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文化的生活

習慣としての「読書」

幼稚園の頃から、母親に連れられて図書館に行く習慣があった。公民館で生け花を習っていて、その隣にあった図書館には、導線にあることもあってよく行っていた。

図書館に一度行くと、返却期限があるのでまた行かなければならない。私の地域の図書館は期限が1週間だったから、毎週末行くことになる。

父親は図書館には行かなかったが、本をよく買っていた。母親は「不経済だよねえ」と言っていた。父親は池井戸潤が好きだった。

母親は自己啓発本やビジネス書が好きだった。私も、中学生のころは自己啓発本にハマって、やたら読んでいた。時には、母親の真似をして簿記の勉強をすることもあった。

感触として、本が読めるかどうか、これは、想像力がどうとか豊かな心がとか、論理的思考がとかそんな生易しいものではなく、「読めないと死ぬ」。デッドオアライブのレベルだと思う。本を読む訓練を積むこと、そもそも、本を読む環境にいること、それができないと、何かに殺されてしまう。

その他の「文化的生活」の断片

土日の昼は家でご飯を食べることが多かった。母親は「高いお肉とかじゃなくてごめんね」と言いながら、フライパンで焼いたホットケーキにはちみつとマーガリンを載せて、ナイフとフォークの使い方を私たち3人兄弟に教えた。

私は、皿に盛られた、特にソースなどがあるものは、ナイフとフォークで食べるとよいと学んだ。

私の通っていた学校の学童クラブ(両親共働きで家に大人がいない子どもが夕方までいるところ)では、夏休みにみんなでココスに行く行事があった。そこで私はクレープが皿に盛られたデザートを注文した。ナイフとフォークを使って食べようとすると「使えるところを見せつけようとしている」と女の子4人に揶揄された。

なんとなく気持ちはわかる。ただ、そういうときにナイフとフォークを使うと「気取っている」と思われるのだと学んだ。

これはほんのいちエピソードなのだけれど、そういう「ナイフとフォークを使うと揶揄される」みたいなことがいつだってあった。そういう微妙な地域に住んでいた。

頭が良いことは別に良いことじゃなかった。何だかみんな自虐的で、私は当然のように自分が好きじゃなかった。可愛くなかったから、勉強を頑張ったと思っていたけれど、勉強を頑張れない家もきっと多かった。



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