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知性はワイルド

ビチクソ感想文『動物たちは何をしゃべっているのか?』(山極寿一 鈴木俊貴・集英社)

シジュウカラの言語を研究し、動物言語学を創設した鈴木俊貴先生の飼い犬の名前はクーちゃんという。鈴木先生待望の初の商業書籍でありゴリラ教授こと山際先生との対談本でもある本書には、鈴木先生がクーちゃんと一緒に枝をくわえて四つん這いになって野道を進む写真が収められている。鈴木氏の真っ直ぐなまなざしもすばらしいが、クーちゃんの楽しそうな表情も素敵で、ずっと眺めていて飽きない。

わたしの家にいる猫もKooといって同じ名前だから親近感がわく。アルファベット表記にしている理由は、以前、文章を書いているときラップトップに飛び乗られたことがあって、退いてもらったあとに画面を見たら、「Kooooooooooooooooooo」と打ってあって心底おどろいたからだ。なんというアピール力。ちょっと恐怖。それ以来、Koo と表記している。

Koo は毎日外に出るワイルドな猫だ。これまでも多くの猫と暮らしてきたが、Koo ちゃんみたいな猫ははじめてだ。とあるご縁で引き取った猫で、川越の川べりに捨てられていた。生後2か月くらいのときに家にやってきて、3年くらいおとなしく家猫をしていたが、もともと野生味が強いせいか、大きくなると家のなかを暴れ回るようになり「外に出せ」とわめくようになった。周りの環境はちょっと緑がある程度で決して猫にやさしくないフツウの住宅街だから、あきらめてすぐ戻ってくると思って出したら、それ以来毎日欠かさず外へ行く。雨でも雪でも関係ない。(ちなみに去勢は済んでいる)

それから Koo は少しずつ散歩の範囲を広げていった。人間の心配などおかまいなし。1時間も2時間も帰ってこないと不安になった。それは今もそうで、そんなときは夜な夜な Koo を迎えに出るが、わたしが外へ出たあと、こっそり家に戻ってくることも多い。外で会えたときは、とてもフレンドリーですり寄ってくれるし、コンクリートの道路や駐車場や玄関のたたきでゴロンゴロンして親愛の情を示してくれるので、これがうれしいから探しに行くようなものだが、最近はどこかでわたしが出ていくのを見てから戻ってきているのではないかと怪しんでいる。

そんな Koo ちゃんも、じつは一度だけ8日間ほど帰ってこないことがあった。外に出始めて1年くらいした頃だ。あのときは生きた心地がしなかった。ペット探偵に捜索を依頼し、チラシ印刷に入ろうかという、まさにその夜明けに、とつぜん帰ってきて驚かされた。息が白くなるような寒い日、帰還を果たした Koo ちゃんはまるで英雄だった。堂々とシッポを立てて、少し痩せていて、ガソリンの匂いがした。城の家臣たち(わたしや同居家族)一人ひとりに元気よく声をかけて、カリカリをすごい勢いで食べた。まるで神話を目撃したような気持ちだった。

あれだけ生きた心地がしなかったのに、翌日からも変わらず外に出した。英雄にひと睨みされてしまうと凡人は震え上がるしかない。不思議なことに大冒険以降、日をまたいで家に戻らないことはなくなった。

そこからの Koo はすごくて、めきめきと力をつけた。スズメを頻繁につかまえるようになって、いままで何羽が犠牲になったことだろう。庭にすっかりスズメは来なくなった。ますます Koo は野生味が増した。

そして、つい先日のこと。連日の猛暑で最近の Koo はもっぱら夜に出かけるのだが、その夜は台風が近くなっていた。そろりと外に出た Koo は真夜中近くになっても戻ってこなかった。雨もぽつぽつ降り始めたので、心配になって探しに出かけるも見つからない。すれ違いで戻っているかなと期待したけど、それもなかった。

窓辺に寝転んでぼんやりして、再び偉大なる旅に出てしまわれたのかと不安に駆られた。ソシャゲでもして精神を落ち着けようと思ったら、またしても突然 Koo が窓の外に現れて驚かされた。いつも音もなく帰ってくる Koo ちゃん(ちなみに人間が気づかないときは容赦なく網戸をバリバリに破ろうとする Koo ちゃん)。目をこらすと、興奮しているようすで、なんとネズミを咥えているではないか。猫がネズミを捕まえるのはマンガだけの出来事じゃなかったのか。しかも雨の日の夜に捕まえてくるなんて、どういうことなのか。理解を超えていた。やはり Koo ちゃんは英雄だった。

『動物たちは何をしゃべっているのか?』によれば、動物たちの言語を調べるためには、森に入らないとダメだそうだ。動物園や人工的な実験環境にいる動物と、野生の動物のあいだでは必要なコミュニケーションが異なる。森で話されている言葉を探るには森に出かけるしかない。そして、森にいるシジュウカラの語彙は人工的な環境にいる鳥に比べて圧倒的に多いという。それは生命にとってより危険な環境にいるため、いろいろな能力を働かせないといけない結果だと考えられる。

猫の話に置きかえれば、家猫と野良猫は異なるということだ。我が家の Koo ちゃんは、はじめは家猫だったはずなのに、いまは野良猫に近づいている。半野良といってもいいかもしれない(半グレみたいで一番ヤバそうだ)。そして、あきらかに家猫にはない能力がめきめき育っている。危ない目にもあっているが、遺伝子によって備わった太古からの力を目覚めさせている。その姿は堂々としており、こうした環境でしか発揮されない猫特有の知性というものを感じさせる。同時に生命とはなにかを考えさせられたりもする(ハンティングの本能の恐ろしさよ)。

Koo ちゃんを見ているとインスピレーションを与えられる。昔から野生動物は人間にさまざまな霊感を与えてきたというが、動物に倣えば、わたしたちはもっと知性とはなにかを理解できるようになるのかもしれない。

人工知能がもてはやされて久しい。わたしも仕事でお世話になっている。だけど本当は人工知能よりも、スズメを捕まえ、ネズミを捕まえる、あの躍動する野良猫のような知性から感じられる、威風堂々とした佇まいこそがわたしたちをホンモノの知性に立ち返らせてくれるのではないか。――Koo ちゃんを見ていると、そう思う。

『動物たちは何をしゃべっているのか?』を読んで、鈴木俊貴先生が唱えている動物言語学はきっとそのような気付きと学びを人類にもたらしてくれるにちがいないと思った。

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