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進歩的な専門家は堕落しているか?はい、でも、それは内緒です

専門家が権威を振りかざし、オープンな議論ができなくなった分野は、世界に壊滅的な影響を与えるという論説です

要約

・自分を専門家であると信じている人は、意志、道徳、価値観を
 押し付ける役割に惹きつけられる
・権威によって専門家に異議を唱えられなくなるのは、科学に
 とってたいへん危険なことである
・私たちは、間違った理論が壊滅的な影響を与えている事態を
 リアルタイムで見ている

2022/11/18 Mises Institute
by Claudio Grass


世界が今日のような悲惨な状況に陥ったのは、学者、政治家、「著名な専門家」、「公認の権威」が自らの誤りを認める謙虚さを持たず、少なくとも知識の限界を認識しなかったことが大きな原因だと言えるだろう。もちろん、これは社会や政治体制における新しい悩みとは程遠いものである。傲慢は古代ギリシャ人が警告した最も恐ろしい罪の一つであり、最初の組織化された社会が出現して以来、権力の座に就くナルシストは数え切れないほど多く存在した。自分だけでなく、すべての人のことを一番よく知っていると信じている人は、自分の意志、道徳、価値観を隣人に押し付けることができるような役割に自然に惹きつけられるのだ

しかし、この問題は、我々の歴史のどの時代よりも、今日の方がはるかに広まっているということもできる。現代のニュース事情は、主流メディアもソーシャルメディアも、すべての先進国の超高速プロパガンダマシンも、そして公教育制度も、危険な人物が事実上「認められ」、「広く受け入れられた」権威として大衆に提示されれば、誰からも異議を唱えられなくなることを保証しているのである。これは政治家にも言えることだが、科学に関しては限りなく危険である。一般市民は、政治的なスタンスであれば直接的に疑問を呈しやすいが、科学的なスタンスであれば詳細かつ具体的な知識がなければその是非を判断することは不可能であろう。

したがって、教授から若手研究者まで、どんな学者でも「権威」として「売り込む」のはずっと簡単で、従わなければならないし、決して疑問を持たれることはないのである。彼らは、私たちの生活に自由に助言し、政策を決定することもできる。しかし、通常、そのようなことは、彼らが全く知らない分野で副作用をもたらす傾向があるにもかかわらず。一旦、台座に乗せると、彼らは「聖なる油を塗られた(神聖な)」存在になる。彼らは、自分の資格や業績、仲間からの証言を共有する必要すらなくなる。彼らの職業上の記録はともかくも、失敗の記録は関係ない。

結局のところ、訓練を受けていないAverage Joe (一般大衆)は、専門外の頭脳を使って彼らの履歴書や研究の詳細を判断することができるのだろうか? 気候学や感染症やマクロ経済学について、何を知っているというのだろう? 誰かが何十年もかけて一つのテーマに打ち込んできたことを否定し、自分の方がよく知っていると思い込むのは、思い上がりではないだろうか?

もし、オープンな議論と独立した思考が実際に奨励されている公平な世界に住んでいるのであれば、これらは公平な議論となる。そのような世界では、複数の専門家が公開討論を行い、異なる理論に関連する矛盾する知見や証拠を提示して互いに挑戦し合うだろう。その上で、あらゆる視点が検討され、吟味され、壮大なアイデアの競演が繰り広げられるのである。そして、現実の観測結果と一致し、より正確な予測能力を持つ仮説やモデルが理論に昇格し、それに基づいて政策決定が行われるようになるのである。

古い考え方は、より優れた考え方が出てくれば、簡単に歴史の灰の山に追いやられる。これが科学的方法であり、理性の産物である。しかし、今日見られる他のすべては、カルト的なメンタリティーの産物である。

そして、(オープンな議論ができなくなった)結果、期待通りの結果がもたらされる。つまり、破滅的に間違った「理論」が、国全体、さらには世界全体に壊滅的な影響を与えるのである。私たちは今日、このような事態をリアルタイムで見ている。

西側諸国の狂信的な狂信と、その指導者たちの「グリーン」アジェンダへの狂信的な執着は、かつてないほどのエネルギー危機をもたらした。ヨーロッパでは、「専門家の助言」に導かれ、過去10年の政策と化石燃料からの早すぎる移行により、ほとんどの国がほとんど輸入に頼ることになった。高騰する電気代はすでに数え切れないほどの家計を圧迫し、この自業自得の危機は、この冬に実際の人命を奪う可能性さえあるのだ。

この現象が痛切に感じられるもう一つの分野は、「dismal science (陰気な科学=経済学)」である。経済学の分野では、間違いなく、世界がこれまでに見たこともないような危険な権威を生み出してきた。例えば中央銀行や財務省など、ひとたび権力の座に就くと、彼らがもたらす混乱は恐ろしく、実に永続的である。なぜなら、一般大衆は最も基本的な経済原理さえも理解しておらず、貨幣の歴史も把握しておらず、使用される専門用語に威圧されるのも当然だからである。このため、中央銀行は政策がうまくいかないたびに簡単に責任をそらすことができ、「尊敬される経済学者」は、「現代通貨理論(MMT)」で見たように、無意味だが人気のある考えを「事実」として売り込むことができるのである。

オーストリアの経済学では、稀な例外を見出すことができる。この学派の経済学者は、経済が極めて複雑な生命体であり、ホモ・エコノミクス(経済的人間)やモデルの予測通りに行動する完全に合理的な実体は存在しないことをよく理解している。いや、そのような生き物は存在しない。私たちは、良くも悪くも人間だけを相手にしているのである。

ウォルター・E・ブロックは、最近の論文でこう述べている。

私は、オーストリアが経済予測に関わることを断固として拒否するのは、私たちの力の限界と一致しているからだと思います。
我たちは経済の現実を説明し、そのかなりの部分を理解することができますが、「他のすべてが一定」でない限り、少なくとも経済学者の立場では予測することはできないのです。

知的な謙虚さには大きな価値があります。私は、いつの日か主流の経済学者が、この点で自分たちのやり方の誤りを理解するようになると予測しているのでしょうか。しかし、オーストリアの経済学者として、私はそのような予測はしていません。

(了)



考察

ここ3年近く、コロナ報道については、様々な「専門家」と呼ばれる方々がテレビの中で危険性を指摘し、視聴者に恐怖を煽ってきました。しかも、その指摘の多くが間違いであったことが実証されているにも関わらず、過去の間違いを認めて謝罪や訂正を行う「専門家」は、一人として見当たりません。

私自身も、当初は情報の少ない中での「専門家」の見解を参考にしていましたが、PCR検査の不確実性、罹患者への不可解な治療、コロナ死認定の欺瞞が明らかになるにつれて、鵜呑みにしてはいけないと用心するようになりました。それが決定的になったのは、大臣がmRNAワクチンの危険性に全く取り合わず、国民全員に接種を推進したことでした。今まではある程度信頼できると思っていた日本の医療が、幻想だったのかもしれないと疑うようになりました。

そのときに思ったこととして、「もし、医学界の進めるコロナ対策が大きく間違っていたら、真実が明らかになった後は、誰も病院に行かなくなるのではないか?」という事でした。外科的な手術は無くならないかもしれませんが、少なくとも内科の診療に懐疑的な人が増えるのではないかと予想しました。(短期的には、癌治療や心疾患治療の需要は増えるかもしれませんが)

今後、医師個人の見識や能力を含めた医療全般に対する不信感が国民の中で高まれば、西洋医学とは別の(鍼灸や漢方などの)治療法を試すことが流行り出すのかもしれないと思っています。

これは、西洋医学という「権威の崩壊」です。

私は、近い将来、医療に限らず様々な分野での「権威の崩壊」が始まるのではないかと思っています。本文で指摘された分野以外にも、すでに崩壊が始まっている「政党」「官庁」「マスコミ」「宗教法人」などがあります。さらに「学術界(医学、歴史学、環境科学)」、「学校教育(東大、教員養成)」、「言論人(保守も革新も)」「国際機関(WHO、UNCEF、IMF、IOC、ノーベル財団)」「国際的指標(幸福度、環境負荷、報道の自由度)」などにも飛び火すると予想しています。

多くの人の知識が蓄積され、網羅的に体系付けられ、何らかの価値ある情報になったものを「集合知(集合的知性)」と呼ぶことがあります。それに対する言葉として、ある分野に詳しい(とされる)学者や知識人が示す情報を「専門知」と呼びます。この専門知の信憑性を裏付けるものとして既存の権威が利用されてきました。

今回のパンデミックについて言えば、「新型」である感染症に対しての専門家は存在しないはずなのに、政府やマスコミは専門家(らしき人物)を連日のように登場させ、病気の危険性と対策を語らせました。しかし一年もたたないうちに、SNSなどの助けを借りたAverage Joe達による集合知が、専門知の様々な矛盾点に疑問を呈するようになってきました。

そうなっても政府やマスコミは集合知による反論を取り上げることなく、オープンな議論を封殺しましたし、専門知を疑わない人達は、集合知による問題提起を「素人の戯言」「陰謀論」などと攻撃してきたことは、皆さんも実感している事ではないでしょうか。
(これは世界的に現在も続いていることです)

では、そのような議論の封殺が、なぜ可能だったのしょうか?

それは、国民の多くが生活実感と違和感のある報道であっても、思考停止をして、「権威」を盲信し、「権威」の下げ渡す情報を安易に拝領してしまった結果なのではないかと考えます。

昨今の私たちは、情報の収集、吟味、解釈を、様々な「権威」に頼りきって、世の中の動向を知るために手間や時間を掛けないことがスマートであるという考えに染まり、自分自身の感覚までごまかすようになってしまっているのかもしれません。

私は、情報収取に限らず生活全般で、この「コスパ最優先」の考え方を是とする若いオピニオンリーダーが、言論界での影響力を増してきたことを感じていました。

しかし、彼ら(と彼らの考え方に同調する人々)は、命に係わる問題の判断に、コスパを最優先することの危険性を認識していなかったのではないでしょうか?


実際問題として「権威」の示す情報だけに頼らず、「集合知」を求めて自分にとっての真実を探す作業はとても大変です。

例えれば、日々の食事に掛ける費用や時間を節約することを優先し、安価でお手軽なファストフードを食べることで満足し、栄養バランスや食品添加物の危険性に何の疑問も持たない食生活を送っていた人が、ある日、自炊に目覚めて、素材の吟味から調理法の工夫や自分好みの味の追及を始めるようなものです。

この自炊料理には、大手外食チェーン店のような最大公約数的な味は必要無く。自分の舌に合うものが美味しいという世界がすべてです。そこでの食べログの評価や、ツイッターの「いいね」の数は意味がありません。ですから、不味いと不評を買ったとしても、自分の舌が感じる美味しさに、他人という権威が入り込む隙間はないはずです。


最後に、「じゃあ、いったい何を信用したらいいの?」と問いかけてくる人。あなたは、知らず知らずのうちに他人(という権威)の意見に正解を求めていることに気付いてください。

ですから、この考察を読んで、「そうかな~?」「自分ならこう考えるよ」と感じてくれる人こそが、これからの権威崩壊の時代を、逞しく生きてゆけるのではないでしょうか?


そうかな~?