習が必要かもしれないなと思いました。きっと「心の底から」何かをしている時って、頭なんか使っていないような気がするんですよね。何となくそう思いました。おわり。

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