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あなたは病気になる、それに慣れよう

病気に対する、現代人の間違った認識を問う論説です

要約

・ゼロコロナ政策は、「人間であること自体が問題である」という
 考えを信じ込ませるものの一つであった
・権力者は、技術の進歩によって「人類は、死、病気、危険から
 解放される」という幻想を植え付けてきた
・コロナのデマとトランスヒューマニズムが狂気を作る

2022.12.10
OffGurdian by Todd Hayen

「ゼロ・コロナ」の手品

ゼロコビット(コロナ)、ゼロディジーズ(病気)、ゼロサフェリング(苦痛)、ゼロデス(死)は、非現実的な目標なのだろうか?

多くの国(特に中国)が「ゼロ・コロナ」のスタンスを取っているようだが、国民からCovid-19の発生を排除するためにかなり破壊的な努力をしている。人々をアパートに閉じ込め、逃げようとする人々を攻撃するなど、ファシストが好き勝手にあらゆることをやっている。

「ゼロ・コロナ」の状況を維持するためのこの努力は、国民を洗脳し、それによってコントロールすることを意図したアジェンダの、もう1つの部分である。権力者たちはそれを知っているが、彼らが支配している人々のほとんどはそうではない。

国民は「ゼロ・コロナ」を良いアイデアだと思うかもしれないが、それはファンタジーであり、通常、現実の世界の核心ではファンタジーはあまり当てにならないのである。

ファンタジーを非難しているわけではない。時には、一日をやり過ごすのに必要なこともある。しかし、これは個人的なファンタジーではなく、邪悪な意図を持つ権威によって押し付けられたファンタジーなのだ。これは手品であり、意図的な欺瞞である。欺瞞は、ほとんどの人に害を与え、ほんの少しの人に利益をもたらすように計画されたものである。

「ゼロ・コロナ」に関する手品とは何か?
それは、人間であること自体が問題であると、再び私たちに信じ込ませようとするものである。

今、世の中で起こっていることは、すべて同じ意図を持っているのではないだろうか。「Woke Culture(意識高い系)」、「Cancel Culture(表現の抑圧)」、「トランスジェンダー/アイデンティティ」問題。もっと例を挙げるべきだろうか?

人間の認知的不協和に手を出すのが好きな「権力者たち」は、人間を混乱させ、人間であることに不満を持たせるために、可能な限りのことをする任務を与えられているようだ。


人間の不完全性

生物学的に(人間的に)、ある性別に生まれた人々が、本当に自分の人間性に手を加え、別の性別のように「見える」ように改造することが奨励されるべきなのだろうか?

確かに、心理学的には人はあらゆる種類の「アイデンティティ」を「感じる」ことができ、それを行動に移すことさえできるが、なぜその結果、自分自身の物理的な「人間」の部分を破壊するのだろうか?

なぜ、脳にマイクロチップを挿入して、自然が意図したものより賢く、効率的にすることが奨励されるのだろうか?

このように私たちの性質を「変える」ために流動的になった結果、私たちは、自分が世に出たときから何らかの問題があるのだという考えに、ますます馴染んでいくのである。

永遠に生きられないこと、すべての病気を防げないこと、人生からすべての物理的な危険を取り除けないことを「欠陥」、つまり製造者のミスであると考えるのである。そして、その人間的な問題を補うために、狂気に走るのだ。

生まれつきの不完全性という考え方に「慣れる」とは言わない方がいいだろう。もちろん、これは私たち全員に当てはまることではないが、当てはまる人が私たちの中にいるのだ。

人間の「ありのままの姿」を変えたいという狂気の欲望は、どこから来たのだろうか。確かに、私たちは人類の起源からそれを見てきた。

明らかに人間は、他のすべての生き物のように自然環境と調和する生き物へとは進化していない。これは古くからある問題で、芸術、音楽、その他の心の創造性といった「良いもの」から、兵器、汚染、遺伝子操作といった「悪いもの」まで、「人間」のほぼすべてがこの重要な問題の一部になっている。


テクノロジーの進歩と、その功罪

私は、テクノロジーの進化に「悪いこと」を含めないことは難しいと考えている。「良いこと」と言えるものは、利便性、重労働の回避、寿命の延長などの効果しかなく、必ずしも崇高な業績とは言えない。

強いて言えば、衛生の進歩や苦痛の軽減は間違いなく「人類の良い進歩」に含まれるが、清潔な水やゴミ処理などの衛生の進歩は、人間が自然環境から人工環境に移ってから必要になったものだ...
他に何か提案はないだろうか?

言うまでもなく、この議論は複雑で厄介なものになり、場合によっては、(原始の)洞窟から移動すべきではなかったという議論に移行する可能性がある。「人類より優れている」という強迫観念を持たずに、人間らしく生きる方法はあるのだろうか。そして「人類より優れた存在」になることで、間違いなく超人的な上昇を遂げることができる技術水準にまで、私たちは到達しているのかもしれないのだ。

私たちの進歩は自然な動きなのか、それとも強制的な動きなのか。私たち全員が、あまりに速く進むように、あるいは最終的に破滅するような特定の軌道に乗るように操作されているのだろうか。もしかしたら、その両方が作用しているのかもしれない。

洞窟の時代、火を使って大衆を滅ぼそうとする支配者がいたからといって、火を求めるようになったわけではあるまい。しかし、原爆の発明も同じことが言えるだろうか。大日本帝国を破壊することは、本当に人類全体のためになったのだろうか。それよりも、このような恐ろしい破壊の方法を生み出す動機は、そのような道的なものではなかったはずだ。

コロナを治療するために人類が生み出した、もう一つの発明品であるmRNAワクチンの開発に、人道的な意図がないことが明らかになった時点で、私たちは人類は次の段階に到達しているのである。

これらのすべては、明らかに少数の人間の利益のために、多数の人間を犠牲にして起きているのだ。そして、このような事態を可能にした一因は、この生物兵器を大衆の体に容易に導入できるようにしたことであり、それは、人々に「神から与えられた権利」というものが、永遠に生き続けることができて自然の試練に直面しないことであると、確信(誤解)させることにあった。


「コロナのデマ」+「トランスヒューマニズム」     =「狂気の方程式」

もし私たちが「自然のルール」に従い、自分たちの身体を大切にしようとするならば、健康的な食べ物を食べ(これも上からの圧力で不可能に近い)、運動をして、害の少ない思考で心を満たし、人生に意味と目的を持ち、環境を汚染しなければよい。そうなれば、病気や「自然界の挑戦」は、私たちを耐え難いほど苦しめたり、最終的に私たちを殺したりするほど強力なものにはならないだろう。

私たちは皆、死ぬ。 私たちは皆、苦しむ。

(それなのに)私たちは、自然のシステムを回避し、テクノロジーに頼って生命の危険性をすべて消し去り、自然の摂理を払いのけることができるという終局にほとんど達しているように思わされている。

人々は、人間が作った薬や医療だけが、私たちを治すことができると信じるように洗脳されてきた。ほとんどの人は、人間の免疫システムが、ほとんどすべての病原体に立ち向かい、やっつけるという、その奇跡的な能力を全く信用していない。もちろん、免疫システムが対処すべき手ごわい病原体に直面するような、自然界のあり方に反した有害な環境を作り出すことも、その意図の一部である。繰り返すが、これは複雑な問題である。

しかし、コロナのデマが成功するためには、「人間は自然現象(ウイルス)に耐えることができない」という限定的な信仰を、人々に広めなければならなかった。これは常に幻想であり、ブギーマンとして作り出されたもので、それに立ち向かい払拭するには、人為的な予防策(マスク、ソーシャルディスタンス、ロックダウン)と治療法(インチキワクチン)に頼るしかないと人々は言われたのである。

これに、私たちはトランスヒューマニズム(現時点ではまだ空想に過ぎないかもしれないが)に向かって進み続け、痛み、苦しみ、病気、そして特に死を超越しているという狂気の主張が加わり、狂気の方程式ができあがった。


もし私たちが人間であって機械でないなら、あるいは(ナノであれマクロであれ)一部分を機械の助けに頼っているだけなら、私たちは病気になるはずだ。

単純明快である。これは自然の摂理であり、人類が原始の泥沼から這い出てきたときからそうだった。慣れることだ。(了)

Todd Hayenは、カナダ、オンタリオ州トロントで登録され開業している心理療法士です。彼は深層心理療法で博士号、意識研究で修士号を取得しています。彼はユング、アーキタイプ、心理学を専門としています。またToddは、あなたが読むことができる、彼自身のサブスタックのサイトを持っています。

https://www.shrewviews.com/


考察

今年に入り、ダイヤモンド・プリンセス号から2年以上過ぎても、相変わらず「ゼロ・コロナ」政策を続けている政府や医療界を腹立たしく思っていました。

しかし、多くの人が「いい加減にしろ」と感じてはいても、マスコミの煽りに乗ってしまい、自ら「ウィズ・コロナ」「アフター・コロナ」の生活に切り替えようとはしていませんし、3回目、4回目、5回目のワクチンを接種しています。

それは日本人特有の、空気を読む国民性が強く影響しているのだと思っていました。ですが、この論説を読んで、その理由が日本人だけの問題ではないことに気付かされました。

「コロナに罹りたくない」「コロナで死にたくない」と思う事は生物である人間として当然のことですが、この論説を読んで、「絶対に感染しない」「絶対に死なない」が、生物として不可能であることを忘れさせるような世論誘導を、政府やマスコミは行ってきたのだと理解できました。

なぜそんな誘導にまんまと引っかかってしまったのでしょうか?

マスクにせよ、自粛にせよ、ワクチンにせよ、私たちの多くが間違った判断をしてしまった要因には、普段の生活の中で「病気」や「死」というものを自分自身の責任として捉えてこなかったことに隙があったのかもしれません。自分自身による健康管理を重視せず、何かあれば医師や薬に頼ればよい、といった感覚にどっぷり浸かっていたということでしょう。

日本でも一時期、「自己責任」をいう言葉がトレンドになったことがありました。以前から、投資の説明などでは必ず出てきましたが、それ以外でも、SNSなどで他人に何かを紹介するとき、「自己責任でお願いします」と断りが入ることが増えた気がします。これは、昨今、情報の受け手側の方に無責任な人間が増えて、損害賠償訴訟を気にすることが起因しているのではないでしょうか?

マスコミは、何か不祥事が発覚するとスケープゴートを見つけ、徹底的に叩くことで視聴者にカタルシスを与えます。そこには善悪二元論があり、視聴者は、善側であるか第三者であるかの、常に批判されない立場でいることができます。(テレビ局が視聴者の態度を批判する番組は、「チコちゃん」以外見たことはありません)

キツイ言い方をすれば、そんな視聴者である私たちは、いつも判断基準を(政府、専門家、マスコミといった)権威に委ねることに慣れてしまい、不利益が生じたら「あいつが悪い」と批判することで、無意識のうちに、自分自身の責任を回避してしまっているのではないでしょうか。

ですからコロナ対策でも、「みんなの為に」という体の良い言い訳を与えられて、「自分自身の健康や死に対する責任」を他人に委ねてしまったということなのではないでしょうか。


そういえば、ワクチン接種が始まった頃に、もし副作用で亡くなった場合には、国から4420万円の補償が受けられるといった報道が流れていました。あれはどうなったのでしょう? 
結局、政府は因果関係を認めず、接種した人の「自己責任」として、頬被ほっかむりしているだけのような気がします。